【Limted*time(期間限定)】・6


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「花井、阿部はもう起きた?」
「ああ、栄口こそどうしてここに?」

保健室を出てそう歩かないうちに、花井は部室にいるはずのもう一人の副主将の姿を廊下の端で見つけた。監督にちゃんと許可はとったよ。と言って栄口は静かに微笑んでいる。

「三橋、は―――?」

三橋はどうしたのか。田島と栄口が付き添って部室に行っていたはずなのに。質問の意図は最後まで言わなくても、酌み取ってもらえたらしい。

「阿部に会いたいって言ってきかないからさ」
「お前、行かせたのか!?」
「だって仕方無いじゃないか。三橋がああなったら、てこでも動かないからね」

それは、そうだけど。と呟いた花井の表情は、非常に浮かないものだ。今の状態の阿部と話しても、三橋は何も得る物がないのではないか。杞憂というには、さっき阿部と交わした会話や態度が邪魔をする。

「余計拗れたらどうするんだよ・・・」

ただでさえ、あのバッテリーは酷く不安定なのだ。お互いに寄りかかっているクセに、その事をまるで理解していない。阿部が三橋に対して苛立っているのは分かっていたが、こんな状態になるまで「いつもの事だ」と軽く見ていた自分に、花井は臍を噛んだ。

「花井が、心配するような事はないと思うよ」

だが、そんな主将の心境などかまう風もなく、副主将はいとも簡単に問題を流してしまった。

「―――おい、心配しなくてすむような状態かよ!」

阿部のあの顔見ただろ。投球練習中も、いつ隣のブルペンに突っ込むんじゃないかと冷や汗モンだったんだけど。とは苦労人の心中である。もっとも、今になってみれば、それは発熱の所為だったかもしれない、と考えられるのだが。
リアルタイムで向き合っていた花井には、他の面子より色々と思うところがあるらしい。

「うん。でも、本当に俺達が心配する必要なんてないよ。あれは阿部の問題だから」
「阿部の問題?」
「要するに、『最高に馬鹿』って事だけどね」

そういや、さっき部室でそんな事をちらりと聞いた気がするんですけど。意外に容赦のない一言は、彼の浮かべる笑顔とは非常に不釣り合いに見える。ちらりとした違和感が頭の隅を過ぎった。

「栄口、ひょっとして―――お前、怒ってんのか?」
「何が?」

ここに至って漸く花井も、さっきから見せつけられている微笑みが普段と違う色をしている事に気がついた。「穏やかで優しい」と評される栄口が、その実かなり手厳しい一面がある事を知らないのは、部内でも三橋か田島くらいだろう。



そして、どうやら今回の彼は阿部に対して怒っているらしい―――それも相当に。



あー、とあまり意味のない言葉を発しながら、花井は坊主頭の後ろをがりり、と掻いた。

「まぁ、ほどほどにしといてくれよ・・・」
「ほどほどにね」

保証は出来ないけど。とにっこり笑って言い添える栄口の顔を見てしまえば、今回も貧乏くじを引いてしまった主将は、自分の胃の中に重たい物がまた一つ増えた事を、人知れず憂うしか他がなかった。




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額に手を当てると、自分で思っていたより熱を帯びているようだった。意識を失う寸前に感じた気持ち悪さや頭痛はピークに比べれば薄らいでいたが、それでも尚、気怠さは全身を侵食してベッドから身体を起こすのも億劫だ。
部屋の中は生温い水に満たされたように静かで、壁に掛けられた時計の針が時間を刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。

「そろそろ、帰っか・・・」

呟いた言葉は誰に聞かせる為の物でもない。花井が出て行ってから、この部屋には誰も入ってこなかった。その点だけは、結構助かった、と思っている。おかげで、頭の中を整理して、大分落ち着いて色々な事を考えられるようになったからだ。
だが、こんな風に寝ている心の片隅では―――本当は片隅どころではないのかもしれないが、今だって部活の事が気になって仕方がない。


―――部活っていうよりも、三橋の事なんだろうな・・・。


改めて口にする事はなかったが、自分が何に向き合わなければいけないかが、何となく見えてきた気がする。
まだ答えに至るところまでは遠いが、それでも昨日までの自分と比較すればたいした進歩だ。栄口の浮かべる呆れた笑顔を思い出して、枕元を軽く叩いた。ざまーみろ、もうそんな顔されたって腹が立ったりはしないからな。俺は俺のやり方でやってやる。ただそれだけだ。
思い返せば、この2ヶ月余りの間にその機会は幾度となくあった、はずなのだ。それに適当な蓋をしてみたり、あまつは三橋の所為のように考えたりしたのは、

「あいつの好意に甘えてただけなんだよな・・・」

情けないことこの上ない、恋女房が聞いてあきれる。と溜め息をついた時、ドアのノブが回る微かな金属音が聞こえた。


―――保健の先生、戻ってきたのか?

だったら都合がいい。挨拶をしたらさっさと帰ろう。ほてほてとした足音は、真っ直ぐにこのベッドへと向かってくる。

天蓋を支える小さな滑車が微かな音をたてて動く。白い布が滑るようにゆっくりと横に引かれた。

「あ・・・・・・」

細く開いた隙間からこちらを伺うのは、あまりにも見知った顔だ。そればかりか、今まさに思い浮かべていた当人の登場で、思わず反応が遅れてしまう。

「あの・・・すみませ、ん。開けました、よー」

柔らかそうな茶色の頭、淡色の睫毛。頬が少し汚れているのは、屋外で部活をしている物にとって当たり前だろう。(それとも、泣いたのか。俺がいない場所で。)視線を合わせられないのも慣れている。(悲しい事にそれが日常だ。)困ったように寄せられた眉の下で、鳶色の瞳が微かに潤んで此方を見ていた。

「あ、阿部くん・・・大丈夫?」
「三橋・・・・・・」

―――花井のヤツ「自分から言っておく」とか言ったクセに、本人がのこのこ顔を出しに来たら、全く意味がないだろう!

無意識に舌打ちが出たのは、苛立ちというよりも焦りを押し隠す為だった。俺だって、まだ心の整理がついていない。なにしろ、ぼんやりとした輪郭を掴みかけたばかりの、この現状で、以前と全く違う態度などとれる訳がなかった。

「ご、ごめん、なさい・・・。休んでたよ、ね・・・お、オレやっぱり・・・」

だが、そういう事を差し引いても、こいつに俺の複雑な心境など伝わるはずもない。伝わらないもどかしさに顔を顰めると、大袈裟ともとれる動きで三橋の足が後に下がる。

「おい・・・」
「オレ、オレ帰る・・・」

後ろ向きに下がった、その際に妙な具合で身体を捻ったのか、薄い体躯が傾いて軸足が踏鞴を踏んだ。

「あ・・・っ!」

冷たい保健室の床に向かって、淡い色の頭がそのままゆっくりと倒れ込んでゆく―――

「おい!気をつけろって!」

その瞬間、俺は自分でも驚くような勢いでベッドから跳ね起きると、蹌踉めいた腕に手を伸ばしていた。思い切り掴んで引き寄せる―――幸い、そのまま一緒に転ぶような無様な真似だけはしないで済んだが、その代わりに、引き寄せた薄い身体は腕の中にすっぽりと収まってしまった。

「ふ・・・うぇ・・・」

鼻先を柔らかい感触が掠めて、息を吸うと少し埃っぽい匂いがする―――マウンドの匂いだ。
三橋の口からは呆然したような呻き声が漏れる(相変わらず間抜けな声だったけど)。意図したわけではないが、結果的には抱きしめる形になった体勢は、ひどくありきたりな展開な気もしたが、嫌な感じはしない。それどころか、温かくて手放すのが惜しいくらいだ。

ああ、と自然に溜め息が口をついた途端に、腕の中の体がびくりと震える。

「いっつも気をつけろって言ってるだろ・・・全く、お前ってヤツは・・・」
「・・・・・・ご、ごめ」
「ま、いいや」

本当に、そんなに腹が立ってる訳じゃない。だが、三橋は何か信じられない事を耳にしたかのようにおずおずと顔を上げ、丸い瞳に蛍光灯の白い光が映り込んだ。

「あ、いや、いいよ。今ちょうど起きようと思ってたから。それよかお前こそいいのか?練習まだ残ってるんだろ」
「う・・・ん」

小さく返事をしながら三橋の頭が弱々しく縦に振られる。

「・・・・・・わり、三橋は俺の事心配して様子見に来たんだよな」

続けて「さっさと部活に戻れ」と言いそうになって俺は途中で口を噤んでしまった。口にする寸前で、こいつが誰の為に練習を放り出してきたのかを漸く思い出したからだ。

「あ・・・う・・・」
「もう、大丈夫だから。今日はこれ以上練習つきあえねーけど、明日は問題ない」
「あ、べくん・・・」

しかし、こんなにもきっぱりと言い切ってやったのに関わらず、三橋の目はまだ途惑いの色を濃くしている。

「なんだよ・・・まだ、なんか言いたい事でもあるのかよ」
「え・・・あ、と」

鳶色の視線が俺の顔を見上げ、そしてまた下に落ちた。相変わらずはっきりとしない態度に、俺の忍耐がいい加減焦れてきた頃、消え入りそうな呟きが耳に届いた。

「・・・離してくれない、と、行けないんだ」
「はぁ?」

盛大に浮かんだ疑問符は、次の瞬間あっという間に弾けて飛んだ。そういえば、さっきからやたら温かいと思っていたけれど、三橋の身体を腕の中に抱き込んでいたままだったからだ―――あまりにも馴染んだ感触に、それと指摘されるまで俺は全く違和感を感じていなかった。

「は・・・ははっ・・・」

「阿部くん?」

自然と笑いが口をついた。花井や栄口が今の俺を見たらどんな表情をするだろう。さぞかし厭そうに顔を顰めるかもしれないが、少しも気にならないに違いない。とんでもなく馬鹿な妄想だと自覚していたが、それを抑える事が出来ないくらい気分が良かった。

「三橋、三橋―――」

腕を解かれると思っていたはずの三橋は、逆に強く抱きしめられた所為でいつも以上に目を丸く見開いている。柔らかそうな唇が物言いたげに開いたが、結局言葉が出てこない。

「三橋――」

なんだよ、言いたい事があるなら言えよ。俺は今、すごく気分がいいんだ。今だったら、どんな馬鹿な事を言われても許せる自信がある。だから、なんか言えよ―――お前の声が聞きたいんだ。

薄汚れたしろい頬に、かすかな赤みがさしてくる。

「・・・阿部くん」

困ったようにはにかむ顔は、俺が見る事の出来た久しぶりの『笑顔』だった。喜びと安堵と腕の中の体温と、色々な物が一緒くたになって顔の筋肉を弛めようとする。


「あったけぇ・・・」




俺は心の片隅でこっそりと、お節介な彼奴等に感謝した。





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