【Limted*time(期間限定)】・2




屋上で暖かい日差しを浴びながら、昼飯を食べる。隣に座っている三橋は、おばさんの作った弁当を、俺は購買で買ってきたパンと牛乳だ。二人並んで口を動かす。時折交わす会話は他愛のないものばかりだ。

「――でね、現国の中西先生が」
「・・・うん」

つきあい始めて一ヶ月以上が過ぎたところで、俺達の間に目立った変化は無いように思える。
手を繋ぐ訳でもない、唇を重ねた事もない。強いて言うならば、部活の終わった後に二人だけで帰宅する事くらいだろうか。しかしその時間も、殆どが投球やその他野球に関する話題に費やされるのだから、やはり恋人の時間というには程遠い。
卵の挟まったサンドウィッチの端を囓りながら横目で見ると、三橋の不思議そうな視線とかち合った。


「阿部くん・・・?」
「あ、ああ。悪い、ちょっと考え事してた」
「う、ん・・・」

鳶色の瞳が傷ついたように反らされて、視線が手元にある弁当箱の上に落ちる。殆ど食べ終わってしまっている容器の隅を、箸の先がつついていた。行儀が悪いと注意する事は容易いが、それをするには気が重い。三橋が必死で堪えている何かを、決壊させてしまう気がしたからだ。途切れた会話は、再開の切っ掛けを見つけられずに沈黙ばかりが過ぎた。

「・・・・・・」

溜め息が一つ、ぎこちない動きで茶色の頭が起ち上がる。ズボンの尻を叩いて、空になった弁当箱を無造作に鞄に突っ込むと、次の授業で当てられそうだから、早く戻るね。と呟く声が聞こえた。

「三橋・・・、ちょっと、おい待てって!」

置き去りにされそうになって、反射的に伸ばした腕が細い手首を掴んだ。薄い皮膚、硬い骨の感触、片手で簡単に回りきってしまうほど頼りない手首。そんなはずもないのに、力を込めたら折れてしまいそうだと思った。

「・・・離して、くれ」

掠れる声が耳朶を打ったが、俯いた下の表情が気になって無視をした。手元に引き寄せても、三橋は顔を上げようとしない。頑なに背けられる面に苛立ちが募り、自分でも強引と思える力で華奢な顎を掴んで持ち上げた。

「おい、なんで逃げようとするんだよ!」

「っ・・・」

驚きで瞳が丸く見開かれる。だが、驚いたのは三橋だけじゃない。

「聞いてんのかよ!み、はし・・・」

明るい色をそこには、見たこともない顔が映っていた。熱に浮かされたような、余裕の無い表情。これが、自分の顔なのか?信じられなくて、再度確認しようと鳶色の瞳の奥を覗き込むと、拒むように淡色の睫毛が伏せられた。手首を掴む手に、意識しなくても力が籠もる。

「阿部くん、痛い、よ・・・」
「あ、わ。ご、ごめん」

控えめな抗議の声が耳に届いて慌てて手を離すと、白い肌の上には紅い指の痕が残っていた。
耳の奥で、どくりと脈打つ音が響く。
口の中が無闇に乾いて堪らない。

「力、入れすぎちまったみたいだ・・・手首、大丈夫か・・・?」

言葉の一つ一つが喉に絡みつくようで気持ち悪かった。自分の伝えたい事が何か他にある気がしたのに、曖昧な思いつきは捉まえる前に揺らいで消える。焦燥感だけが増した。
しかし、漸く綴ることが出来た気遣いに、三橋は緩く首を振るだけで返事をしない。

「三橋?」
「・・・大丈夫だ、よ」

僅かの逡巡を見て、それを「嘘だ」と糾弾する事は出来なかった。うっすらと残る痕をもう片方の手が覆い隠しながら、三橋はもう一度「大丈夫だ」と繰り返す。

「本当に大丈夫、だから」

俯いたままの足がじりと下がっているのに気がついて。呼び止めようとした瞬間、細い身体を翻して三橋は踊り場に続く扉に向かって駆け出している。伸ばした腕が、今度は空を切った。


「三橋っ!」


階段の向こうに消える後ろ姿を見ながら、俺は呆然と立ちつくしていた。足音が段々と小さくなり、やがて何も聞こえなくなる。

「――俺が、何したっていうんだよ・・・」

昼休みの終了を告げるチャイムが鳴って、屋上にいた他の生徒達も自分の教室に戻り始めた。遅れて俺も、のろのろと歩き始める。

振り返らずに走り去る後ろ姿の残像は、自分の席に座ってもまだ目の前をちらついていた。







「阿部。阿部、おい聞いてんのかよ?」
「あ、ああ・・・」

肩を軽く叩かれて声の方を見ると、荷物を纏めた花井と水谷が立っている。

「もう授業終わったぜ。部活行くんだろ?」

周囲を見回せば、確かにクラスの殆どがすでに出払っていた。何呆けてんだ。と言われて返す言葉もない。机の上で開きっぱなしだった教科書とノートを、鞄に仕舞ってから起ち上がる。今日はつくづく集中力の欠けている日らしい。一日のうちで二度も同じ事を言われるなんて。と思った時、ふいに三橋の顔を浮かんできた。

「そういやさ、花井。三橋のヤツ今日なんか変じゃなかったか?」
「そうか?でも、俺よりもお前の方が、三橋の調子は良く分かるだろ」
「あー、まぁ・・・でも」

気苦労の多い主将の眉間に皺が寄る。ひょっとして、お前達喧嘩でもしてんのか?と遠慮がちに問われても、事実とは異なるので首を横に振った。

「じゃあ、なんで三橋の調子が悪いか?なんて俺に聞くんだよ。阿部に相談出来ない事、俺に相談する訳ないだろ?」
「――花井、それは買いかぶりすぎ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよ」
「阿部、また気づかないうちにキツイ事言っちゃったりしてんじゃないの?」
「クソレ、・・・お前喧嘩売ってんの?」
ひどーい、花井助けてー。等と口先だけで騒ぐ水谷は、この際無視をする。

――なんでも俺に話せるんなら、どうして何も言わないで逃げたりするんだ?

流石に、そこまで花井達にぶちまけるわけにはいかないので、三橋の話はそれきり打ち切った。とりあえず、この問題については考えないでおこう。それよりも、今は週末の練習試合に向けて投手(みはし)にも調整をつけてやらなきゃいけないんだ。

「三橋・・・」
無意識に唇が言葉を零していた。また『三橋』かよ。考えないでおこうと決めた矢先に、もうこれだ。俺も大概進歩がない、と自分の拳でこめかみをぐり、と抉った。

「ほら、気になってんなら早く仲直りしろよ」
「だから、そんなんじゃねぇよ」

うっかり口にした名前は、余分な憶測を生んだらしい。花井は相変わらず心配そうな顔で此方を見てくるし、さっきは巫山戯ていた水谷までもが神妙な表情をしている。

「マジで喧嘩とかじゃねぇから」

納得はしてないんだろうけど、それ以上俺が話す気が無いと悟ったのか、坊主頭が微かに頷いた。
喧嘩の方が余程気楽だと思う。
実際の三橋とは喧嘩にすらならない。いつも俺が怒鳴り散らしてアイツが謝って、それでお終いだ。
三橋は俺が何を考えているかろくに理解していないだろうし、俺だって三橋は分からない。こんなんで『付き合ってる』って事自体おかしいんだ。言葉だけで実質が伴っていない、三橋がこの状況をどう思っているのか、俺には想像もつかなかった。




□□□




練習の後、荷物も纏め終えた俺が雑誌を捲っていると、ちらちらと此方を見る視線に気がついた。

「――おい、そんな暇あったら早く着替えろよ」
「は、はひっ!」

声をかけた途端に、何かが落ちる物音がした。続いて何かを慌ただしくかき集める気配。半分以上予想をしていたものの、顔を上げれば三橋が必死の形相で、ロッカーから転がり落ちた荷物を押し込んでいる。
またかよ。内心で舌打ちをしながら俺は本を閉じた。

「ほら、手伝ってやるから早くしろ」

隣に立つと、三橋はあからさまに身体を硬くした。俺が怒るとでも思ったのだろうか。そんな考えが頭を過ぎったが、埒もないと振り払う。必要に思われる荷物だけ摘み出して、残りは無造作に金属の箱に押し込んだ。

「阿部くん、あ、ありが・・・とう」
「別に」

短く答えると、三橋はゆっくりと俯いた。肩が微かに震えているのが見えて、泣かせたのかと思ったが、再び持ち上げられた顔に涙の跡は無かった。「帰るぞ」と告げると、茶色い頭は素直に頷く。その様子を見ながら、疑問が口をついた。

「なぁ、三橋。お前、今楽しいの?」

「たのしい?」

少し吊り上がった瞳を丸く開いて、三橋が俺の顔を見る。


「ああ、俺と付き合ってて『楽しい』のか、って聞いてんだ」


付き合って楽しい。と小さく反芻する声が聞こえた。逡巡の時間は短かった。鳶色の瞳はひたりと俺を見据えると、はっきりとした声で「オレは楽しいよ」と告げる。

「そっか・・・」

はっ、と胸の中の息を吐き出してから、オレは手のひらが僅かに汗ばんでいるのに気がついた。どうやら返答を待つまでの時間、自分は相当緊張していたらしい。その理由を何故だと考える前に、三橋はもう一度同じ言葉を口にする。

「阿部くんと付き合えて、オレは本当に嬉しい、し、楽しいよ」

嬉しい、楽しい。三橋の唇は喜びを綴るけど、表情は泣いているような笑っているような奇妙なものだった、そういえば、最近コイツのこんな顔ばかり見ている気がする。
前はもっと普通に笑っていたんじゃないかと思い返しても、浮かんでくるのは今の三橋の顔だけだ。


「楽しいんなら、もっと普通に笑えよ・・・」

言うつもりのなかった言葉が自然に口をついた。ああ、やっぱりおかしいのは俺の方なのかもしれない。白い顔が強張るのが見えて、言葉を発した口中が砂を噛んだように気持ち悪かった。
三橋が顔を背ける。だらりと下がった手を俺が掴む。

――また、同じ事の繰り返しだ。

昼休みの後ろ姿を思い出して、握る手に力を込めた。一日の内で二度も逃がすつもりは無かった。手を繋いだまま部室を出ようとして、俺は引き止められる。

「阿部くん、手が・・・」
「あ、痛かったか?」
「痛く・・・ない、けど」
「じゃあ、いいじゃん。痛かったらすぐ言えよ」

返事は無かったが、手が振り解かれないのを了承と受け取って駐輪所に向かった。こんな時間まで残っているのは野球部くらいのものだから、すれ違う生徒や職員は一人もいない。それでも歩いている間中、三橋は一言も喋らなかった。
駐輪所にぽつんと残された自分達の自転車が見えると、握りしめていた手が静かに解かれる。

相変わらず黙ったまま、鍵を回す三橋は何を考えているのだろうか。手の中から失われた温もりを、名残惜しいと感じているのが自分だけのような気がした。





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