【君の手で触れて】・9








家じゃなくて部室に戻って来てしまうなんて、間抜けにも程がある。しかもみんな帰った後だから、鍵はかかっていて中にも入れない。

「オレ、何やってんだろ・・・」
独りごちながら手を放すと、自転車はそのまま横倒しになった。支えていないから当然なんだけど、ちゃんとした形に直そうという意欲は湧いてこない。それを、オレはひどく疲れていて、お腹が空いている所為だと思った。
ドアにもたれ掛かるようにして腰を下ろすと、いつの間にか止まっていたはずの涙が一粒こぼれ落ちる。自転車を漕ぎながら散々泣いた所為で、ここに辿り着いた時には涙はすっかり止まっていたけれど、代わりに、目の回りと鼻先がじんと痺れている。たぶん、じゃなくて絶対酷い顔になっているんだろうな。
「顔、洗った方が、良い、よね・・・」
明日になっても、こんな酷い顔をしていたら、阿部くんにきっと怒られる。怒るだけじゃない、阿部くんは優しいから、オレの事を心配してしまう。
「阿部くん・・・」
こんな時でさえ、オレの頭の中は阿部くんの事ばかりだ。
「違う・・・」
こんな時だけじゃない、ずっと前からそうだった。ずっと、ずっとそうだったから、気づけなかった。気づいても認めるのが怖かった。こんな簡単な事に今更気づく、自分の馬鹿さ加減が腹立たしい。
でも、もう全て終わってしまった事なんだ。怒っても、泣いても時間が巻き戻るわけじゃない。


オレは起ち上がると、倒れたままの自転車に近づいた。倒れた拍子に転げ落ちたバッグからタオルを取り出して、すこし汚れたそれを手に水道に向かう。顔を洗って落ち着いたら、家に帰ろう。お母さんが夕飯の支度をしてくれている。ちゃんと食べて早く寝ないと、朝練だってある。明日の朝になったら、オレは阿部くんに向かってボールを投げないといけないんだ。




「三橋っ!」

振り返る。オレは、目の前の光景が信じられなかった。荒く息を吐きながら、阿部くんが水道の近くに立っていた。
「え・・・阿部くん・・・」
声も出せず馬鹿みたいに突っ立っているオレに向かって、阿部くんは歩いてくる。距離が縮まると阿部くんの額に汗が浮かんでいるのが見えた。オレの事を追いかけて来てくれたんだと思った途端に、淡い希望が胸の中に灯る。でも次の瞬間、さっき耳にした柔らかな声の残響が浮かんで、ささやかな願いを即座に打ち消した。そうだ、そんな筈は無い。

―――だって阿部くんには、もうあの子がいるんだから。

「こんの、馬鹿野郎っ!なにふらふら出歩いてんだよっ!」
「ひっ!」
「全く・・・・・・」
「・・・・・・ご、ごめん、なさい」
「ったく、家に電話したら、まだ帰ってねぇって言われたし。花井なんかに聞いても、誰も知らないっていうから、ひょっとしてここじゃないかと思って来てみたら・・・」
「あ、べくん・・・、怒ってる?」
「・・・怒ってねぇよ」

嘘だ、怒ってる。とは、どうしてだかオレも断言しきれなかった。口調は乱暴だったし、苛立たしげな表情も見えたけど。今の阿部くんは、オレが逃げ出す前と、どこかが違っているように感じられたからだ。その所為だろうか、阿部くんと二人きりでいる事が不思議と少しも怖くない。
こっちに来い、と言われて阿部くんの後ろを素直について行く。どこへ行くんだろう。首を傾げながら歩いている途中で、携帯電話を渡された。
「うお、お、オレの、携帯!」
「お前、さっきこれ落っことしていっただろ」
電話かけたら、足下でピロピロ鳴ってやがるから持ってきた。と言われて、オレはようやく自分が携帯を落としたままだったのに気がついた。最後まで格好悪かったな。と思いながら「迷惑かけて、ごめんなさい」と謝ると、阿部くんは「そんな事はねぇよ」と呟く。そう応える阿部くんの耳の先が、ほんのりと赤くなっている気がした。





そんな風に歩いているうちに、オレ達は部室の前にまで戻ってきていた。倒れていたオレの自転車はちゃんとスタンドが建てられて、横に阿部くんの自転車が並んで止まっている。なんでもない風景なのに、ちょっと嬉しい。
「ちょっと、待ってろよ」
阿部くんはバッグに手を入れると何かを取り出した。手の中に収まるくらい小さな銀色の鍵だ。
「ほら、いつまでもここに居るわけにはいかねぇけど、とりあえず入れ」
「ぶ、部室の鍵・・・」
本来なら先生の手で保管されている筈の鍵を阿部くんがどうして持っているんだろう。オレの疑問に阿部くんはちょっと早口で説明してくれた。「合い鍵だよ。なんかあった時の為に俺と花井が1個ずつ持ってる」でも、監督とかには言うなよ。と付け加えられて。オレが頷くのを見ると、微かな金属音をたてて部室の扉が開いた。

「そういや、お前さっき何しにあそこにいたわけ?」
部室に入るなり質問が飛んできた。顔洗おうと思ってた、と答えたけど、実際はまだ洗えていない。洗うより先に、阿部くんにここへ連れてこられてしまったから。でも、その事はなんとなく言いづらくて黙っていると、阿部くんの表情がちょっと険しくなった。
「で、洗ったの?」
「え、と、ま、まだ・・・」
一瞬、誤魔化そうかと迷ったけど無理だった。なにしろオレの嘘が阿部くんに通用した試しは、今まで一度だって無い。仕方がないので素直に認めると、眉間に寄せられていた皺が一層深くなる。
「おい・・・・・・」
「あ、阿部くん・・・?」
低い声をだされて、身体が反射的に震えた。
「・・・顔、洗ってこい」
「う、え、で、でも・・・」
「話なら、ちゃんと聞いてやるから」
「う・・・」
反論できる隙なんか何処にも無い。これ以上ぐずぐずしていると、部室の外につまみ出されそうな雰囲気だったので、オレは慌てて顔を洗いに行こうとする。ドアを開けて飛び出す寸前に、待て、と呼び止められて振り向くと柔らかい物が飛んできた。ふわふわで日の光に匂いがするタオル。阿部くんのタオルだ。
「それ、使っていいから。新品じゃないけど洗濯してあるし」
「う、うん。ありがと・・・ございます」
何が“ございます”だよ。と吹き出す音が聞こえる。
「お、お礼を言ったのに、笑われ、た・・・」
ショックを隠しきれないオレとは対照的に阿部くんはひどく愉快そうだった。でも、それもほんの少しの間の事で、すぐに表情が真剣な物に変わる。

「・・・・・・三橋、お前の言いたい事が済んだら、オレの話も聞け」
「はい・・・」

阿部くんの話ってなんだろう。聞きたいけれど、聞きたくない。聞いてしまったら、この気持ちも諦めなきゃいけないんだろうな。と、なんとなく感じてオレはタオルを握りしめた。





顔を洗って戻ると、阿部くんは部室の中で一人ぼんやりとしていた。とりあえず彼の正面に腰を下ろして、まっすぐに向き合う。正直、どんな風に見られているかと思うと怖かったけど、こんな機会はもう二度と無いと思うから、頑張らなきゃいけないんだ、と自分に言い聞かせる。

「あ、阿部くん、から、どうぞ・・・」
「俺からって、なんだよ」
「だから、話あるって・・・」
阿部くんの口が、半開きになる。あ、間違えた。オレが先に話さなきゃいけないんだっけ。気づいた時には、阿部くんの顔はちょっと不機嫌な感じになっていた。せっかく、さっきまで話を出来そうな雰囲気になっていたのに、オレはまた無意識に逃げようとしていたのかもしれない。
「お前が言い出した事だろ」
「でも、阿部くんも・・・」
やっぱり、オレは怖いんだ。自分の気持ちを告げた後に、それを否定されると知っているから言うのが怖い。どうせなら、先に望みの無い事を教えて欲しかった。そうすれば、少しは傷つく量も減らせるかもしれない。ずるい考えだと判っていても、そう思わずにはいられない。

「お前さ、何考えてるわけ?」
そんな風に迷っていると、阿部くんの目付きが変わった。さっきまでは比較的穏やかだったのが、今は明かな怒りを含んだ色に変わる。指先が、苛ついたように硬い髪を掻き混ぜた。
「俺の事からかって、そんなに楽しいのかよ・・・」
「・・・か、からかってなんか、い、ない!」
吐き捨てるように言われた言葉を反射的に否定する。それだけは違う。それだけは誤解して欲しく無かった。でも、阿部くんにしてみれば、オレの言葉なんて本気には出来なかったんだろう。

「じゃあ、何だって言うんだよ。今更追っかけてきて、あんな事して。俺にどうしろっていうんだよ!」

『あんな事』と言われた瞬間、オレは心臓が止まるかと思った。指先から頭の天辺まで痺れるくらいに熱い。握りしめた手は震えが止まらなくて、どうにかすると涙まで零れそうになる。

恥ずかしい、熱い、怖い、逃げたい

―――でも、もう逃げたくない。

「だって・・・、お、オレ判ったんだ・・・」

そうなんだ、オレは判ったんだ。逃げたくない、伝えたい。さっきまでの自分の考えが、どんなに自分勝手だったかを思い出すと恥ずかしくて堪らなかった。でも、こんなにも強く思えるのは、相手がきっと君だから。


「何が?何が判ったんだって言うんだよ」



「お、オレ、あべくんの事、好きなんだ・・・」












←back  □□□  next→