プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー


 






視界の端を紺色のプリーツが翻る。綺麗にアイロンが当てられたそれは、くっきりと等間隔の折り目がついていて上に羽織った少し緩い感じのセーターと好対照だった。ベージュ色の細いゲージの編み目の上には、それよりも僅かに濃い色をしたクセのある髪が可愛らしいピンで留められている。短いスカートから伸びた足を、ぴったりとした同色のハイソックスで包んだ後ろ姿は、誰がどう見てもごく当たり前の女子高生だった。







○○○プリーズ・プリーズ・ヘルプ・ミー(前哨戦)○○○






ミーティングが終わった後、気がつくともう三橋の姿は見えなかった。いつも隣にいるから探さなくてもそのうちに現れるだろうと高をくくっていたが、いつになっても戻ってくる気配がない。いい加減シビレを切らした阿部がロッカーの扉を叩き付けるように閉めると、その音に反応したのは水谷だった。
「阿部、三橋のこと待ってんの?」
「・・・別に」
待ちぼうけを食らわされているのを素直に認めるのが癪で、物言いが自然とぶっきらぼうなものになる。水谷は、それを聞いても特に気分を害した様子もなく、ふうん。と鼻を鳴らすと
「三橋なら、さっき田島と帰ってるの見たよ」
スポーツバッグのファスナーを閉じながら、聞いてもいない事まで教えてくれた。
「・・・聞いてねぇよ」
「そうだった?じゃ、俺の独り言でいいや」
「余分な事、ぶつぶつ言ってんじゃねぇよ!この米!」
こわい、きゃー。纏めた荷物を肩にかけると、水谷は阿部の拳を避けて部室を飛び出した。その背中があっという間に見えなくなると、一人残されてしまった阿部も、のろのろとバッグを肩に掛ける。


こんな事なら、とっとと帰っとけばよかった。と思っても後の祭りだ。久しぶりに感じる侘びしさとともに部室の鍵を掛けると、暦の春からは程遠い北風が身に染みた。



「ったく、アイツ何考えてんだよ」
ぶつぶつ呟きながら自転車を走らせる。だが、考えたところで三橋の思考なんて理解出来ないと気づいたのは、割とすぐの事だ。せめて気分転換でもするか、と、駅に併設されたビルの中にある本屋による事にした。
「これ、なんだよ・・・」
しかし、地元唯一のファッションビルに入るなり、阿部は異様な熱気に気圧されてしまった。ほぼピンクと赤と茶色に彩られた煌びやかなディスプレイと、あまりの女子人口の多さに自然と足がたじろいだ。妙に浮かれた音楽に釣られて視線を上げると、頭上には非常に分かりやすいポップが踊っている。




『セントバレンタインデー〜大切な人に気持ちを込めて云々〜』




「そういや、そんな時期だっけ・・・」
そういえばここ数日、なんだかそんな話をしていた奴が野球部にもいた気がする。阿部は極めて冷めた視線を売り場に送った。なにしろ、独特の雰囲気を帯びて大勢が菓子に群がる様は、甘いというよりも暑苦しい。
まぁ、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、なんとはなしに見てしまうのが人の性(さが)なのだろう。
それにしても女ってのはすごいもんだ。あの人混みの中で甘い物を選ぶなんて正気の沙汰とは思えない。とりあえず自分は無理。絶対無理。あんなに甘い物に囲まれて、その中から何かを選ぶなんて、つくづく女に生まれなくて良かった、とも阿部は思う。
漂う空気まで甘ったるい気がして顔を背けると、混み合う場所から少し離れた所に佇む人物が目に入った。この辺りではあまり見慣れない制服を着ているが、売り場を必死で見つめている横顔から察するに目当てはやはりチョコレートなのだろう。
明るい猫っ毛と、どこか落ち着かない様子が自分の知っている相手を連想させて、阿部は無意識に彼女の姿を目で追ってしまう。随分明るい色をした髪の割に清楚な雰囲気だとか、薄く塗られた唇が気になったとか、細い割になんだか骨格はしっかりしてるとか、断じてそんな理由ではない。
人混みに紛れながら様子を伺っていると、黒いローファーを履いた細い足が一歩前に出る。が、また一歩下がる。細い首と、胸元のチェックのリボンがをふるふる振られて、また一歩前に―――出る下がる出る下がる出る下がる・・・。


「あいつ・・・」


一歩進んでは2歩下がる。2歩進んでは3歩下がる姿に、阿部の苛立ちは加速度的に増していく。この手の忍耐は大分ついたと思っていたが、まだまだ精進が甘かったようだ。
(『なんだよ、何がしたいんだ!買うつもりならとっとと買いに行け!!』)
「ぐぅ・・・・・・」
かろうじて怒鳴り声を喉の奥に押し込んだが、僅かに漏れた分は唸り声となって阿部の口から出てしまった。脇を通り過ぎたOLの不審気な視線から、さりげなく身をかわす。
「―――ちっ」
だが、幸いな事に『彼女』の耳には入っていなかったらしい。
―――頭冷やせよな俺も・・・。
そもそもが赤の他人なのだ。見ず知らずのヤツに「早く買いに行け」などと怒鳴ったら、それこそ迷惑・・・どころか「あやしい人」に認定決定だ。
それにしても、なんでこんなに気になるんだ。それはやはり、どこか三橋に似てるからだろうか。三橋の気の抜けた笑顔を思い浮かべて、阿部は思わず自身のこめかみを両の拳で抉った。
「くっそ・・・なんで黙って先に帰るんだよ」
結局、帰結するのはその点らしい。別に約束していたわけではない。でも、そんな事をしなくても阿部はいつでも三橋を待っていたし、三橋も同じだった。今日までは。
「―――やっぱ、頭冷やさなきゃ駄目だわ・・・」
売り場の回りをおろおろと歩いている彼女の事は気になったが、このままでは埒があかない。無理矢理視線を引き剥がして、阿部は当初の目的である本屋に向かおうとする。
「おーい、まだ買ってねぇの」
だが、売り場を抜けようとしたまさにその時、己の心を代弁したかのような声が阿部の耳に入ってきた。
「田島・・・?」
しかも、どことなく聞き覚えのある声に振り返ってみれば、さっきの女子高生の側に見間違えるはずもなく西浦の四番が立っている。今の今まで彼女を放って何処へ行っていたのやら、親しげな雰囲気で会話をしているのを見れば、何故だか苛立ちが募った。話している内容はここまで伝わってこないが、気の置けない感じは嫌でも分かってしまう。
「なんだよ・・・あいつ。三橋はどうしたんだよ・・・」
一緒にいるはずの三橋の姿が見えないのが、不満のようなそうでないような。曖昧かつ自分でも分析しきれない感情に阿部は翻弄された。このぐちゃぐちゃした物を何処にぶつけたらいいか分からない。
田島に背中を押された『彼女』が、ふらふらと売り場に向かって歩き出すのを横目に足を速める。
「・・・関係ねぇよ」
先に帰った三橋も、田島の連れている彼女も、胸焼けのするような甘ったるい匂いも、全部さっさと忘れてしまいたかった。





半ばやけくそになって買った雑誌が先月号で、自宅の本棚に同じ物が入っている事に阿部が気づいたのは、風呂も食事も済ませた後の事だった。

おかげで、ただでさえ行事に疎い捕手が、翌日が何の日かをすっかりさっぱり忘れてしまっても、それはそれ―――仕方がなかった事なのかもしれない。










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