【Limted*time(期間限定)】・10(final)




掴んだ肩が左だった事に内心で安堵しながらも、『手加減』とかその他の何か大切な事(すぐに思いつかないけど)を、思い切り失念している自分がひどくおかしい。重ねた唇の乾いた感触だとか、ほんのりとした温もりだとか、そんな物はやけにはっきり感じているのに、現実感が何故か稀薄なのも、もどかしかった。


「あ・・・」


だが身体を離した途端、教室の空気の冷たさが急に感じられた。同時に、ちり、とした痛みが頬を走る。
ぶつけているのとたいしてかわりない勢いでしたキスは、味わう余裕なんてこれっぽっちもなくて、口の端に痛みと痺れだけが残っていた。はっきり言って、夢もロマンもメルヘンも、欠片もないファーストキス(だって、キスの感触が「がりっ」ってなんか変だろ。)
名残惜しいなんて感じる暇もないうえに、


「おい・・・三橋」
「あ、ああ・・・」


呆けたような三橋の表情に俺の不安は募る一方だ。ひょっとして自分は先走ったのか?コイツの言葉を先読みしたつもりだったが、もし間違っていたら「勘違い」ではすまされない。
―――「お友達」にさえ戻れず、一気に「顔も見たくない」部類に振り分けられしまう、ってのは。いくら俺だって・・・駄目だ。流石にダメージがでかすぎる。
縋るような思いで視線を向けると、

「みは、し・・・」
「ふぅ・・・ぅあ」


細っこい躯が、がくがくと震えている。一瞬、嫌な感じの汗が背中を吹き出した、が―――



「三橋・・・?」



―――ああ、どうやら心配は杞憂で終わりそうだ。



「あ、べくんっ!阿部くん、阿部くんっ!」
「・・・っと!」



相変わらず気の利いた台詞一つ言えなくて無言のまま腕を広げた腕の中、軽くはない衝撃とともに汗と埃くさい頭が飛び込んできた。鼻先で揺れる髪の所為で、くしゃみが出そうになる。堪えると涙腺が刺激されたみたいで、目頭がじわりと熱くなった。


「畜生・・・ひやひやさせんなよ・・・」
―――せっかくなんとか体裁を取り繕えたと思ったのに、こんなツラみられたら台無しだな。


ぐりぐりと胸元に押しつけられる顔がこっちに向けられる前に、なんとかしなければ。
だが、焦れば焦るほどに事態は悪化した。密着した体温がじわりと身体に染み込んでくると、鼻の奥がつんと痛くなって、無理矢理息を飲み込むと喉がぐぅと鳴る。熱い、熱くて堪らない固まりが迫り上がって。油断すれば、金輪際言うつもりのなかった泣き言まで、全てぶちまけてしまいそうだ。


「ああ・・・」
―――良かった。


噛み殺したはずの溜め息が、そんな音になって唇から漏れてしまう。


「あ、べくん・・・?」


何故、泣いてるんだ?とは聞かれなかった。ただ、そんな俺の顔を見て、三橋は花が綻ぶように笑う。



―――オレも、良かった。



嬉しそうに呟いた表情にまた胸が痛む。






あまりにも甘やかなその痛みは、俺の全身を駆けめぐると、最後に目元からゆっくりと零れ落ちていった。













そんな風にして二人で抱き合った後、とりあえず俺達は、仕切り直しをする事になった。お互いの気持ちについては確認出来たけど、やはりきちんとした手順を踏むに越した事は無い、と思う俺の提案だ。
その結果、目の前には緊張しきって、ちょっと変な顔になりかかった―――あからさまに強張っているうえに、目線も全く定まらない―――三橋がいる。
(でも、そんなところが「ちょっと可愛い」とか思う自分は、相当の末期症状だ。とも自覚した・・・。)
おまけに、この手の緊張感は伝染するものらしい。コイツと対面している俺の耳にも、全身が心臓になったかのように鼓動が跳ねる音が響いてくる。


―――こんなに緊張するなんて、聞いてなかったかんな・・・。


だが、だからといって肝心の事が伝わらないまま揉めるのは、もう御免だった。



掌に滲む汗をズボンの尻に擦り付けると、俺は大きく深呼吸する。



「俺と、付き合って、くれ」



ゆっくり、はっきり。ともすれば、早とちりしかねない三橋の為に、確実に伝わりそうな言葉を選んだら。それは、安っぽいドラマでさえ滅多に使わない単純過ぎる台詞になった。(国語は得意科目じゃないんだから仕方ないけど)



「・・・さ、3ヶ月?」



落ちつきなく散らされていた視線が、窺うように此方を見上げる。期待と不安とが混じり合った色は、3ヶ月前に比べて、ほんの僅かに「期待」の色が増えた気もした。が、浮かべられた疑問符に、俺の頭は沸騰寸前になった。


「ああ、もう!本当に悪かったって思ってんだよ!『3ヶ月』だなんて、俺の方からお断りだからな!」


それだけで満足出来ないのは、三橋じゃなくて寧ろ俺の方なんだ。


「え、じゃ、じゃあ・・・」


鳶色の双眸に満ちた光が、ふわっと溶けるように流れ出す。同時に、ほんのりと染まる耳の形も結構可愛い。


「お前が俺に飽きるまでで、いーよ」


言っとくけど、俺は飽きないねぇからな。と宣言すれば、


「オレも、あ、飽きない、よ!」


間髪入れずに戻ってきた返事に、思い切り口元が弛んだ。


―――やっべ・・・。


慌てて締まりのない箇所を手で隠してはみたけれど、何処まで上手く誤魔化せてたか自信は無い。


「・・・ほんとかよ」
「本当だ、よ!」


ああ、お前が言うからには本当なんだろうな。まっすぐ向けられる視線の面映ゆさに、また目頭が熱くなる。


「かなわねーよ。お前には・・・」


此方の弛みきった頬も、滲む目元も、三橋は殆ど気にしてないだろう。分かっていても、つい格好をつけてしまいそうになる俺を見て、コイツはふわりと笑った。


「大丈夫だ、よ!」
「・・・何が、大丈夫なんだよ。説明してみろよ」
「え・・・と、え、と。い、色々・・・阿部くん、格好良いし、頭も、良いし、野球上手い、し・・・あと、あと・・・」


指折り数え出す姿から堪らず目を反らすと、何気ない振りを装って湿っぽさを拭う。


「・・・まぁ、そんだけ言ってくれんなら確かに大丈夫そうだな」
「ふひっ!そうだ、よ。大丈夫だ、から!」
「随分、自信・・・あるんだな」
「う、んっ!」


大きく頷く度に、クセのある柔らかい髪が揺れた。汗も引いたのか、額で凝っていた分の髪も一緒に揺れている。軽く手でかき分けると、籠もっていた熱が解放されて三橋は気持ちよさそうに目を細めた。



「オレ、自信あるん、だ!」



何一つ己の感情を隠そうとしない強さは、時に驚く程綺麗だと思う。体裁も建前も突き抜けてくるコイツの強さに、俺はいつだって救われてきた。たぶん、これから先何回も、俺はこうやって救われるのだろう。



「ま、やられてばっかりの訳にもいかないけどな・・・。振られるのも、二度と御免だし」



―――なぁ、三橋。この3ヶ月の借りは絶対にきっちり返してやるかんな。











□□□











リノリウムの床に蛍光灯が反射する。グランドから聞こえていた運動部のかけ声も、いつの間にか静かになって、窓越しに見える宵空には白い星が瞬き始めていた。


「へ、へへ・・・」
「何、へらへらしてんだよ・・・」


流石に校内で手を繋ぐ度胸は無いが、それなりに近い位置を保ちながら歩いていると、気持ちの悪い笑い声が聞こえてきた。「ぐふ」とか「うひ」とか、独特の奇声は意識して漏らしているわけでは無いらしい。軽く肘で突くと、へにゃりと蕩けそうな笑みを浮かべて、三橋は俺を見上げてくる。


「だ、だって・・・うひ・・・」
「だって?何だよ『だって』て」
「あ、阿部くんがオレに・・・き」
「う、やっぱ、言うな!言わなくていい!」


―――コイツ、学校で何言い出すんだよ!


『き』って、あの2文字の頭の『き』なんだろうな・・・。最後まで聞いてられなくて、慌てて止めた。安堵の息をついた次の瞬間、俺の全身から、ぶわっ、と汗が噴き出してくる。その量たるや、振られるかも、と覚悟した時の比ではない。


「頼むから、学校では勘弁してくれ・・・」


え、でも・・・阿部くんが、言え、って・・・。とどもりながら抗議してくるのを、その質問した当人が言うな、って言ってるんだから黙ってろ。となかなかに理不尽満載の応答で押し切った。それでも尚、何で、と不満げにとがらされた唇をつつくと、



「いーんだよ。そんな反芻しなくっても、これから何回でもするんだから」



俺は、半ば自棄になって、その先に軽くキスをしてやった。



「阿部くん・・・っ!」



文字通り丸くなった瞳に溜飲を下げて先を促すと、蹴躓きそうになる三橋に手を差し出した。



「ほら、何回もするって言っただろ?」
「・・・え、あう」
「分かったか?」
「わ、かりました・・・」






―――ちなみに、してから気がついた。俺ってさ、こういうキャラだっけ?













□□□(おまけのような、蛇足のような)








空が明るくなるにつれ、けぶるような朝靄にグランドは満たされた。薄い影を落としながら作業をする姿は、遠目にも見間違える筈がない。


「花井、はよっ!」
「・・・はよ」


力無い挨拶を返しながら、うっそりとトンボを動かす花井を見て、栄口は首を傾げる。


「どっか調子悪い?腹とかさ」
「お前じゃないから、・・・腹は問題ないよ」
「へぇ・・・そう」


若干の引っかかりを感じつつも頷くと。冴えない表情をした花井の視線の先では、最近すっかりご無沙汰になっていた光景が展開されていた。




『だから、今日は冷えるからアンダーは長袖着ろって言っただろ!』
『え、で、でも。昼は暖かくなるって、天気予報で・・・』
『それは昼だろ!今は朝!寒いんだから、早く替えてこいよ』
『オレ、寒くな・・・』
『俺が着替えろって言ってんだから、着替えてこい!!』


きゅっ、と一瞬縮こまった後、野兎のように飛び出した投手の背中を、捕手は鼻息も荒く見送っている。


『ちゃんと汗拭いてから着替えろよ!』
『はひっ!!』


みるみるうちに、小動物の姿はグランドの向こう、部室の方角へ消えていった。なにせ、これ以上駄々を捏ねるようなら―――引っぺがして着替えさせる事くらいやりかねないのだ、この捕手様は。





「あいつら、さぁ・・・」
「なんだ、阿部と三橋。仲直り上手くいったみたいじゃん」
「あのな・・・」


事も無げに笑う副主将の態度は、主将の憂鬱を更に倍増させたらしい。続けて何事か口にしようとした花井だったが、目の前を通り過ぎようとした人影を見るなり、慌てて口を噤んだ。


「あ、はよ、栄口」
「はよ。阿部」


しれっとした顔で阿部が向かう先は、敢えて聞く必要はあるまい。短い挨拶を交わすと、それで用は済んだと歩み去る彼の背中は、確実に三橋の後を追っている。妙に軽やかなその足取りがフェンスの角を曲がったのを確認してから、花井は大きく息を吐いた。溜め息というには些か深すぎるそれには、人生の苦労諸々が滲んでいるようだ。


「なぁ。あれを、元に戻った、っていうのか?」
「だって、もう喧嘩してないんだろ。阿部だって嬉しそうだったし」
「・・・ああ、嬉しそうだった、よ」


それなら問題無い、と笑う栄口に「その眼は節穴か!」と叫ばないだけ自分は理性的だ、と花井は自身に言い聞かせる。気づいているのが自分だけならかまわない(本当は良くないけど)のだ。自分だけが胸の内にこっそりしまっておけば・・・。
新たな心労のタネを抱え込んでしまった事を憂慮しつつも、花井のグランドを均す動きは止まらない。習慣でも惰性でも、体を動かしていないと頭の中があらぬ方向に行きそうになるからだ。
一心に土の表面を見つめていると、「あーあ」と如何にも残念そうな呟きが聞こえた。


「花井も、気づいちゃったんだ」
「も、気づいちゃったんだ・・・って、じゃあ、お前・・・」
「せっかく気づいてなかったみたいだったから、そのまんまにしておこうと思ったのに」
「あ、―――あ、ああ」


なんだ、それ。ようやく声に出せたところで、栄口の表情は変わらない。


「要するに、俺達は“犬も食わない”ってヤツに巻き込まれただけだよ」


存外に、あっさりとした答えが返ってきただけだ。


「お前、良く普通でいられるよな・・・俺なんて、さっきから胃が痛くて・・・」
「普通?へぇ、そう見えるんだ?」
「え・・・あ。栄口、ひょっとして、まだ・・・」


僅かに躊躇った後、怒ってるのか?と問いかけたいのを花井は寸前で思い止まった。本当に、微妙なところで鋭いんだよね。と浮かべられた微笑みが―――薄皮一枚の厚みしかなかったからだ。


「浮かれてる場合じゃねーぞ、阿部・・・」


仏頂面をしつつも、あれだけ浮かれた雰囲気を振りまいていた捕手の背中を思い出して、主将はぼやいた。さっきまで「胸焼けがするから当分見なくていい」と考えていたのすら懐かしい。


「阿部、遅いね・・・」


顛末を知らない誰かが聞いたら、何でもない一言だったろう。だが、今の花井は自分の横を見る事さえ出来なかった。


「・・・あ、ああ。三橋が手間取ってんだろ」


ふうん。といかにも詰まらなさそうに呟いてから、副主将はもう一度、部室のある方向に視線を向けた。つられるように自分も其方を見た花井が、


「そのうち戻ってくるさ・・・」


と、ぼんやり口にする。だが、栄口はそんな風に楽観的には考えていないようだった。


「あんまり遅いようだったら・・・何か考えないとな」
「遅いって・・・へ、変な事想像させんなよっ!」
「想像したのは花井の勝手だろ。俺が考えてたのは、せいぜいお握りの具を無しにするくらいだよ・・・」


がくりと首を落とした花井の横で、何時の間に用意したのか栄口もトンボ掛けを始めている。無心に土を均す心境は、現状の二人にとって共通したものである事は間違いない。


「・・・気にしない、気にしない」
「うん、気にしない、気にしない」


実際、呪文を唱えながらついた溜め息は、深さの割に軽かった。阿部と三橋の関係がなんにせよ、あの息苦しい位に張り詰めた期間が終わったのならそれでいい。




「あいつら、どんな顔して戻ってくんのかな・・・」
「花井・・・」


思わず漏らしてしまったのは、ちょっぴり興味が湧いた・・・所為だと思いたくはないが、耳聡くその独り言を聞きつけた栄口の目は、もう笑ってすらいなかった。






「それが、一番気にしない方がいい事だと思うんだけど?」














<終>









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