プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー
○○○プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー(本戦・2)○○○
そして、話はまた、前日に戻る。
阿部の目を盗むようにこっそりと部室を出た三橋は、駅に併設されたファッションビルのトイレの中に居た。
人の多いこの建物の中でも、比較的空いているフロアの手洗いなので人目をあまり気にしないで済む。
「田島くん・・・これ、本当に、き、着なきゃ駄目?」
「着なきゃ買いにいけないだろ」
「でも・・・」
さっきから何回この問答を繰り返したか。
目の前に広げられた一式の服を見て、三橋は、これも何回目か分からない溜め息をついた。
「とりあえず着てみろよ。俺の姉ちゃん女にしてはでかいほうだったから、三橋なら着れると思うんだよな!」
「着られる、かも、しれないけど・・・」
急かされるままに手を伸ばしてつまみ上げる。
ぴら、と揺れたのは見まごう事なくスカートだ―――それも、結構短い。更に、白いブラウス。柔らかなベージュ色のセーターと、チェック地のリボンと揃っては、これが女子高生の制服であることは間違いない。
「―――やっぱり、変だ」
チョコレートは買いたい。だが、買いに行けない。という三橋の為に田島が出した良案は『女の格好すればいいじゃん』という事だった。単純明快だが、実行には多大な困難を伴う良い例だ。
「変かどうかは着てみろよ」
「だ、だって、こんなの、すぐに、ばれる、よ」
「大丈夫だって、姉ちゃん学校はここら辺じゃないから、同じ制服の生徒には会わないって!」
問題はそこじゃなくて、もっと根本的な所なんだけど。という三橋の気持ちは、どうやら昨日の時点から置き去りになったままらしい。
とりあえず着てから考えろ。という、甚だ田島らしい押しに屈した三橋は、あまり気乗りのしないまま用意された制服に袖を通した。
□□□
「着たかぁ?」
「え、う、うん」
田島の言葉通り、制服のサイズに問題はなかった。少しばかり肩がキツイかな、とは思ったがその程度だ。その上、大きめのセーターが体型を丸く見せてくれたので、鏡に映った自分の姿は驚くほど違和感が無かった。
「なんだ、やっぱり大丈夫じゃん」
「そ、そうか、な・・・。でも足の間がすーすーするんだけど・・・」
「そりゃしょうがないだろ、スカートだもん。後は適当に化粧でもしてけば」
「け、化粧!!」
ひっ、と三橋の喉が鳴った。流石に流石、女物を着ろと言われても、そこまで考えてはいなかった。だが、慌てふためく三橋を尻目に、田島はごそごそと紙袋を漁って、中から使いかけと覚しきリップを取り出した。
「これも姉ちゃんのだけど、一回使うくらい平気だろ」
「うぇ・・・」
それは、どちらかと言えば、お姉様の方が嫌がるんではないだろうか。弟の友人とはいえ三橋は他人、しかも男に使われたと知ったなら、本当にただではすまない気がする。
「大丈夫だって、姉ちゃんにはちゃんと言って借りてきたから!」
「え、え、ええええ!?」
「あ、もう飽きた色だから、いくら使っても構わないって」
「あ、ああ、あ、うん」
果たして田島の姉は、どこまで事情を理解しているのだろうか。とことん得意げな顔をした四番を前にして三橋はふらつく膝を必死で抑えた。
―――もう、田島くんの家に、は、行けないよ!
今まで散々夕飯をご馳走になったりしたけれど、もうそれも今日までの話のようだ。
涙目になる三橋に、「クラスの女子が使いたい、って言っといたから安心しろよ」と暢気な説明が付け加えられる。
「そ、う・・・」
例えそうであっても、自分は当分田島家の敷居をまたげないであろう(どころか近所を歩く勇気さえない)。三橋は諦観にも似た思いで首を縦に振る。
こうして、田島の『良い案』は三橋の精神に多大な犠牲を課しながら始動したのであった。
□□□
そんな男のプライドと精神をざっくり削ったおかげで、三橋はなんとかチョコレートを入手する事が出来た。
あまりにも殺気に満ちた場と、周囲の視線が気になって、正直、参戦どころか逃げて帰りたいのが本音だったが。
『阿部くん、チョコ、阿部くん、チョコ阿部チョコあべチョコあべちょこ・・・』
最早「あべちょこ」という呪文と化した言葉を呟きながら、会場飛び込んだ。
そうして、甘い匂いと熱気と人混みに揉まれながらも阿部の為のチョコレートを掴み取ったのである。
―――だが、事はそれだけで済まされなかったのだ。
会場から出るなり再びトイレに駆け込んで着替えると、三橋もやっと安堵の息をつくことが出来た。
「良かったな、ちゃんと買えて」
「う、うん。田島くんの、おかげ、だ!」
戦利品を大事そうに抱え込みながら、三橋は久しぶりに笑った気がしていた。
これで明日阿部にチョコレートを渡す事が出来る。
受け取った時の彼の顔を想像すると、口元が自然と弛んでしまうのを止められない。気持ちに余裕が出来たので「どんなの買ったの?」という田島の質問にも、快く答えられた。
「阿部くん、甘い、のあまり得意じゃ無いって言ってた、し。なるべくシンプルなの、選んだん、だ!」
へぇ、ちゃんと考えて選んだんだな。と感心しきりの田島に、三橋は紙袋を手渡した。
「田島くんも、み、見てみる?」
「マジで、先に見ちゃっていいの?俺ちょっと興味あったんだよな」
だが、袋を開けて取り出した中身を見るなり、田島の表情が僅かに曇った。
「―――なぁ、三橋。これ『割チョコ』って書いてあんぞ」
「え、わ、わり・・・割る!?」
聞きようによっては、不吉極まりない単語を耳にして三橋は飛び上がった。
せっかく自分の想いを伝えるのに、付き合う前から別れるみたいな言葉は冗談でも止めて欲しい。
だが、無情にも、「あ・・・ほんと、だぁ・・・」シンプルなパッケージの前面に『割チョコ』の文字が躍っている。三橋の眉が、悲しいくらい情けない角度に下がった。
「―――これさぁ、手作りチョコの材料みたいなんだけど」
ひっくり返して裏を見た田島が首を傾げた。手作りするつもりだったのか、と問われて、三橋は慌てて首を横に振った。買うだけでも精一杯だったのだ。作るなんて、とてもじゃないが出来る筈もない。
それにしても、甘い物があまり得意でない阿部の為を思って、シンプルを旨に探したのが仇となったのか―――三橋とって売り場の中で、一番シンプルに見えたのは製菓材料のチョコレートだったのである。
「お、オレ・・・チョコ、なんて作れない、よ・・・ど、どうしよう・・・」
当然と言えば当然なのだが、これをこのまま阿部に渡すわけにはいかないだろう。
(そんなのはただの嫌がらせだ)
そうかといって、今から新しい物を買いに行く気力など残されていなかった。
「どうすっか・・・」
「ど、どうしよう・・・」
すでに半泣きの三橋と難しい顔をした田島。二人して額を小突き合わせると、あ、と田島の方が小さく声をあげた。
「な、浜田に電話してみっか?」
「え・・・は、浜ちゃんに?」
「あいつ家庭科得意じゃん、何かいい案思いつくかもよ」
「そ、そうだ、よね!」
ガタイの割に手先の器用な彼なら何か解決策を思いついてくれるかもしれない。
嬉々とした三橋は、早速携帯のメモリーを呼び出した。耳に当てると軽い電子音がする。
『もしもし、浜ちゃん―――』
それからが本当の試練の始まりであることも知らないで―――。
□□□
そして、話はバレンタインの当日に戻る―――
朝から苛立ちを抑えきれずに机に座っていたせいで、阿部にとって今日の授業はさっぱりだった。
今だって黒板を凝と睨み付けているのに関わらず、頭の中にたいした情報は残っていない。
触れるのも恐ろしいのか、朝練が終わってから水谷が一言も無駄口を叩かないのは助かるが、それ位の事で気分が晴れるわけもなかった。
『じゃあ、この問題の模範解答はこれだからな。ちゃんと数式の流れを理解してくれよ』
沈みそうになる頭に教師の声が響く。慌てて顔を上げ、ノートに並んだ数字の列と教師の書いた答えを見比べると、阿部は深い溜め息をついた。
「またかよ―――」
答えが違う。深く寄った眉間の皺もそのままに、見直しても答えは変わらなかった。どうせテスト前になれば、三橋に数学を教えるのは阿部の役目でもあるのだ。そうそう西広にばかり頼ってもいられない。(西広が嫌がった試しはないが、阿部はそう決めていた)
その為にも、きちんとした板書をとるのは必須事項なのだが、何故だか阿部の導き出した答えは正解とは程遠い数字だったのである。そして、それは滅多に無い珍事のはずなのに、今の授業では3回目だ。
「―――ちっ」
阿部は舌打ちとともに、教科書を机の中に押し込んだ。まだ説明を終えてない教師の声を遠くに聞きながら、思考は今朝から同じ所をぐるぐると廻っている。
朝からすっきりしないこの気分も、数学の答えが合わない事も、それもこれも全部三橋の所為だ―――と責任転嫁するのは簡単だが、本当は三橋の所為じゃない。
―――分かってんだよ、俺だって。
ぐしゃりと乱暴に髪を掻き回すと、終業のチャイムが鳴った。
「ねーねー、阿部」
休み時間に入るなり「今日は大人しくしている」と高評価したはずの水谷が側に寄ってきた。
「・・・なんだよ」
「6組の子が阿部の事呼んでるよ」
「はぁ?」
水谷の言葉に含まれる微妙な笑みが阿部の神経を刺激する。
むしゃくしゃした気分を被せるように険しい目付きで振り返ると、見たこともない女子が教室の入り口から怯えたように此方を見ていた。
「あんた、俺になんか用事?」
「ちょ、あ、阿部!」
自分でも苛ついているのが丸わかりの口調で疑問をぶつけると、彼女は顔色を失って「ごめんなさい」と走り去ってしまった。呼び止める暇など無い(つもりも無かったが)。華奢な後ろ姿が見えなくなった後、残されたのは、全く事情を理解していない阿部、無言のまま顔を背けた花井と、信じられないと目を見張る水谷の姿。
「―――っ、何だよ。俺が何したってんだよ」
あーあ。と水谷の口から溜め息が漏れる。
「阿部さぁ・・・、『なんか用事』はないんじゃないの?」
「知らない奴から呼び出されたら、普通まずそれを聞くだろ」
「え・・・だって、今日・・・」
「今日がなんだっていうんだよ」
「あ・・・」
絶句する水谷に背を向けて、阿部は次の教科の準備を始めた。後ろでまだ何か言われている気もしたが、少しも耳には入らなかった。
「朝から・・・何なんだよ・・・」
擦り切れて白くなった表紙の隅を見ていると、またこの苛つきの原因が浮かんでくる。
―――そういや、あいつ、また教科書とか忘れてねーだろうな・・・。
机の中に全教科を置き勉しているはずなのに、何故だか三橋は、よく教科書を借りに来ていた。教科書でない時は、辞書であったり資料であったり。とにかく、何も借りに来ない日が無いといって良いほど顔を出していたのに、今日は来ていない。花井や水谷に借りた気配も無いから、7組に来ることさえ避けているのだろう。
今朝の自分の態度を気にしている、とは思いたくなかったが、どうやら認めざるを得ない状況のようだ。
「畜生・・・」
本当は「たかが一日先に帰ったくらいで、随分な文句のつけようだ」と自分でも思っている。それでも、阿部は、いつもとろとろ着替えている三橋が待っている阿部の為に必死で手を動かしている様子や、10回に1回くらいの割合で三橋が待っている時、ふにゃりと弛んだ笑顔で阿部を見たりするのが
―――とても好きだったのだ。
□□□
『あ、あのさ・・・』
『阿部くん?』
『いや・・・』
『あ・・・』
『わりぃ・・・』
『い、いいよ』
偶然触れた指先を、追いかけるように掴んでいた。
阿部の手は恐ろしく汗ばんでいて、三橋の手はびっくりする程冷たかったのを昨日の事のように覚えている。
振り解く事なく握り替えしてきた三橋に、目頭が痺れたのも、
横目に見た首筋が赤く染まっていたのに、目眩のような感動を覚えたのも。
些細な空気の揺れさえも、すぐに思い出せる。
そうやって初めて手を繋いだあの時以来、阿部と三橋が一緒に帰るのは暗黙の了解となっていたのだ。
特にお互い告白などした間柄でもないが、手も繋ぐ仲だし―――と思い出した所為か無意識に口の中でも呟いてしまい、阿部は更に自分の気持ちが落ち込むのを感じていた。
たった1回。されど1回。
自分の受けた衝撃の大きさから、己の並はずれた独占欲まで再認識させられて、阿部は頭を抱えるしかない。
「どうすりゃいいんだよ・・・」
三橋が来ないのなら、自分から9組に行けばいい。
用事なんて、それこそ適当に作れるだろう。行って一言、今朝の態度を詫びればいい。昨日先に帰った訳だって、きちんと聞けばいいのだ。それ位の事、三橋なら素直に答えてくれるだろう。
だが、分かっていてもその一歩が踏み出せないのだ。
自分の優柔不断さに阿部が悶々としている間にも、休み時間の終わりを告げるチャイムが無情に鳴り響く。
次の授業の教師が教壇に立つのを眺めながら、阿部はこの時間も長くなりそうだと思った。
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