プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー


 


○○○プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー(本戦・1)○○○




翌日。


朝練に来た阿部は、当然のように不機嫌だった。
どれくらい不機嫌だったかと言えば、いつも並びのロッカーをつかって居る水谷が
―――何故か部室の隅で震えながら着替えているくらい不機嫌だった。


『おい、阿部に何かしたの?』
『分かんないよ、今朝来たら、もうこの状態だったんだから!』


「なんか言った?」


小声で交わされる会話に阿部が混じると、狭い部屋の空気がずん、と重くなる。
あああ、と言葉にならない声を上げて早々に部室からの脱出をはかれた数人は幸いだった。だが、それから出遅れてしまった数人―――例えば、着替えも途中の水谷とか花井とか、だ―――は更なる試練に晒される事になった。
(特に水谷は、ロッカーの中に入れっぱなしのスパイクを取りに行くという大試練が待っている)
その間も阿部は無言で着替えているのだが、恐ろしいことに、たいして進んでいるようには見えない。
あれは、何だ。一回外したボタンをまた閉めているのか?
いつもなら3分も待たずに着替え終わりグラ整に向かう捕手の背中を、何故俺達は延々と見続けているのだろうか。これは部室に満ちた冷気が見せる幻か?
『時計壊れてるか?』
『いや、壊れてないよ!!』
秒針の刻む微かな音は、規則正しくいつもと変わらない。
いつの間にか時計の針は、緩やかに四分の一周を終えようとしていた。
『そろそろ行かねぇと、モモカンからケツバットだよな・・・』
『ああ・・・』
『どうしよう・・・』
阿部の隣(水谷では無い方だ)で閉じたままのロッカーの扉を見つめながら、不幸な数人は苦い苦い溜め息をついた。


『それにしても・・・どうすっか』
『なぁ・・・』
『ああ・・・』


誰が口にしなくても、この試練の原因は、この場にいない投手に関する事だと見当はついている。
『やっぱな・・・』
『やっぱりだ、な・・・』
と、いう事は、だ。
この試練を解消する為には―――
『―――頼むから、早く来てくれ!三橋っ!!』
声に出さずとも、部員達の願いはただ一つだった
―――そして、今まさに。その祈りに応じるようにして、ドアノブが、きぃ、と微かな音をたてて回った。


『三橋っ!!』


「はよーっす!あ、阿部!相変わらず機嫌悪ぃな!」


しかし、期待に満ちた複数の眼差しは、一瞬で悲嘆にくれる事になった。
緊張感漲る部室に、ざんぶと大岩を放り込んだのは、今の今まで何故か存在を忘れられていた起爆剤。空気が読めないというよりも、読む必要性を全く感じていない田島様の登場だ。
「はぁ?何、それ?」
―――ぴん、と張り詰めていた空気が、180度反転。
ただし、反転したからといってこの冷気が和らいだわけではない。それどころか阿部を中心に、室内は滾るような熱気に覆われてゆく。ああああ、と崩壊した足取りの水谷が出口に向かおうとする。その頭の中は、すでにスパイクの事など考える猶予もないらしい。
『そ、そろそろ限界が・・・』
『俺も・・・』
蹌踉めく背中を見た残りの面子が「なにがなんでも、ここから出る。絶対に出る!」と最後の決意を固めた時
「あ、お。おはよ・・・」
田島の後ろから、明るい色の猫っ毛が顔を覗かせた。


「み、三橋っ!!」


“地獄に仏”とはこのことか、ざっと向けられた縋るような視線に、痩身がびくりと震える。だが、問題の捕手はそんな部員の態度に憤る事もなく(いつもだったら「三橋が驚くだろ、何すんだ!」くらい絶対に怒鳴っている)、少々鬱陶しそうな表情で、再び胸元のボタンに手を掛けた。


「・・・はよ」


ぼそりと呟かれた挨拶に、一同は揃って首を捻った―――「何か」が、おかしい。


『三橋がいないから機嫌悪いんじゃなかったのかよ?』
『ち、違ったのかな・・・』
『そんなわけないだろう、だってあの阿部だぞ!』
『そうそう、あの阿部なんだから!』


「あ、あの、阿部くん・・・」


そんな微妙な雰囲気の中、三橋は「ててて」と小走りに阿部に走り寄った。
その姿は見ようによっては、飼い主の元に走り寄る子犬のように見えなくもないのだが。不運な事に、本日その『飼い主』は、田島に指摘された事も相まって甚だご機嫌斜めだった。しかも、さっきまではボタンを外していたと思っていたら、いつの間にか着替え終わっている(3分どころの話じゃない)。


「なんだよ?」
「え、えっと、あ、あの・・・」
「用が無いんなら、そこどけよ。時間そんなにねぇんだから」
「え―――」


あべくん。呼びかけた形のまま、三橋は声を失った。
ここに至って、三橋も阿部の機嫌が恐ろしく悪い事に気がついたのだ。開きかけの鞄に突っ込んだ手が微かに震えていた。


「ほら、どけよ」
「あ・・・ご、ごめん」


すれ違いざま、らしくなくぞんざいな手つきで、阿部は三橋の肩を押した。
蹌踉めいたのは、阿部の力が強かったというよりも、三橋の足から力が抜けていたからだ。ぐら、と揺れた躯を田島が受け止める。
「おい、阿部!」
「・・・・・・」
「聞いてんのかよ、阿部!」
「・・・・・・っ」
一瞬振り返った黒い瞳に、僅かだが後悔にも似た色が浮かんでいた。
だが、それを振り払うように、阿部は顔を背ける―――彼の投手から。

「あ、阿部くんっ!」

田島に支えられていた三橋が身を乗り出したが、その時にはすでに阿部の背中はドアの向こうに消えていた。












遡ること二日前〜




―――どうしてこんな事になったのか。


考えれば考えるほど、三橋の思考はこんがらがってしまう。
そもそもの切っ掛けは、昼休みに耳にした会話だった。


「田島くん、明後日あげるからね!」
「おう、さんきゅ!楽しみにしてる!」
「あ、私もあげるから!」
「やったね!」


田島に声を掛ける女子が、口々に彼に『何かをあげる』と言う。
なんだろう、でも田島くんの誕生日はまだ、だよね。と首を傾げた三橋に、浜田が答えを提示してくれた。
「ほら、明後日。バレンタインだから。女子はそろそろ用意してるんだろ」
「う、おっ。ば、バレンタインか!」
言われたら確かにそうなのかもしれない。
そういえば、今週に入ってからなんとなく教室の空気がそわそわしていた。学校だけじゃない、自分の母親もそんな事を言っていたような、いないような・・・。
「お前、本当に野球しか興味ないかんな・・・」
ちょっと不憫。と言わんばかりに溜め息をつく応援団長。
「そ、そんな事な、いよ!」
「そうそう、三橋だってケンゼンな男子高校生なんだから。チョコくらい欲しいよな!」
「ち、チョコ・・・」
あの甘くて蕩ける褐色の固まりを思い浮かべれば、口の中に自然と唾が湧いた。
欲しいか?と問われれば迷い無く頷くだろう。
でも―――
「ほ、欲しい、っていうよりも・・・」
「どうした?」
「え、あ、いや、なんでも、ないっ!」
思い浮かべてしまった相手の顔に、三橋は盛大に赤面してしまった。
―――変だ、オレ、絶対に、変!チョコもらうより、も、自分が、渡したい。だなんて!
気づけば、妄想とのぼせ上がった熱を振り払うように手をバタバタ振っていた。浜田も田島も泉も不思議そうな顔で此方を見ている。
「おい、三橋。大丈夫か?」
そんなに熱かったら、窓開けっか?とわざわざ尋ねてくれる浜田に、慌てて首を横に振った。今は2月。日差しは暖かいように見えても、気温は低いのだ。そんな事をしたら、たちまち彼がブーイングの嵐にさらされてしまう。
「だ、大丈夫だ、から!」
「お、おう・・・」
「お、オレ、ね、お腹いっぱいになって、眠くなっちゃったから、寝る!!」
まだ火照る顔を隠すようにして、机に顔を伏せた三橋は、冷たい板に頬を寄せた。じんとした熱が吸い取られるようで気持ちが良い。だが、頭の中は、まだ先程の妄想でいっぱいだった。
―――ど、どうしよう・・・お、オレ。
実は、おおっぴらには言えないが、三橋と阿部とはお付き合いがある。
友達としてそれなりに、というよりは深く。でも、恋人だと宣言するには若干浅く。
近頃の阿部と三橋は、部活の帰りになんとなく一緒に帰って。ごくまれに手を繋いじゃったりする仲なのだ。
男同士で手を繋ぐ趣味が阿部になければ、これは所謂そういう感情が内在していると理解していいんだろうという事は、鈍い三橋にも分かっていた


だが問題は、お互いにはっきりと言葉にした事は無い。という事なのだ。


でも、もし、自分がチョコレートを渡したら―――阿部はどんな顔をするだろう。
迷惑そうな顔をされるのか、それとも喜んでくれるのか。常識からいったら前者が有力だか、何故か三橋には、滅多にない満面の笑みを見せる阿部の顔しか思い浮かばない。そうなれば話は一つだ。
―――こういうの、なんて言うんだっけ?思い立ったら、・・・そう、吉日だ!
この場合、数少ない三橋の国語のレパートリーが奇跡的な確率で正しかったのは、阿部に対する必死な想いがそうさせたのかもしれない。
なにしろバレンタインまで、後二日しか残されていないのだ。


「お、オレっ!やっぱり、チョコ、欲しい!」


がばりと起きあがって宣言した三橋の瞳は、固い決意で輝いていた。
「お、おう・・・や、やっぱ、そうだよな!」
「チョコ、ど、こで・・・」
「は?」
だが、チョコどこで売ってるのかな。という幼馴染みの言葉に浜田を首を傾げた。聞き間違いでなかったら、三橋は自分でチョコレートを購入するというのだろうか。その問いかけを、もらえる自信がない三橋がせめても・・・。と受け取った浜田は、余りの不憫さに涙がにじみそうだった。
「三橋っ!大丈夫だからな!」
そんな事しなくても、誰かがくれる。
きっとくれる。
お前の良さを分かってくれる子が絶対に一人はいるはずだ!
誰もいなかったら、俺がやる!
「え、は、浜ちゃん!」
力強く掴まれた肩を揺さぶられて、三橋が悲鳴を上げた。投手の肩を掴むなんて非常識極まりないと、浜田がもう一人の幼馴染み(泉)に
「お前がやるチョコなんて誰もいらねーよ」
と頭を叩かれるまで、時間は殆どかからなかった。










そして昼休みも終了のチャイムが鳴り、それぞれが自分の席に戻ってゆく頃。三橋の近くに田島が近寄ってきた。後ろから小声でそっと耳打ちをする。
「なぁ、三橋」
「た、じまくん?」
「さっきの『チョコが欲しい』ってのさ」
「う、うん?」
「やっぱ、阿部の為?」
あんまりにさらりと聞かれたので、釣られるように頷いてから、三橋はう、と言葉に詰まった。
「へぇ、やっぱなぁ」
ただでさえ要領の悪い性格をしているのだから、咄嗟に上手い言い訳など思いつくはずもない。呆然としたのは、ほんの一瞬だったが、次に三橋を襲ったのは強烈な羞恥心と目眩だった。
「た、たたたたじまく、んっ!」
「協力してやるよ」
しかし、焦りまくる三橋をよそに、田島は『にかっ』と笑って見せる。底抜けに明るいその笑顔を見て、三橋は驚くと同時に肩の力が抜けるのを感じていた。
田島がごこまで自分達の事を知っているのか分からないが、少なくとも「協力する」という言葉に嘘はなさそうだ。
「―――ほ、本当に、手伝ってくれる、の?」
「阿部の為にチョコ買いに行くんだろ。そもそも、三橋はどうやって買いに行くつもりだった?」
「そ、それは・・・」
確かに田島の指摘通り。
どうみても男の自分が女ばかりの売り場に行ったら・・・買うどころか、足を踏み入れる事もかなうまい。
「どうしよう・・・」
チョコレートは欲しい。絶対欲しい。阿部の為に、自分の為に。うっかり自分以外の誰かからバレンタインのチョコレートを貰う阿部を想像してしまうと、焦燥感は嫌でも増した。
「俺、いい案があるんだけど!」
「ほ、本当!!」
田島の言う『良い案』が本当に良かった試しなどあったのか(野球以外で)、この場に泉か浜田がいたら止めてくれたかもしれいが、生憎今その2人はいない。
喜んで飛びついてきた三橋に、田島は更に耳打ちをする。
「―――じゃあさ、放課後作戦練るかんな!」
「うん!田島くん、す、すごい!」
「絶対、阿部を喜ばせてやろうな!」
「オレ頑張る、よ!」
打席ばりに頼もしいオーラを振りまく田島の姿に、三橋はぶんぶん頭を振った。冷静に考えれば、作戦を聞く前から『すごい』だなんて分かるわけもないのに。








提案された『良い案』の内容に三橋が顔色を失うまでは―――まだ少しだけ時間があった。











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