【Limted*time(期間限定)】・4





振り返った襟元を半ば掴み上げるように引き寄せると、薄い体躯は怯えたように縮こまり、目蓋は固く閉じられる。誰かがこんな場面に出くわしたら、俺も相当な悪者だよな。どう贔屓目に見ても、こいつを脅かしているようにしか見えない。



「言いたい事なんて、ない、よ・・・」
「はぁ?じゃあ、なんだって言うんだよ!」
「言いたい事なんて、ないっ!」

次の瞬間、驚くほどの力で腕を振り解くと、三橋は此方に向かって、睨み付けるように視線を据えた。マウンドの上を彷彿とさせる強い瞳に、言葉が出てこない。

(いや、マウンドでのコイツが見ているのは俺じゃなくてミットだから、そういう意味で言うならばマウンド以上なのかもしれない)


「お、オレは・・・っ!」

だが、何か言いたげに動いた小さな唇は、結局―――ただの一音も漏らさずに閉じられる。
自転車のハンドルを持つ手が、夜目にもしろく浮いて見えるほど強く握られた。反射的にその事を咎めそうになって口を開き掛けると、一呼吸、ふっ、と軽く息を吐く気配があってから、ゆっくりとした動きで三橋は緩く首を振る。

さっき垣間見せた激情が不似合いなくらい、静かな動きだった。

「阿部くん、今日は、ありがとう。また、明日」

告げられた言葉は、これ以上の会話を拒絶する響きを伴っていた。少し俯いた表情は、折からくる夕闇の所為で普段以上に曖昧に見える。すん、と鼻を啜るような音が微かに聞こえて、じわりとした痛みが足下から這い上がってきた。

『三橋・・・・・・』

だが、目の前のヤツに問いかけた声は、自分の心の中だけのものだ。

そして、今度こそ振り返らずに薄い背中は遠ざかっていく。街灯の光が届かない向こう、三橋の姿が溶けるように消えるまで、少しの間見送っていた俺だったが、このままでも仕方ないので自分でも自転車の首を返すと家までの道を走り始めた。

「・・・言わないと、分かんねーよ」

本当に分からない。自分の気持ちも、三橋の気持ちも。俺を好きだというのなら、なんで普通に笑わないんだ。揃いで買ったグローブを見つめる瞳と、俺自身に向けられる視線が違いすぎて混乱する。

家に着いてから、今日買ったばかりの手袋を取り出した。三橋は明日、これと同じ物を使うんだろうか。新品の独特の匂いが仄かに残るそれを、強く握りしめる。俺はどうするつもりなんだろう―――分からないのは、三橋も俺も同じなのかもしれない。



□□□



翌朝の目覚めは、予想通り最悪だった。
昨日見た三橋の色々な顔が目の前をちらついて苛々する。睨むように向けられた目、諦めたように呟かれた言葉、今にも泣きそうなのに此方の手を拒絶する背中。
その全てが自分にとって理解不能だった。

「あいつ・・・俺の事を・・・」

―――好きだ、と言ったクセに。

ひょっとして、あの言葉は勘違いだったのではないか、という考えさえ浮かんでくる。

「いや・・・違う、か・・・」

あの時の三橋は、確かに俺の事を好きだと告げた。あの告白が嘘だったとは到底思えないし、何よりも、そんな嘘をつく必要がどこにあるというんだ?

「ちっ・・・」

だが、考えれば考えるほど、三橋の言葉に縋ろうとしている気がして苛立ちが募る。こんな事を考えるなんて馬鹿げている―――後、一ヶ月―――一ヶ月足らずで俺達の約束は終わるのだから。





部室の扉を開けるなり、賑やかな空気が飛び出してきた。見なくても「ああ、彼奴等か」とすぐに予想がついた。こんな朝っぱらから大騒ぎをするヤツはそうそういないからな。案の定、近くに寄ってみれば三橋と並んで何かを弄っている田島の姿があった。

「これ、いーな!!ゲンミツにオレもこれにしようかな」
「ふひっ、そしたら、田島くんもお揃いだ、ね」

いいな、いいな。と盛んに「いいな」を連発しながら四番が弄くり倒しているのは、昨日買ったばかりのバッティンググローブだ。常よりは多少慎重な手つきで扱っているようだが、俺にとっては、それでも充分すぎる程にぞんざいで、勘に障る。しかも隣にいる三橋がのほほんとした顔で、その様子を見ているのが、いっそう苛立ちを増した。

「ちっ・・・あいつら・・・」

自然に足が二人の居る方へ向かう。しかし、歩き出そうとした俺の肩に―――誰かの手が掛かって引き止められた。


「・・・なんだよ」

ふう、と深い溜め息がやけに耳障りだ。主将に負けない位の世話好きに認知されている栄口が、その手の持ち主だった。

「阿部、今すごい顔してる」

―――そんな顔で近寄ったら、三橋が怯えるよ。

告げられた内容に、眉間の皺が盛大に寄るのが分かる。ほっといてくれ。

「俺がどんな顔してるかなんて関係無いだろ。この顔は生まれつきだ」
「あー。じゃあ、聞くけど。何が気にくわないの?」

生まれつきの問題じゃないのは分かってるよね。と念押しされても頷く気にはなれなかった。それどころか、声を掛けられる前よりも更に不機嫌の度合いを増しながら、俺は横目で投手と四番の様子を伺った。相変わらず馬鹿みたいに暢気に騒いでいる。苛つきは胸の中で迫り上がって、今ではどうにかすると喉から飛び出しそうだった。

「阿部っ!」
「・・・っ、あ、ああ・・・なんだよ」

耳元で、押し殺した、だが強い調子で呼ばれて我に返った。もう一人の副主将の顔は、滅多に見ない厳しさを滲ませている。その表情を見ていると、僅かだが頭も冷えてきた。

「・・・・・・分かったから、もうあっち行けよ」

全く、無意識でそんな顔してるんだから面倒だよな。ぶつぶつと呟きながら、首を傾げる動作の向こうで、しかし俺の頭の中は、また別の問題に直面していた。
冷えた頭で考えれば、自分でも、どうしてここまで苛立つ必要があったのか分からない。理性というよりも感情に突き動かされた結果なのかもしれないが、その事から導き出される原因を、とてもじゃないが知りたいとは思わなかった。

―――いったい、なんだって言うんだよ・・・。

ここ2ヶ月ですっかりお馴染みになってしまった文句を浮かべながら、それでも埒もない思考を振り切るように、鞄の中に手を突っ込んで荷物を取り出す。まだ真新しい紙袋の封を開けると、この苛立ちの元とも言える物が現れた―――握る手に自然と力が籠もる。



「―――阿部くん、阿部くん」
「あ、三橋・・・か」

いつの間にか、すぐ傍らに三橋が立っていた。手には例のグローブを持っている。真っ直ぐに向けられる視線は、俺に苛立ちや面はゆさの入り混じった奇妙な感情を呼び起こした。だが、そんな風に狼狽える内心など毛ほども気づかない様子で、三橋は凝と此方を見ている。

「ごめん、今ちょっと話聞いてなかった。何か用か?」

落ち着かなさは尋ねる口調を早めて、自分でも些か不自然とも思える態度を取らせた。

「うん。田島くんが、このグローブ気に入ったから今度一緒に見に行きたいって」

首が緩い角度で傾けられる。同意を求めるかのように向けられる鳶色の双眸は、微かに瞬いて俺の顔を映し出していた。本当に何も気にしていないのだろう。しかし、今はその言葉に首を縦に振る事が出来ない。たいした用事じゃないのは分かっている。それ位の時間の都合をつけるのも難しくない。諾と頷く事は容易かったのに、口から飛び出したのは真逆の言葉だった。


「別に、二人で行ってくればいいだろ」
「え、でも・・・。あ、阿部くんも一緒、に・・・」

断られるとは思っていなかったのかもしれない。揺れる瞳は、何が俺の機嫌を損ねたのか計りかねている様子だった。もう一度重ねて「行かない」と宣告すると、三橋は了承の意を込めてか、ぎこちない動作で頷いた。無理に誘ってごめん。と呟く声が聞こえる。

「おい・・・」

背を向けて歩き出すのを呼び止めようとして、言葉が続かなかった。当然の帰結だ。目に見えて萎れた後ろ姿に、今更ながら胸がぎりと軋む気がする。

「ちっ・・・」

苛立ちは、すでに三橋から自分へと向きを変えていた―――どうしてあんな意地を張ったのか自分でも分からない、そんな事をしても、ただ三橋を傷つけるだけだったのに。

「・・・阿部。最高に馬鹿」

すぐ側から小声ながら不穏な文句が聞こえてきて、思わず其方を見ると、完全に苦り切った顔の栄口が溜め息をつく。お前には関係ないだろ。と応酬すれば、それなら自分でどうにかするんだね。と返される。

―――どうにかする、って何をどうしろっていうんだよ。

乱暴に閉めたロッカーの扉が、抗議のように騒がしい音をたてたが、俺の耳には大して入ってこなかった。苛立ちはいつの間にか焦燥感にすり代わっている。握りしめたままだったグローブは、再び鞄の中に押し込んだ。

―――古いヤツをまだ捨てて無くて良かった。今日だけは、これを使いたくない。



真新しい手袋は、奇妙な形に拗くれてロッカーの片隅に収まった。



□□□



練習さえ始まってしまえば、余分な事など考えずに済む。ミットの食い込む球の感触は、いつものそれよりも僅かに硬い。構えていた場所よりも右にずれたのは、この投げ手のクセだと最近分かってきた。

「阿部、悪い!」
「いや、これ位だったらぎりぎりストライクゾーンだから気にすんな」

白球を投げ返しながら伝えると、花井が手を挙げて応える。三橋の持つ精密機械のようなコントロールにあまり慣れてしまうのも善し悪しだ。予想外の暴投や、イレギュラーなバウンドに対応しきれなくなりそうで怖いと感じた事さえある。

―――怖い?

浮かんだ単語に、ふ、と疑問が湧いた。技術力の高低は三橋の所為じゃない、己の問題だ。だが『怖い』という言葉は頭の中からなかなか消えようとはしなかった。



「なんだっていうんだよ・・・」



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