プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー


 


○○○プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー(本戦・FINAL)○○○





「な、何・・・って」
「お前が今、こそこそ隠れて喰ってるの。何かって聞いてるんだけど?」
「こ、これは・・・」
「チョコなんだろ?」
大股で部室に入り込むと、今更、誤魔化しは聞かないという風に、阿部は三橋の前でふんぞり返った。何か言え。と鋭い視線に晒されて身体が竦む。
「―――こ、これ、田島くんと買いに行ったんだ・・・」
「田島と、昨日?」
恐る恐る口を開くと、阿部の表情が僅かに和らいだ。
「う、うん・・・」
だが、答える合間にも、ひっくとしゃくり上げる音が口から零れる。涙腺が壊れたかのような大粒の涙が、破れた包装紙の隙間からチョコレートの上に滴り落ちた。
「昨日、ひょっとして駅前のビルでか?」
不思議なくらい真剣な表情で念を押す阿部に、三橋はこくんと頷いた。
「じゃあ、あれ、お前だったんだ―――」
ぼそりと呟かれた声に、三橋は顔を上げる。阿部の顔からは、先程までの怒気が消えていた。
「そっか、そういう事か・・・」
「阿部く・・・ん?」
何か考え込んでいるように真剣な表情に見惚れていたら、手からころりと食べかけのチョコレートが転がり落ちた。
「あっ」
「お・・・」
咄嗟に手を伸ばしたが届かない。そして、それに気づいた阿部は、素早くかがむと。足下に落ちていた欠片を躊躇なく口の中に放り込んだ。
「あ、阿部くん!そ、それ、はっ!」
「―――あ、これ、結構美味いじゃん」
まさか、阿部が拾い食いをすると思ってもみなかった三橋は、とにかく慌てた。ぽりぽりと囓る口元に手を伸ばし、汚い、よ。と言って早く口から出させようとする。一方の阿部は制止の言葉などさらりと聞き流して、満足気に笑ってまで見せた。
「別に、美味いんだからいいじゃん」
「よ、よくない!床に落ちたやつだ、し・・・」


「でも、これ俺の分なんだろ?」


「え―――」
咄嗟に頷けない三橋に、阿部は更にかぶせるように尋ねてくる。
「なぁ、これ『俺の為に用意したチョコ』なんだろ?」
「え、あ、ああ・・・」
その問いかけに、違うとも、そうだ、とも答える事が出来ずに、三橋はただ目を見開いていた。






あんなに冷たく感じていた部室の空気が、いつの間にか変わっている。小刻みに躯が震えて、膝の上の紙袋が丸ごと落ちそうな勢いだけれど、寒くはないし、むしろ顔は火照って変な汗が滲んでいた。
どうしよう。どうしたらいい。逃げる?でも、逃げられない。(部室の扉は阿部の背中の向こうだ)自問自答の言葉が頭の中をぐるぐると回る。当初の目的通り阿部が食べてくれているというのに、素直に喜べないのはどういう理由か―――いや、嬉しくないわけじゃないけれど、それよりも
「阿部くん・・・ど、して―――」
阿部がどうして事情を知っていて、あまつさえこれに手を出しているのかが、三橋には全く理解出来なかった。
「ほら、残りもこっちに寄越せよ」
だが、澄ました顔で手を伸ばした阿部は、三橋の膝の上から残りのチョコレートを取り上げた。
艶やかな褐色の固まりが、一つ、また一つと阿部の口の中に消えていく。そうして、呆然と眺めている三橋の目の前で、箱の中身は全て平らげられてしまったのだ。

「ごっそさん。全部喰った、美味かった」
最後に指の先についた分を舐めると、阿部は改めて三橋の正面に向き直った。
「あ、ああ・・・」
「三橋、どうした?」
―――息が、止まりそうだ、よ。
言葉は声にならなかった。美味い、という感想と浮かべられた笑顔を見て、椅子から転げ落ちてしまいそうな目眩が三橋を襲っていたのだ。今まで何処に隠れていたのか、信じられないくらいの熱がぶわりと身体の奥から湧いてくる。さっきまでの混乱や、羞恥心からくるものとは違う熱だ―――嬉しい。阿部の喜ぶ顔が。それだけで、こんなにも体が反応する。


「あ―――」


「―――三橋」


気がつけば、力強い腕に抱き寄せられていた。










□□□










―――誰もいない部室で泣きながら何を頬張っているかと思えば、チョコかよ・・・。
そんなに他の奴にとられるのが嫌だったのか。食い意地の張っている三橋ならあり得るな。と阿部が考えたのは、ほんの一瞬だった。
『ふ・・・ぐっ・・う、うう、あべくん』
薄く開いた扉の隙間から聞こえた声。聞き間違いかと思ったが、それはすぐに打ち消された―――三橋は確かに阿部の名前を呼んでいる。
「三橋っ!」
「う、ひっ!!」
堪らず部室のドアを全開にすると、口の周りをチョコレートで汚した子供みたいな顔で、三橋が振り返った。まん丸に見開かれた鳶色が、信じられない、といった風に瞬かれる。
「でさ、それ何?」
阿部としてはなるべく穏やかに話しかけたつもりだったが、低い声に薄い肩が竦められる。
「な、何・・・って」
「お前が今、こそこそ隠れて喰ってるの。何かって聞いてるんだけど?」
「こ、これは・・・」
「チョコなんだろ?」
隠される前に阿部は先手を打った。大股で部室に踏み込むと、三橋の正面に座る。無造作に破られた包装紙の間から、一口大のチョコレートが見えた―――状況から察するに、これが田島の言っていた『阿部の為のチョコ』なのだろう。
だが、あくまで田島と一緒に買いに行っただけ、と弁解する三橋に、阿部はふと思い浮かんだ事があった。
「昨日、ひょっとして駅前のビルでか?」
念を押すと、三橋はこくんと頷いた。
―――この辺りでは見かけない制服。明るい色をした柔らかな髪。特徴のある動きをした女子高生。
「じゃあ、あれ、お前だったんだ―――」
記憶を辿りながら呟いた言葉に、三橋が首を傾げたのが見えた。「そっか、そういう事か・・・」連想もするわけである。似ている、どころか本人なのだから当たり前だ。
それにしても良くあんな格好をする気になったもんだ、と半ば呆れ、半ば感心しながら目の前の投手の姿を眺めると、何故だかぽかんと口を開けて阿部を見ている。見ようによっては間抜けな表情なのだが、微かに赤らんだ頬と相まって「結構可愛いな」等と、阿部は些か桃色の思考に浸ってしまった。
「あっ!」
しかし、小さな悲鳴と共に、三橋の手元から食べかけと覚しきチョコレートが転がり落ちた瞬間。阿部の動きは実に素早いものだった。
「お・・・」
三橋が拾い上げるのより先んじて、阿部はその褐色の欠片を拾う事に成功する。「へ、え・・・」検分するように翳したそのチョコレートは、お世辞にも出来が良いとはいえない見てくれだった。
基本的にハート型、のつもりなのだろうけど、輪郭が滑稽なほど歪んでいる。
且つ、表面に浮き出た奇妙な模様に目を近づけてみれば―――それは非常に良く見知った渦巻き状の物―――つまり、これは人間の『指紋』なのだろう。
菓子の作り方など阿部だって知らないが、その全くの門外漢が見ても、これは明かな『失敗作』だった。こんな悲しい代物が店で売られているはずはない。
「―――なぁ。これ、ひょっとして手作り、なのか・・・?」
返事は無かったが、びくりと揺れた薄い肩が問いかけの正しい事を教えてくれる。
何をどうして、そういう経緯になったのか、までは知らないが、これは確実に三橋の手作りなのだろう―――しかも、阿部の為の。


分かってしまえば、もう迷いは無かった。
まだ混乱しているらしい三橋の手から、残りのチョコレートも箱ごと取り上げる。
甘い物は得意でないが、これ以上、泣きながら食べる三橋を見ているのは阿部としても御免だし、捨てられるのも許せない。


―――だって俺のモンなんだろ。


焦って止めようとする声も聞かず、口にチョコレートを放り込む。噛み砕くと、舌の上に微かにざらりとした感触。だが、口腔にまったり広がる甘さに反して、阿部の胸の内には焼けるような苛立ちが増していった。


―――なんで素直に渡さねぇんだよ。この馬鹿!


だが、その馬鹿は全て阿部の為の愚かさなのだ。
彼を好いてるが故に、三橋は女装してチョコレートを買いに行くなんて阿呆な計画を実行して。包丁を握った事も無いクセに、菓子作りなんか頑張って。
それなのに、失敗して、誤解されて、怒られて。何一つ良い結果を得られなかったのに、己を責めるばっかりで。


「三橋―――」

そこまで思い至った時、阿部は堪らず薄い背中を抱きしめていた。全部食べ終わった満足感を遙かに凌駕する強い感情が、腹の底から湧いてくる。


―――全く、コイツは・・・要領悪すぎだろ!


目の奥が熱を持つのを堪えて、ただ力を込めると、腕の中では硬直した三橋が、戸惑ったような瞳で見上げてきた。


「あ、あ・・・えっと」


あべくん。名前を呼ばれて視線を向けると、三橋の頬にふわりと紅が差す。弛んだ笑みを愛しいと感じたのは間違いないのに、次の瞬間、阿部の口から滑り出たのは自分でも予想もしない言葉だった。






「俺にくれんのって、このチョコだけ?」






―――こんな時にまで悪戯心が顔を出したのは、三橋が可愛すぎるからだなんて、誰が聞いても本当に笑えない冗談だ。












□□□












「え、チョコ以外に、何か・・・」
思いも寄らない阿部の台詞に三橋は愕然とした。しかし「そういえば、クラスの女子も本命にはチョコレートと一緒に何かプレゼントを用意していたみたいだ」と、思い当たっても、今、この場ではどうする事も出来ない。
そんな自分が、情けなくて悲しくて、止まりかけていた涙が、一粒ぽろりとこぼれ落ちた。
「オレ、な、何も無い、よ―――ご、ごめんな、さい」
チョコレートは小汚くて歪だし、
指紋とかついてるし、
プレゼントも無いし、
上げ連ねればきりがないが。何よりも肝心の想いを、まだ阿部に打ち明けられないでいるのが一番情けない。
―――こんな最低のバレンタイン、喜んで貰えるはずがない。
先程の阿部の笑顔を忘れて、三橋は俯いた。止まったと思っていた涙が、眦をじんわりと濡らす。


「ご、ごめ・・・な、さ・・・」
「おい、ちょっと、待て。ほら、そんなに泣くな。泣くなよ!」
だが、三橋が更に落ち込むのより早く、耳元で焦った声がして、固い手で目尻が乱暴に拭かれた。痛い、と抗議する暇さえ与えられず、顔がぐいと引き上げられて。瞳の奥、心の底まで見抜こうとするかのように、阿部の黒い双眸が覗き込んでくる。
「だって・・・」
「別に、本当に『物』が欲しいわけじゃねぇよ。そんなのは、このチョコだけで充分すぎるくらいだからな」
冗談だよ、悪かった。と呟いた阿部の頬が、三橋には微かに朱をはいたように見えた。
「じゃあ、な、んで・・・」
阿部はいったい何を言いたいんだろうか。
回転の悪い己の頭では、彼の欲しい物など何千光年経っても思いつかないかもしれない。でも、知りたい。
もし、阿部の欲しい物を自分が渡す事が出来るのなら―――三橋に迷いは無かった。




「―――お、教えて欲しい。阿部くんの、欲しい、もの」




三橋には、阿部が言外に「三橋がそれを持っているんだ」と伝えようとしている気がしていた。気のせいでなければ、きっと。珍しく自分の勘を信じてみようという気になったのは、今日が特別な日だからかもしれない。


阿部くんは何が欲しい?
チョコじゃない。
チョコレートよりも阿部が欲しい物。


だから、もう一度「教えて欲しい」と身を乗り出すと、阿部は何故かひどく緊張した面持ちになった。こほりと咳払いをして、乾いた唇を舐める阿部の仕草に心臓の音が跳ね上がる。まっすぐに向けられる視線がくすぐったくて、首を竦めると、何故だか少し笑われたようだった。


「―――じゃ、目瞑って」
「う、うん」
「俺がいいって言うまで、開けるなよ」
「あ、うん・・・」
言われるがままに目蓋を閉じると、空気が柔らかく動いた。頬に固い指が添えられて、くすぐったさに身を捩る。
「ほら、動くなよ」
「ご、ごめ・・・」
ふいに、間近で他人の体温を感じて思わず開きそうになる目を暖かい物が覆った。
それが阿部の手だと理解するより早く―――
「あ、べく・・・」
開きかけの唇に、初めて知る感触が降りてきた。








「―――これで、分かったかよ」
「あ、う・・・う」
「どうした?」


温もりがゆっくりと離れていくのに合わせて瞼を上げる。真っ先に目に入ったのは、不安げに揺れている黒い瞳だった。




「あ・・・いんだ」
三橋は自分の唇に指を添えると、何処か夢見心地のまま呟いた。
「何?」
「・・・甘かった」
「そりゃ、チョコ喰ったばかりだからな」
「そ、そっか・・・でも」
「でも?」
詰まらなそうに「なんだよ」と促されて、三橋は「ふひっ」と満面の笑みを浮かべる。


―――唇に残された温もりも、舌の上で広がる甘さも、幸せ過ぎて蕩けそう。


だから、その気持ちを、素直に阿部に伝えようとしただけなのだ。








「阿部くん、からチョコ貰えたみたいで、嬉しかった、よ!」








「・・・は、ぁ!?」


一瞬の間をおいて、
『ふざけんななんでそんな言葉がさらっと出てくるんだこれじゃあ立場が逆っていうか俺の面子が立たないんだよいつもは日本語足らないくせになんでこんな時ばっかり小器用に会話するんだよチョコは甘いのがあたりまえだろ俺はそんな事聞いてるわけじゃないんだよ!』
ぎゃあぎゃあ喚く阿部の顔が、盛大に赤く染まっている。














だが、当の三橋は


「想像してたよりも、ずっと嬉しい日になったな」


などと暢気な事を考えていたのだった。
















Happy end?









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