【Limted*time(期間限定)】・5




野球に関する事で無いのなら、自分は何を恐れているというのだろうか。今日は次から次へと分からない事が多すぎる。栄口の呆れた溜め息、屈託無く笑う田島の顔、微かに潤んでいた鳶色の瞳。そんな様々な物が一緒くたになって、ぐるぐる回っている。

「阿部、次いいか?」
「あ、ああ。じゃあ、次は変化球いくぞ」

ざ、と土を蹴る音がした。振りかぶった花井の手元から、白球は伸びるように飛び込んでくる。

「よし、今度はどんぴしゃだ」
「おお」
「もう一球、今んとこいける、か・・・」

安堵したような花井の表情の向こうで、田島と顔を寄せ合って話をしている三橋の姿が見えた。その刹那、心臓が嫌な音をたてて跳ね上がる。俺は、無意識に手の中の物を握りしめていた。


「おい、阿部!投げていいのか?」
「・・・・・・あ、ああ」

今、俺が投げ返した球を受け止めるのは、三橋じゃない。視線の先、ネットの向こう側で田島がしゃがむのが見える。

三橋はあそこ・・・にいる。

あそこで俺以外の捕手に向かって投げている。
見慣れたフォームから飛び出した白球が、ミットに吸い込まれる。軽い音がして、球をきっちり捉えた捕手が起ち上がり、投手に向かって笑いかけた―――投手の表情が弛む。


「――・・・何、笑ってんだよ」


それは最近ずっと見せつけられていた、あの奇妙な表情ではなかった。投げる喜びに満ち溢れた顔。しかし、あまりに久しぶり見た笑顔は、自分に向けられたものではない。三橋は俺の前では、あんな顔で笑わない。


―――でも、俺達は、つきあっている・・・・・・・んだろ?


「おい!」
「え・・・、あ、花井・・・」
「お前、今日やっぱり何か変だぞ。どっか調子悪いんじゃねぇか?」

何処も悪く無い、と言い捨てても、花井の疑いは解けなかったらしい。訝しげな顔のまま、主将は歩み寄ってくる。だが俺は、近づいてくる主将の肩越しに、薄いネットを隔てた向こうに、ふわりと揺れる淡色の頭に釘付けになっていた。一瞬、花井の影に隠れて表情が良く見えなかったが、再び現れた時には、さっきまでの無邪気な笑顔はとうに消えていた。

―――なんで、笑わねぇんだよ・・・。俺が、見てる、からかよ?

「阿部。監督には俺から言っとくから、お前は早く帰れ」
「帰らねーよ。お前こそ、さっさと次の球投げろ!」
「だから、おかしいって言ってるだろ!」

俺のどこがおかしいんだよ、言いかけた所で、ふいに、視界がぐるりと回った。世界が反転する。唐突に足の力が抜けて、胸が気持ち悪い。


「おい、阿部っ!」


花井のひどく焦った顔が、視界にぼんやりと映ったが、喉の奥で絡まった言葉は上手い具合に出てこなかった。

「なんだ・・・これ?」

そのまま立ち続けている事すら出来なくて膝をつくと、地面についた手の下で小石が軋んだ音をたてる。

「阿部!大丈夫か!?」
「くっそ・・・ふざ・・・けん、な・・・」

言葉は聞こえているが、もう誰が自分を呼んでいるのか分からなかった。全身の力が抜けて、体がゆっくりと傾いていく―――ブラックアウト。



消えかけてゆく意識の中で浮かんだのは、何故か三橋の笑顔だった。




□□□




『―――熱も、ちょっとあるみたいね』
『―――はい』
『―――じゃあ、―――だから今日はここで休ませて・・・』
『―――すみません。一時間位したら―――ます』
『―――あまり、・・・よ。気をつけて―――』

シャッとカーテンを引かれる音がして、うっすらと目を開けると、薄い布の間から誰かが自分の顔を覗いているのを感じた。

「う・・・あ・・・」

なんだ、これ。頭が重い。体を起こそうとしたら、こめかみに鈍い痛みが走って呻き声を漏らしてしまう。くそ、どうしたんだ俺は。

「あ、おい!無理すんなよ。寝てろって!」

やっとの思いで起きあがった肩の辺りを、ベッドに押し戻される。

「誰、だ・・・?」
「全く・・・。お前もどうしようもないな・・・」

溜め息混じりの台詞にむかついて、意地でも目を開けてやる気になった。

「は・・・ない・・・?」

声や話し方の雰囲気でほぼ見当はついていたが、顔を確認して感じたのは、落胆、だ。

「なんか如何にもがっかりしました、って顔だな・・・」
「わけわかんね・・・」

自分は、そんなに不満気な顔をしていたのだろうか。苦笑を零す花井の顔がその答えなのかもしれないが、あまり認めたくはなかった。

「今、保健の先生から言われたけど。阿部、今日はもう帰った方がいい」

熱もあるみたいだぞ。と言われて、漸くこの頭痛の原因がそれからくるものなのだと気がついた。

「馬鹿言ってん、な・・・。ちょっと休めば、これくらい・・・」
「馬鹿野郎!」

ガタンと音がして、花井が座っていたパイプ椅子が後ろ向きに倒れる。ああ、デカイ音たてて悪い。と律儀に謝りながらそれを先に直すあたりは、コイツらしいとしか言いようがない。
直した椅子にもう一度腰掛けてから、花井は口を開いた。

「これ以上、三橋に心配かけんなよ」
「・・・っ!」

今まさに、頭の中に思い描いていた人物の名前を出されて、思わず体が反応してしまう。失敗した、と思った時はもう手遅れだ。あからさまな態度をとってしまった事にも、とらせた相手にも、内心で腹立たしさが抑えきれなかった。

「・・・図星かよ。さっきお前が倒れてから、大変だったかんな」
「・・・・・・」


無言のまま睨み付けても、花井が怯む様子は、ない。

黙ったまま顎をしゃくって話の先を促すと、たいして堪えた顔も見せないでこれまでの経緯を話し始めた。

「阿部が倒れた後、三橋のヤツ真っ青になってさ。いくら落ち着けって言ったって、全然駄目」
「・・・・・・」
「仕方ないから、田島と栄口が部室に連れていったけど。さっき、やっと戻ってきた」
「・・・・・・あ、っそ」
「あっそ、て・・・。お前、マジでどうするつもりだよ?」
「どうするも、こうするも。今から部活戻るんだよ」

お前も早く戻れ、今日の投球メニュー終わってねぇだろ。言いながらベッドを降りようとするのを、またもや押し止められる。

「俺の方はいい。監督にも許可もらったからな。お前は帰れ」
「はぁ?大丈夫だって言ってんだろ!」
「その状態で部活に来たら、頭握るってモモカン言ってたぞ」
「あ、え?」

ざ、と自分でも血の気が引くのが分かった。流石の俺も、そこまで言われると無理に出るとは言えない。あの自力金剛力だけは、本当に勘弁して欲しい。人類至上最強とも思えるあの握力は、もはや現代科学を越えるターミネーター級だ。
一気に血の気の引いた顔を悟られないように背けながら、俺はふと思いついた疑問を口にした。

「・・・そういや、三橋のヤツ泣いてたか?」
「あ、三橋?・・・どうだったかな・・・」

思い返すように呟いた後、花井は額の脇を軽く揉むような仕草を見せる。記憶の中を探るようなそれは、どこまでが芝居で、どこまでが本気かは分からない。

「お前が『大変だった』って言ったんだろ」
「―――あん時の三橋は・・・ああ、泣きそうだったけど」
「泣きそう?」

瞬間、涙でぐちゃぐちゃになった情けない顔が浮かんだ。笑った顔は忘れそうなのに、泣き顔はすぐに浮かぶなんてどうかしている。だが、そんな途惑いなど目の前のヤツが気づくはずも無かった。

「泣きそうだったけど、泣いてはいなかった、と思う」
「・・・・・・あ、そう」

―――泣いてなかった、のか。

拍子抜けした、というか、肩に乗っていた重しが落ちたというか。どちらにしても、端から見ればひどく間抜けな面を晒していたと思う。

「ま、そういう事だから。阿部は早く帰れよ」
「あ、ああ・・・わ、かった・・・」

何が『そういう事』なのかは、さっぱり理解出来なかったが、渋々ながら頷く他はなかった。ここで無理を通しても、どうせ監督に頭を握られるだけなのだ。三橋の事は気になって仕方なかったが、どうせ他の奴等がいるんだから、俺なんかいなくても平気だろ。前に握られた時の痛みを思い出して、ぶるりと身体を震わすと。主将が、何とも言えない目で此方を見ているのに気がついた。

「んだよ。まだ、何かあんのか?」

言われたとおりすぐ帰るけど。と続けると、花井はふうっ、と深い溜め息をつく。

「栄口も言ってたけど、お前本当に・・・」
「はぁ?」

なんで、ここに栄口なんか出てくるんだ。しかも、今の主将の表情は、俺の事を馬鹿呼ばわりした副主将の顔と、何かが似ている気がする。

「分かってねーならいいよ。それよか、マジで今日は早く帰って休んどけよ」
「言われなくたって。さっさと帰って、飯食って寝る」

はいはい。と軽く受け流されたので眉間の皺を寄せると、「三橋には俺から言っとくから心配すんなよ」と存外に真面目な顔で返された。

「ああ、―――頼む」

まっすぐに視線を向けると、花井の眉が少し上がった。

「・・・・・・驚いた」
「は?」
「いや、こっちの話」

こっちだか、そっちだか知らないが、今日は栄口からも、こいつからも、訳の分からない事ばかり言われている気がする。もっとも一番分からないのは―――三橋だけどな。

「くくっ・・・」

また、『三橋』かよ。相変わらず不毛な自分の思考には、もう笑うしかないだろう。

「阿部、何笑ってんだ?」
「いや、こっちの話」

さっき言われた言葉をそのまま返してやると、一瞬訝しげな顔をしたものの、幸いな―――本当にそうなのか最近自信がなくなってきたが―――事に、それ以上突っ込まれる事はなかった。


「じゃ、な」


枕に頭を預けたまま別れの言葉を交わすと、最近やっと厚みを増してきた長身は、カーテンの向こうに姿を消す。漸く一人になった俺は、胸の中に溜まった澱を吐き出すように、ゆっくりと息をした。




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