【Limted*time(期間限定)】・9



「なんで、俺が・・・」
「行かないなら、行かなくていい。でも、これが原因で三橋が調子崩したりしたら、俺達の誰も納得しないと思うけど」
「くそ・・・」


こういう時、何て言えば一番効果的なのかを此奴は知っている。決して押しつけるような口調ではないが、譲らない。俺は腹の脇で、強く拳を握った。


―――だが、今更、三橋と何を話せばいいというんだ?


最初から、3ヶ月だけ付き合うという約束だった。目論みと違ったのは、期限が切れた後、振られたのは三橋じゃなくて俺だった、というだけで。
ミーティング中、ただの一度も視線の重ならなかった相手にどうすればいい。
考えれば考えるほど、俺の足は破れかけた砂袋のように、ぐずぐずとその場に崩れ落ちそうだった。


「阿部っ!」


このままでは埒があかない、と見たのか、栄口の声に厳しさが増す。


「分かってんだよ、言われなくても!そんな事、分かってるんだ・・・」


掌に爪が食い込んで、鈍い痛みを訴えていた。脈拍の流れに合わせて、痛みは手から頭へと這い上がる。だが、どんなに痛くてもこの感情は誤魔化せない。消せない。そんな深みに俺は嵌っているのを自覚した。


「・・・俺だって、・・・分かってんだよ」
「阿部・・・」


じゃあ、何故。という疑問をアイツは口にしようとしたのだろう。
だが、物言いたげにひらいた唇が、出だしの発音の形で固まった。驚いたような(いや、実際驚いていた)視線は、俺達の斜め先に釘付けになっている。


「なんだ・・・よ」


釣られるように俺は首を回し、栄口にそんな顔をさせた奴を視界に入れようとした。


「あ―――ああ・・・」



予感はあったのかもしれない。

ミーティングを終えた教室は、折からの夕暮れに赤く染められていた。そういえば今日は天気が良かったから、夕焼けもこんなに綺麗なのか。と、馬鹿みたいな事を思いつく。全身に込めていた力を抜いてゆるゆる掌を開くと、頭の痛みもいつの間にか引いていた。


「お前―――」


四角い窓から差し込む暖かな色の光は、室内のあらゆる所で反射して、たった一つの場所に集約されている。震える唇が、名前を綴ろうとして失敗した。


「あ、あ、ふぇ、くんっ」


はっ、はっ、と荒い息づかいが聞こえる。額を拭う仕草を見ても、この時の俺はあまりにも呆然としすぎていて、此奴が駆け戻ってきた事を咎めるのも忘れていた。


「阿部、くん、お、オレ・・・っ!」



柔らかそうな明るい色の髪を、夕日でさらに球児らしからぬ色にして―――三橋がそこに立っていた。










それからの三人の中では、栄口の行動が一番早かった。ぽかんと開いていた口を綺麗に閉じると、柔和そうな笑みを浮かべて三橋の方へ歩いていく。


「じゃあ、後は三橋に頼んでもいいみたいだな」
「ふひ、え、あ、う、ううん」


すれ違いざまに軽く肩を叩かれて、ふわふわ頭が激しく上下に揺さぶられた。


「大丈夫、だ、よ!」
「そっか」


頑張れよ。と俺に対しては見せない類の表情をして、栄口は教室を出る。だが、去り際にふと振り返った奴の顔は、確かに此方を見て笑っていたようだった。









□□□








「今回は、花井が背中押してやったの?」


教室を出た栄口の目に、壁に寄りかかる長身が映った。


「仕方ないだろ。彼奴等があのままだと、これからの試合もどうなるかわからないからな」
「ま、ね。それにしても、やっぱり三橋は強いよな。阿部なんて、あれ程言ってやったのにぐずぐずして・・・」


それでも、前回に比べれば大分穏やかな表情をしているので、彼の怒りもさほどでないのだろう。


「それにしても、自分が落ち込むくらいなら喧嘩なんてしなけりゃいいのにな」


阿部の奴、と付け加えた主将の顔を、副主将は何か奇妙な物を発見したような顔で見つめた。


「花井ってさ・・・」
「なんだよ?」
「いや、意外に鋭いっていうか鈍いっていうか、微妙だな。と思っただけだよ」
「はぁ?」


別に分かる必要もないけど。何気ない独白は、ころりと廊下に転がった。しかし、花井の疑問に答える様子もなく立ち去ろうとする背中は(理由は不明だが)、機嫌も完全に回復したようだ


「・・・なんだよ。結局、俺だけが胃に穴空きそうだったのかよ」
「だから、なんの話?」
「なんの、って。阿部と三橋の喧嘩の原因・・・栄口は、知ってんだろ?」
「喧嘩・・・まぁ、喧嘩は喧嘩だね」


緩く首を振った彼は、それでも答えを明示するつもりはないらしい。それどころか、花井は分かんなくてもいいんじゃない。と軽い調子で付け加えられて、坊主頭にまで皺が寄りそうな勢いで主将は顔を顰めた。


「なんだよ・・・胃が痛かっただけ損って事じゃないか・・・」
「まぁ、それでも明日になって、いつも通りのバッテリーに戻ってるなら。花井だって、そっちの方がいいだろ」
「そりゃそうだけど・・・」


納得している訳ではないけれど、阿部と三橋が仲直り出来るのなら、こんな疑問は些細な事だ。


「でも―――本当に、大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫、大丈夫」
「なぁ、栄口―――」


何笑ってんだよ。と言いかけた言葉を花井は飲み込んだ。この副主将が笑って「大丈夫だ」と断言するのなら、確かにあの二人はなんとかなるのだろう。


「気にするだけ損なら、気にしない気にしない・・・」


口の中で呪文のように繰り返すと、微かに笑う声が聞こえた。


「そう、気にしない、気にしない」
「・・・気にしない」


帰り際、花井は一度だけ立ち止まって振り返る。
無意識に呟いた「頑張れよ」は、どちらに対してなのか


「それも、気にしない方が・・・いんだよ、な」
「そうそう。花井は考え過ぎなんだよ」
「分かったよ」


栄口の、自分の頭の中を読むかのようなタイミングに苦笑が零れる。


「―――ああ、そうだ。そういえば、さっきのミーテで忘れてた事あったんだけど」
「じゃ、途中まで帰りながら話そうか」
「ああ、予算のとこなんだけどさ」


せっかく、主将と副主将が一緒に残っているのだ。この際、少しは有意義な時間の使い方をしたい
ものだ。今度こそ振り返らずに、二人は歩いていく―――明日の朝になれば、いつも通りの西浦バッテリーが自分達の前にいる事を信じて。







□□□







「あ・・・え、と」


弾む息を必死で宥めながら、三橋が口を開こうとする。俺は、といえば、非常に情けない事にさっきから、ただの一歩も動く事が出来ないでいる。栄口が教室を出てから、一歩も、だ。


「あべく、ん・・・」


薄汚れた上履きが踏み出すと、床が、きゅ、と鳴った。頬を染め、薄っすらと浮かんだ汗が微かに残光を照り返す。貼り付いた額の髪を手で払うと、三橋はまた一歩、俺に近づいた。



「阿部くん。お、オレ・・・」


窓から差し込む夕日は、急速に明度を落とし始めていた。明るい橙色だった光芒は、藍色の混じった紅に変化して、つられるように室内の影も濃くなり始めている。そんな中で、まっすぐに俺を見据える三橋の眸には、何処か見覚えのある強い光が湛えられていた。
(近づいてくる三橋の歩みに合わせて、足が動く―――アイツに向かってじゃない。後ろに、だ。)
踵が硬い物に当たる感触がして、さっきまで座っていた椅子が倒れる。


「あ・・・」


薄い身体がびくりと揺れた。か細い声に胸が締め付けられるように痛み、俺は一瞬顔を背けてしまう。


「ごめん・・・」


だが、三橋の歩みはそこで止まった。


「ごめん、な、さい・・・」
「なんで・・・お前が、謝るんだよ・・・」


謝るんなら、誰がどう考えたって俺の方だ。そう、いつもみたいに怒鳴りつけてやりたかった。それなのに、乾ききった喉からは掠れた音がひゅう、と出る。


「だって、やっぱり・・・」


三橋は、睫毛を伏せて躊躇うように唇を噤んだ。不安定に揺れる視線の合間に、見慣れた弱々しい色と先程見せた強い光が交互に瞬いている。



それは、ひどく不思議な眺めだった―――



過ぎるくらいの脆さと、望んだ物(マウンド)に対する畏怖する程の執着。同時に存在する事が不可能とも思えるものが、三橋の内で混じりあい、俺へと向けられている。


―――そうなんだ。今、コイツの全ての感情が俺に向かっているんだ。


『阿部くん、オレは・・・』


今すぐに、抱きしめたい、触れたい、近付きたい。
湧き起こった衝動は、自分でも抗いがたいほど強く渦巻いて、己のしでかした過去を棚に上げて手を伸ばしてしまいたくなる。


『す・・・』


錯覚かもしれない。都合良くねじ曲げた解釈で、俺は、また、三橋の事を傷つけるのだろうか。



「好き、なんだ。お前の事が」
「付き合ってる時、言っとけば良かったな―――今更でごめん」



続きを遮るように言葉を紡いだ。途端に、あんなにも重たかった肩も足も、解き放たれたように軽くなる。は、と息をつく。我ながら随分勝手なものだ、と、苦い物が口の中に滲んだ。









三橋からの返事は無かった。
良く見れば、開きかけの唇が細かく震えていた。
淡榛色の瞳が、ゆっくりと見開かれる。そして、暮れていく日の為に真昼の様な明るさこそ無いけれど、そこにはしろく輝くものがあった。


「・・・べ、くん」


嘘、嘘だよ、ね。そんな優しい嘘、言わないで欲しい。囁きとともに三橋の双眸からこぼれ落ちる滴は、みるみる数を増やし止める術など無いようだ。


「嘘じゃ、ねー、よ」


全くと言っていい程に説得力が無い小さな声。でも、それが今の俺の精一杯だった。最後通牒を待つ罪人の心境なんて想像した事もなかったが、こんな感じなのかもしれない。ふいに三ヶ月前の事を思い出す。
俺の目の前で、真っ青な顔をして必死で告白をしてきた三橋の事を。ああ、そうか。きっとこんな気持ちだったんだろうな。やっとこいつの事を理解出来た気がする。ほんの一部かもしれないけど、どれだけの気持ちがあの言葉に込められていたか。受け入れた時から結果は分かっていたはずなのに、


「でも、こんなんじゃ、何言われたって仕方ねーよな」
「阿部くん・・・?」
「栄口に『最高に馬鹿』って言われたしな」


自嘲気味に呟く間も、濡れた瞳のまま三橋は凝と俺を見ている。深い所まで探るような視線に、少しばかり居たたまれなくなって、意味もなく手を動かしたり、立ち位置をずらしたり。あからさまに挙動不審な俺を見た三橋はゆっくりと口を開く。


それは、思いがけず、はっきりとした口調だった。


「オレ、実は、阿部くんに、た、頼みたい事、が、あって―――」


「なんだよ・・・」


気づけば、あんなに流れていた涙は、僅かな筋を残して止まっていた。瞬いた睫毛から、最後の一滴が転がり落ちる。三橋は微かな光跡を、自分の手で力強く拭った。



「良かったら、オレと・・・オレと、三ヶ月でいいから、付きあ・・・っ!」



「黙れっ!」




―――今回は最後まで言わせるほど、俺も間抜けじゃなかったってわけだ。










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