プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー


 


○○○プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー(本戦・3)○○○




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最後の授業が終わりざわめき始めた教室で、阿部はじりじりと焼ける胸を抱えたまま外を眺めている。溜め息をつくと、フッと窓硝子が白く曇った。


「―――雪、か」


屋内にいるのに吐く息が白い。何故か、という疑問は窓の外を見れば氷解した。いつから降り出したのか、綿毛のような物が空を舞っている。下を見れば、道路も剥き出しの黒土の上も、薄らと白く覆われているし。「寒ぃ」刺すように冷たい空気が頬に触れて振り返れば、開け放しの教室の扉。雪だ、雪だ、と騒ぐ声が廊下から聞こえてきた。










「なぁ、今日は雪降ったから練習無いってさ」
掛けられた声に振り向けば、一旦席を立ったはずの花井が戻って来ていた。どうやら練習の有無を職員室まで確認に行っていたらしい。
「え、マジで!やった!!」
「喜んでんじゃねーよ、この米!」
阿部、ひどい。と、言いつつもどこまで本気か分からない水谷は、すでに机の中身を鞄にしまっている。剣呑な目付きをする阿部を見て、花井が苦笑しながら外に目をやった。
「それにしても、よく降ってるな」
「ああ・・・」
四角い窓から見上げた空は、重い青灰色に覆われて白い粉のような雪を絶え間なく降らせている。この様子だと確かにしばらく止む事もなさそうだ。
練習が無いのなら、いつまでも学校に残っている必要は無い。
他のクラスには篠岡が連絡に言ったから、と主将に言われて阿部は黙ったまま頷いた。何の義務も残ってないのなら、尚の事、早く帰るに限る。
結局、水谷に負けないくらいさっさと荷物を纏めた阿部は教室を出ると、ほんの一瞬―――9組の方に目をやったが、すぐに視線を反らした。


「―――今更、聞けるかよ」


―――なんで昨日、黙って先に帰ったんだ、なんて。


何の制約も無い曖昧な関係に、振り回されているのは自分だけなのだろうか。それでも己の心の狭さによって潤んだ鳶色の瞳を思い出すと、鳩尾がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。それが『罪悪感』という名前だと分かっていても、今の阿部にはどうする事も出来なかった。



ただもう一度、外の景色に目をやると、重い足を引き摺るようにして歩き出した。









「なんだ、これ・・・」


自分の下駄箱の中へ乱暴に上履きを突っ込んだ、はずなのだが箱の突き当たりにおかしな感触がする。何も入れていないはずなのに、と手で探ると、そこには可愛らしくラッピングされた薄い箱が入っていた。お約束のように、ひらひらしたリボンを付けて、甘い匂いまで振りまいているようなそれを見るなり、忘れていた記憶が刺激される。


「―――チョコレートか」


今日はそんな日だったっけか。
やけに浮かれた水谷の顔とチョコを頭の中で並べて、流石の阿部もようやく思い出した。途端に、朝から落ち着かない教室の空気や、呼び出しに来た女子の様子にも得心が行った。気の所為か、甘い匂いまで漂ってきた気がする。だが、事情を理解したからといって、阿部は世間一般のように今日を喜ぶ気にはなれなかった。
―――こんなモン、喜んで喰う奴の気が知れねぇよ。
そもそも顔も分からない奴からの差し入れなんて、性格上口にする気になれない。そうかといって、食べ物を粗末にするのは心が痛む。
迷った末、家に持ち帰って適当に処分しようと(この場合は阿部の家族の腹に収まることになる)それを鞄に押し込んだ時、下駄箱の影からひょっこりと顔を出したのは、




「み、は―――田島か・・・」
だった。


「お、阿部、チョコもらってんじゃん」
「こんなモン・・・欲しかねぇよ」
咄嗟に、田島の後ろに彼がいないかを確認してしまう。
―――そういえば、アイツ。今日は結局、一度も教科書借りに来なかったな。
気がつけば、朝練が終わってからの今まで、阿部はあのふわふわした茶色の頭を見ていなかった。
これは、本格的に避けられているのだろうか―――尤も、その原因を作ったのは阿部自身なのだが。へこみかけたところへ追い打ちをかけるように、田島が力強く背中を叩いた。
「えー、今日はバレンタインだぜ。せっかく貰ったんだから喜んでおけばいいじゃん!」
じん、とした痛みに阿部は顔を顰める。この程度で大袈裟すぎると分かっていても、つい、この脳天気な四番の顔を睨んでしまうのを止められなかった。
「・・・・・・お前一人で勝手に喜んどけよ」
険しい表情の阿部に、田島の顔からも軽い笑みが消える。
「なぁ阿部。そんな顔してっと、貰える物も貰えなくなるぞ」
「何の話だよ」
「―――何の話だ、って・・・」
お前、本当に聞いてないの?咎めるような物言いに、阿部の苛立ちは益々酷くなった。
「何言ってんだか知らねぇけど、俺には関係無い話だろ!」
「関係ある!」
「じゃあ、何だよ!!」


はぁ、と深く一息つきながら、田島は彼にしては珍しく逡巡しているようだった。本当に聞いてないんだな、と念を押されて鷹揚に頷き返すと、田島も漸く話す決心がついたらしい。


「俺の口から話す事じゃないんだけど、な―――」


このまんまだと、あんまりにも三橋が可哀想過ぎるから。
思いがけなく飛び出した『三橋』の名前と、田島の話が進むにつれて、阿部の双眸が大きく見開かれた。








□□□








阿部に渡しそびれた紙袋を膝に載せ、三橋は一人部室で俯いていた。


練習が無いと聞いて教室を飛び出したのは、まだ一縷の望みがあったからだ。
だが、そんなにも急いで向かった7組の教室に阿部の姿は無かった。いつもは何も言わずに待っていてくれた阿部も、今日ばかりは先に帰ってしまったようで、悄然とした三橋は、
「や、っぱり怒ってる、んだよな・・・」
今朝の彼の態度を思い出して、深い溜め息をつく。
あれきり殆ど口も聞かないまま、放課後になってしまった。何がそんなに阿部の怒りに触れたのか三橋には分からないが、常から迷惑ばかりかけてる自分の事だから、気づかないうちに何かしてしまったんだろう。色々と思い返してみても、反省のタネには事欠かない。
寧ろ、今までよく付き合ってくれていたものだ、と可笑しくさえなってくる。
「それとも・・・」
ふいに、刺すような痛みが胸を襲った。
「阿部くん、誰かにチョコもらって、その子の事好きになっちゃったのか、な・・・」
あり得ない事ではない。阿部はああ見えて結構もてるのだ、と三橋も聞いた事がある。今日は特別な日だから、自分でなくても阿部にチョコレートを渡したいという女子はいるはずだ。
その「誰か」と阿部は先に帰ってしまったのだろうか―――


「そ、そんなの・・・や、だ」


想像の中で遠ざかる彼の背中は、隣に華奢な姿を連れていた。細い手が差し出すチョコレートを阿部が受け取る姿は、単なる妄想にしてはひどく説得力があって、握りしめた掌に爪が食い込むのも忘れて三橋は呻いた。
「阿部くん・・・、いやだ、よ」
こんな風になるのなら、休み時間にチョコレートを渡しに行けば良かった―――後悔という物は、いつだって振り返ってみる事しか出来ない。
朝の阿部の態度に気圧されて出来なかった、というのは只の言い訳だ。気になるのなら尋ねてみれば良かったのだ、素直に聞けば阿部だって答えてくれたかもしれないのに、自分の勇気の無さから目を逸らしていた。そのクセに「阿部なら待っていてくれてる」と都合の良い事を、心の何処かで信じていた。
―――いつも側にいてくれたから、手を握ってくれたから、阿部の気持ちを勘違いしてしまったのかもしれない。
想像は暗い焦りになって、胃の腑まで焼けるようだった。


「阿部くんの、気持ち。違う、のかな・・・すごくやだ、けど・・・そうなのかも」


思い浮かんだ考えに、三橋の心は揺れる。
勝手に自分と同じ気持ちだと思いこんで、チョコレートなんて買って。渡した時の彼の顔を想像して舞い上がったが、現実の阿部の態度は三橋の希望とは全く違っていたのだ。
結局、渡す事すら出来ないなんて―――なんて滑稽なのだろう。




暖房の無い部室の空気は冷たい。冷たすぎて、鼻の奥が痛くて、すん。と啜ると目頭が熱くなる。


「―――オレが、欲張り過ぎたんだ・・・」


もしかしたら―――阿部はこのままの関係で良いと思ってたのかもしれない。自分で呟いた言葉にさえ、胸が痛んだ。
声を掛け合う。手を繋ぐ。優しくて微睡んだ関係に我慢出来なかったのは、自分の方だ。
それでも、もっと阿部の近くに行きたかっただけなのに
―――違う。
唇から零れかけた言葉を、三橋はすぐに胸の内で否定した。
「近くに行きたかった、だけじゃ、ない」
手を繋ぐのでも満足できないのに、黙って側にいるだけなんて笑ってしまう。
もっと確実で、特別な物が欲しかった。
そんな物が、チョコレート渡せば手に入るような気がしていた。
朝練の前に渡そうと思っていたのだって、そうすれば誰よりも早く阿部に受け取って貰えると思っていたからだ。そこに計算が無かったといえば嘘になる。


「やっぱり、オレ、欲張り、だ・・・」






欲張りすぎてバチが当たったんだ。息苦しくて口を開くと、嗚咽はもう止まらなかった。
膝が震えて、載せていた紙袋がガサガサと耳障りな音をたてる。三橋は覚束無い手つきで袋の口を開けると、中から箱を取りだした。
「ふ・・・ぐっ・・う、うう、あべくん」
渡せなかったけれど、捨ててしまうのも憐れな自分の気持ち。せめて、この場で食べてしまおうと、三橋は歪なチョコレートを口に運んだ。
「・・・うっく・・・う、っ」
舌の上でざらりと溶けたチョコレートは―――苦くて、塩辛くて、余計に涙がこぼれ落ちる。


それでも、無理矢理飲み込んだ一欠片が、喉の奥に微かな痛みを残した時―――




「三橋っ!」




「う、ひっ!!」




派手な金属音と全開にされたドアから、ぴゅうと北風が流れ込んだ。
反射的に振り返ろうとして、三橋は止めた。


「阿部、く、ん・・・」


誰か、なんて確認する間でもない―――空気を震わせる音が、その人の気配を教えてくれる。


「―――でさ、それ何?」


感情を抑制した低い声が耳朶を打った。
背筋にぴりりとした痛みが走る。
嬉しいけど、怖い。
振り返りたいけれど、臆病な三橋にはなかなかそれが出来なかった。




後ろを向けばそこには、怒気も露わに阿部が仁王立ちしているに違いないのだ。










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