【Limted*time(期間限定)】・8




何かが釈然としないまま、時間だけが過ぎていく。
何故なら、三橋の「あの表情」は、あの時だけで。自分の目の錯覚だったのではないかと思わせるほど、今、隣で弁当をがっついている姿は―――常と変わらないのだ。

「阿部くん」
「な、なんだよ?」
「今日、部活無いんだよ、な・・・」
「あ、ああ。無いっていうか、今日はミーティングだけの予定だろ」

俺の答えに、明るい色をした瞳がくるりと回る。鳶色の髪が、屋上を吹き抜ける風にふわりと揺れた。

「休憩も練習のうちだからな。休める時は、ちゃんと休んでおけよ。明日はまた練習なんだから」
「うん・・・」
「ほら、早く残りも喰っちまえよ」

何かの雑誌に書かれていた文句の受け売りを口にすると、三橋は少しばかり首を傾げた。その視線が、俺の手元に注がれている。

「阿部くんこそ、お腹空いてない、のか?さっきから、全然食べてないけ、ど・・・」

空っぽになった弁当箱のように、語尾が尻すぼみに小さくなっていく。と、同時に、細い首が項垂れるのが目に入って、

「あ、い、今から喰うんだよ。別に何処も悪くはねぇから、心配すんな」

俺は慌てて、箸の先で摘んだままだった卵焼きを、口の中に押し込んだ。熱を出して以来、三橋はこんな風に俺の事を心配するようになった。何でもないから、と言ったところで聞き入れる様子もないので、事態が改善する気配は一向にない。
だが、女房役が心配かけてどうすんだ、と己の不甲斐なさにこっそりと歯噛みをしながらも、コイツがどうしてこんなにも必死なのかが、俺には、まだ、良く理解出来なかった。


「・・・いい天気だな」
「そうだ、ね」

全部食い終わったのか、弁当箱の蓋を閉めながら三橋が相づちを打つ。
細い金属の柵の向こうでは、文字通り雲一つ浮かんでいない青さが広がっている。昼休みも終了間近のこの場所に、残っているのは俺と三橋の二人だけ。自分達だけが、世界から切り離されたような感覚に、一瞬目眩がした。何かが通り過ぎたような沈黙。


「あのさ・・・俺、さ・・・」


あまりに静謐な空気に耐えかねて発した言葉は、そのまま、何もない空間に溶けて消えてしまう。しかし、そんな俺の不自然さを、何故か三橋が気にする様子はなかった。

「阿部くん・・・もう」
「もう?」
「時間、あまり無い、よ、ね」

淡々と告げられた内容を、俺はてっきり昼休みの残り時間の事だと思って頷いた。冷えた飯の固まりを紙パックのお茶で飲み下すと、三橋がゆっくりと立ち上がるのが見える。

「阿部くん―――」
「あ、ああ?」

2,3歩進んでから、三橋が此方を振り返った。風になぶられた髪が顔にかかり、一瞬、頬の上に薄い影を作ってから、すぐに消えた。阿部くん。もう一度呼びかける声。柔らかな響きが耳朶の奥まで染みてくる。


「―――三橋?」


ほんの僅かな間だが、逡巡するような気配があった。

「どうした?」

だが、それも一時だ。




「阿部くん、ありがとう」




告げられた言葉の欠片を俺の脳ミソが理解するのには、逡巡よりも、もう少し時間がかかった。

「おい?お前、何言って・・・」
「ありがとう」

へにゃりと歪んだ顔は、『ありがとう』という台詞からは程遠い。思わず立ち上がった俺の膝の上から、飲みかけのパックが転がり落ちた。

「だから、ありがとう」
「何が“ありがとう”なんだよ。そんな事、急に言われても訳わかんねぇよ」

同じ単語を繰り返しながら後じさる姿に、最近感じ続けていた焦燥感が、ぐっと迫り上がった。曖昧な影しか見せていなかった物が、はっきりとした形を作ろうとしている。それが何かは分からなかったが、それでも「三橋を、行かせてはいけない」という事だけは明白だった。

「おい、待てよ!」

自然と荒げてしまった声に、薄い肩が竦められる。

「待てって、言ってんだろ!」

途端、くるりと翻された体躯に奇妙な既視感が重なった。
骨と薄い皮膚の感触、握りしめた赤い痕。
同じ場所で見せられた、同じ様な表情に―――唐突に思い知らされる―――自分達の距離は、3ヶ月前から少しだって近づいてはいなかったのだ。すぐ傍らにあると思っていた温もりは、その実、空虚な置物だったという訳だ。

「なに勝手な事言ってんだよ!ふざけんな!」


その事実を認めたくなくて、手放したくなくて、伸ばした手は―――



「ふざけてる、のは、どっちだ、よ!」


「っ・・・!?」

さっきまでの静けさから予想もつかない激しさで、俺の手は叩き落とされた。

「お、オレは、ずっと、ずっと本気だっ、た・・・。本気で・・・」
―――阿部くんを好きだったんだ。

一瞬の激情が引いた後の、囁く声。誰もいない世界に響く音。
ひどく大切な物を、大切に包むように綴られた言葉は、俺自身に向けられたものだったけれど―――過去形だった。

「み、はし・・・」

この時の自分に、何が言えただろう。名前を呟くだけで精一杯だ。これが三橋からの「別れ」の台詞だなんて、確認しなくても分かりきっていた。




「3ヶ月、ありがと、う。あ、明日から、は―――」




絞り出された声が、ふ、と途切れた。息を詰めるようにして続きを待ったが、終わりを失った言葉が、再び音を持つ事はなかった。
くっ、と下唇を噛み締めると、三橋は黙ったまま、校内へ降りる階段への扉に手をかける。途中で微かに鼻を啜る音が聞こえて―――そして、その時になって俺は、漸く、コイツが泣いている事に気がついたのだ。


「三橋、俺、は・・・」


無言のまま閉じられた金属の板に遮られて、声は届かなかった。階下へ駆け下りる足音が微かに聞こえて、やがて、それも遠くなる。零れた液体が、俺の上履きの下に奇妙な水たまりを形成していて。それを踏みつけて出来た小さな飛沫が、新しい染みをコンクリートの上に生み出した。じわりと広がる様が、苛立ちを刺激する。

「明日からって・・・、明日からは友達でいましょうとか、そんな意味かよ・・・」

そんな事無理に決まっている。自覚してからこのかた、傾きっぱなしの感情を、元の位置に戻す術など俺が知らないからだ。気がついた時には、すでに後戻りなんて出来なかった。

「それに、なんで、今更泣くんだ、よ・・・」

自分の呟いた言葉に、ああ、と溜め息が出た。部室で栄口に言われた物言いが、ふいに蘇る。


『阿部、最高に馬鹿』



「ちくしょう・・・、そうだよ。馬鹿なのは、俺だ」

痛みを感じるのは、それが真実だからだ。そして、あれだけすぐに泣いていた三橋が、泣かなかったのは、

「・・・アイツが、我慢していたからだ」

この3ヶ月、付き合っている間に、三橋は一度だって涙を零した事はなかった。苦しそうに顔を歪める事はあっても、それを口にする事もなかった。それが、彼なりの決意を込めた上のものであったなら―――

「ふざけんなよ・・・言いたい事あったら、付き合ってる間に言えよ・・・」

とんだお門違いの文句だと気づいていても、俺は言わずにはいられなかった。振り上げた拳とは比べものにならないくらい情けない言葉は、そのままべったりと胸の奥にへばり付く。

「言えば、いいだろ・・・」

俺の都合に振り回されて、散々我慢したのは三橋の方だ。そのあげくに、告白したのと同じ唇で、相手への別れを口にさせられて。俺が3ヶ月と区切ったから。3ヶ月しか付き合えないと言ったから。

「それでも・・・言えよ。好きだって。俺の事、まだ好きなんだろ・・・」
―――だから泣いたんだろ。過去形なんかにすんなよ。

今、ここにいない奴に伝えるのに、これ程虚しい発言もないだろう。それでも、尚、吐き出さずにいられなかったのは―――単なる俺の弱さだ。



俺は、今、三橋に振られたんだ。





□□□




今日の部活がミーティングだけで済んだのは、俺達にとっては幸運だったのかもしれなかった。それなりに全員が発言する会議では、俺と三橋が二人きりで行動する事もない。居たたまれない雰囲気は、騒々しさによってあっさりと中和された。

「おーし。じゃあさっき渡したプリントは、明日の朝に集めっからな。忘れんなよ」
「はーい」
「オレ、今から書くー」
「じゃあ、田島はすぐ出せよ。お前は確かにその方が良さそうだよな・・・」

相変わらずの田島の発言に笑い声が起こり、隣に腰掛けていた花井の椅子が、ごとりと音をたてた。一番の長身が立ち上がるのを合図に、残った部員達も、席を離れる。
俺も重たい身体を引き摺るようにして、教室の出口を目指すと、

「阿部、ちょっと待ってよ」

振り返れば、そこに居たのは、珍しく厳しい顔つきのアイツだった。




「栄口?」

軽く顎をしゃくる仕草が「ここに残れ」と伝えてくる。今後の展開を考えると、面倒くさいと思わないでもなかったが、無視を決め込むのも愚かしい行為だ。了承の意を込めて頷くと歩みを止めた。
そして、それとなく皆が教室を出るのを見計らうと、色々な意味で俺とは対照的な副主将はゆっくりと口を開いた。

「お前、三橋に何かした?」

剣呑な色を隠そうともしない。この調子だと、大方の事情は解っているのかもしれなかった。

「何が?言ってる事の意味が解らねぇんだけど」
「今日の昼休みが終わってから三橋が変だって、田島や泉が言うんだよね。最近、お前達一緒に昼飯食べてるだろ」
「別に・・・ただ、飯喰ってただけだけど」

惚けた振りをして、話の腰を折る。そんな物言いで栄口が納得しないのは、重々承知している、が、それ以上の説明をしてやる義理があるとも思わなかった。これ以上、話ないなら帰るけど。態とらしく視線を反らせると、

「『三橋』がさ・・・」

出された名前に、引き込まれるように顔を向けてしまった。失敗した、と思った時はもう遅い。呆れた風な溜め息と、それに釣り合うような表情。

「そんなに三橋の事が気になんのなら、自分から行けばいいじゃん。何、もたもたしてんだよ」
「―――お前には、関係ない、だろ」

他人の事に首突っ込んでくるな、と怒鳴りつけるのは容易い。だが、今の俺の虚勢など、栄口は簡単に見抜いてしまうだろう。本当に腹立たしいのは―――知った風な口をきく此奴より、何も出来ない自分自身だ。

「全く『無関係』って訳じゃないんだけど。三橋が泣いてたの、阿部の所為なんだろ」
「あ、れは・・・」

痛い部分を突かれて言葉が詰まる。

「なんかさ、最近の三橋って、すごく変な気がしてた。全然泣かないし、笑ってもなんか変な顔で笑ってるし。でも、阿部が変わったから、そのうちどうにかなると思ってた」
「俺が・・・変わった?」
「ああ、変わったよ。お前。田島なんかも、前とは全然違うって言ってた」

やっぱり自分でも気がついていなかったんだ。と呟く声がして、ふ、と場の緊張が解けた。



「―――阿部、行きなよ。行かなきゃ駄目だろ」









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