【Limted*time(期間限定)】・7


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「三橋」
「あ、阿部くん!」

呼びかければ、柔らかそうな髪を風に揺らしながら三橋が駆け寄ってくる。

「どうした、んだ。何か用事?」

泉、それとも田島に用事があるのか、と教室の中を振り返ろうとするのを引き止めると。昨日の晩から準備していた紙袋を突き出した。

「これ・・・やるから」
「これ?な、何?」

明らかに予想外だったのか、絵に描いた様に丸い瞳が見上げてくる。

「昨日、店行って来た。田島に渡しとけよ」
「え、あ、阿部くん!?」
「どうせお前達、あの店まだなんだろ。昨日は練習無かったし、時間余ってたからな」

コイツや花井達に心配をかけたのは重々承知しているが、俺に、たいした罪悪感はなかった。が、案の定、まん丸だった鳶色が滅多に見られない角度に吊り上がる。
―――ああ、三橋って、こんな顔して怒るんだっけ。


「時間余ってた、って、違うだ、ろ!監督に、早く帰れって言われてた、じゃないか!」


至って暢気な俺に業を煮やしたのか、三橋が大声を上げた。途端、入り口に近い席に座っていた
何人かが驚いた視線を此方に向けてくる。だが、三橋本人は、そんな視線に気づくこともなく俺に詰め寄ってきた。

「阿部くんっ!なんで、寄り道なんてした、んだ!?」

「いや・・・別に。熱も下がってきてたし」

平熱じゃなかったにしろ、下校する時に熱が下がっていたのは確かな事だ。言い訳がましいけれど、嘘じゃない。
しかし、

「そ、そんなこと言ったって、阿部くん、一度、倒れたじゃない、か!」

「あ・・・まぁ、な」

その点を指摘されてしまうと、俺の口も歯切れが悪くなる。なにしろ、三橋の健康管理について散々口を出している本人が、熱を出したのだ。
若干劣勢の俺、珍しく攻勢の三橋。

「阿部くんっ!」
「そ、それは、そうとして。田島に渡しとけよ」

そうして、なんとか体勢を立て直してこの場を立ち去ろうとした時、ある意味当然な事が起こった。

「何々?阿部、なに?オレに用事?」

大声のやり取りに、如何にも興味津々、といった表情の田島が顔を出したのだ。

「ちっ・・・」
「田島くん、あ、阿部くん。ヒドイんだ!」

俺にとっては必要なくても、三橋にしてみれば「頼もしい応援が来た」というとこらしい。何時になく饒舌に、昨日の俺の行状を述べる様子は、思い切り周囲の注目を引いている。
―――なんていうか、俺はそんなにひどいヤツなのか?
これだけ言われてしまうと、自分としても心外というか。思わず心の中で(心の中で留めておいたのが俺の良識だ)、自問自答してしまったのは致し方ないだろう。たかが、ちょっと熱があったのに、ちょっと寄り道したくらいで、どうしてそこまで責められなきゃならないんだ?
誰か、教えてくれ―――と、俺に集中しつつある周囲の視線から身を捩ると、

「ま、別にいいんじゃん。阿部のヤツ、今日は元気みたいだし」
「え・・・そ、そうだけ、ど・・・」

いつもの田島の笑顔に気勢を削がれたのか、上がりきっていた三橋の眉がしゅんと項垂れた。意外な展開に、俺は思わず息を呑む。

「それよかさ。阿部、これ俺にくれんの?」

「あ、ああ・・・昨日、早く帰れたからついでだけどな」

ついでだから、と些か、ぞんざいな手つきで紙袋を放っても。短い距離ゆえ、それは、なんなく田島の手の中に収まった。
そして、受け取るなり、実に田島らしい思い切りの良さで紙袋の封は開けられる。

「お、これ!阿部、わざわざ買ってきてくれたのか!?」
「まぁ、な・・・暇だったし」
「あ、阿部くん!す、すごい!」

派手な破壊音に眉を顰める間もなく、紙袋から掴み出された物を見た途端、三橋の表情が180度変化した―――怒りから驚き、そして賞賛。

「た、たぶん、サイズも合ってると思うから。気にくわなかったら、自分で返品でもしとけよ」
「いや、マジでぴったりだから。阿部、ありがとな!!」

グローブを嵌めた手を繰り返し眺めながら、田島は満面の笑みだ。こういう無邪気なところは、三橋と田島の共通項だな。
金を払うと戻りかけるのに、それは部活の時でいい、と言うと。―――此奴らの肩越しに見えた泉が、何やらこの世の終わりのような顔をしていた。それを見て、別に田島に乗り換えた訳じゃねーぞ。と喉元まで出かかったが、余分な事は言わないに限る。
まぁ、あのグローブだって、実は俺や三橋と「お揃い」な訳じゃない。ちょっと見た感じは似てるけど、全くの別ブランドだ。田島が、その点に気づくような細やかな神経の持ち主でない事は重々承知しているし、それくらい、アイツにとって、たいした問題じゃないだろ。
―――だが、俺にとっては大問題だった。


「ま、気づいてないから関係無いよな」


結論としては、自分の心の狭さを思い知ったいい機会だったということだ。




7組への帰り道(といってもほんの数メートルなのだが)、俺の後ろを僅かに遅れて三橋がついてくる。相変わらず柔らかそうな髪が、心なし項垂れて見えるのは先程のやり取りの所為だろう。

「あ、阿部くん、さっき、は・・・」
「あー、別に謝らなくてもいいよ。俺が監督の命令守らなかったのは確かなんだから」

案の定、いつものパターンになりかけたのを、先手を打って回り込むと。微かに潤んだ瞳が見開かれる。

「でも・・・オレ・・・」
「だから、気にするなって言ってんだろ。それとも、あれか?俺の事監督に言いつけちゃったのか?」

モモカンの事だから無いとは思うが、命令を守らなかった俺へのペナルティとして、今日の練習は走り込みだけって事もあるかもしれない。前半を省略して想像の部分だけ口に乗せると、三橋の顔色が目に見えて青褪めた。

「そ、そんな事してない、よ!」
「冗談だよ、冗談。そんな事、本気で思ってるわけないだろ」
「良かった・・・ぁ」

淡い光彩が、更に儚い色に変化する。決して白すぎるわけではないが、それでも俺よりは遙かに白い肌がふわりと上気して。漏れた溜め息に、俺の予想外の部分が反応した。

「あ、やばい・・・かも」
「え?」

ふにゃりと崩れる顔を、本気で可愛いと思ってしまうのは、最早末期症状だ。性格は素直じゃなくても(これは他人様に言われなくても自覚している)、本能というヤツは主に似なくて素直らしい。
それこそまさに「本能」だ。と言われそうだが、生憎、実感したのは今日が初めて。若葉マークの俺。

「いや、独り言だから気にすんな」
「う、うん・・・」

告白された時は、こんな風になるなんて思ってもみなかったが、なったらなったで案外悪いモンでもない。


「三橋―――?」


だから、浮かれた気分でふと振り返った瞬間。視界にちらと過ぎった三橋の表情が、ひどく俺の心に引っかかった。もう見なくなっていたはずの、あの、顔。

「あ、阿部くん、どうしたんだ?」
「いや・・・」
「オレ、今日も練習楽しみなん、だ!」
「そうだ、な・・・。ああ、俺も楽しみだよ」

この時、「取り繕うような」と感じてしまった笑顔を、自分の気のせいだと押し込めたのは、後から考えればとんだ失態だった。
部活で。と手を挙げると、三橋も小さく笑って手を振ってくれたから。頑張るよ。という言葉に、少しの陰りも感じられなかったから。
そんな些細な幸せを噛み締めるのに夢中だった俺は、「本能」の警告を聞き忘れてしまったのだ。

「三橋っ!こけんなよ!」
「はひっ!!」

平坦な場所で転べるという世にも珍しい才能を持った俺の投手からは、何時だって目を離してはいけなかったはずなのに。見過ごしてしまったのは―――俺が、浮かれすぎた愚か者の見本だったからに、他ならないだろう。

「なぁ、三橋」
「―――阿部くん?」
「いや、何でもない・・・」

小首を傾げる稚い仕草も、見慣れない時は非情に奇異な物に映ったが、今では「三橋らしい」と思えている。あの顔だって、そのうちに、そんな風に思えるのかもしれない。
それでも拭いきれない不安は、適当な言葉でくくりつけて誤魔化しておいた。

『そのうちに、そのうちに、いつか、また、いつか』

誰に言い聞かせるわけでもなく呟くと、なんとなく落ち着いた気さえする。尤も、少し前の自分からすれば想像もつかない台詞は、空々しい響きを纏っていたのは仕方ないだろう。

それに―――分かっていても、いなくても、結果は変わらなかった事だけは確かだった。




□□□



鼻先に、ふわりと白い湯気が漂った。

「う、美味そう・・・」

部活帰り。程よくお握りを消化した後の高校男子には、ふっくらと蒸し上げられた肉まんの見た目も匂いも、胃袋を激しく刺激する。

「いきなりかぶりつくなよ。火傷するからな」
「うん・・・」
「あと、お前は素手で掴むなよ。指先を痛めたら、元も子も無いかんな」
「う、うん・・・」

目の前に肉まんをぶら下げられてお預けをくらっているのは、三橋にとって拷問にも等しいだろう。だが、ここは譲れない。恋人としてというよりも、捕手として、人間としてだ、な・・・

「だから、まだ熱いって言ってんだろっ!!」
「あ、あふっ・・・へ、もう、そんな、あふくない、よ」
「俺が熱いから、熱いって言ってんだ!」

―――全く、油断も隙もねぇな!!

ちょっと目を離した間に、三橋は大口開けてターゲットにかぶりついていた。

「ほら、これでも飲んどけよ」

もしも、の時の為に買っておいたペットボトルの口を開ける。いつもだったら身体を冷やすから、と冷たい飲み物は勧めないが、今回だけは特例だ。口の中も指先も、火傷されたら困るのは三橋本人だけじゃない。俺も困る。

「ありが、と・・・」

キャップを捻る小さな音。白い喉が上下して液体を飲み下す。とりあえず一口喰って、水分も摂って、落ち着いたのか、三橋の唇から細い溜め息が漏れた。それを確認してから、俺も自分の分の肉まんに齧り付いた。

「これ喰っても、夕飯はちゃんと食えよ。で、風呂入って早く寝ろ」
「う、うん。今日のウチの夕飯、ハンバーグなん、だ!」
「そりゃ良かったな。でも、肉ばっかじゃなくて、野菜とか米とかも喰えよ」
「う、ん」

コンビニの肉まんは、少し甘ったるくて舌が痺れる。伝えたい事が上手く言葉にならなくて、どうでも良い事ばかりが流れ出す。

―――なぁ、三橋。俺は、何が言いたいんだろうな。

ふいに、呼びかけようとして、喉が詰まった。
こんな事、コイツに聞ける道理じゃない。
なんだろう、何が足りないんだろう。この違和感の原因が何か、俺には全く見当もつかなかった。幸福なはずなのに、じわりと滲む焦燥は何処から湧いてくるのだろう―――ひどく大切な事を忘れている気がした。


「阿部くん?」

「あ、ああ。話はこれで終わりだから。なんかあったらメールしろよ。後、明日もちゃんと起きろよ。朝練に遅刻すんな」
「しない、よ!」
「そっか・・・」

ぎこちなく視線を反らしたのは、どちらが先だったろう。

「阿部くん・・・」
「なんだ?」
「・・・また、明日」



淡色の睫毛が瞬かれて、瞳が不思議な色に染まる。揺れる光の焦点は、俺の身体を突き抜けて、遠い何かを見つめているようだった。





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