【君の手で触れて】・Final






―――この気持ちは口にしたら、こんなにも簡単で、こんなにも優しい言葉だったんだ。

それに気がつくのが遅くて、ごめんなさい。心の中でオレはこっそりと謝った。今この場所で、謝罪の言葉は必要無い。阿部くんに伝えなければならないのは、「ごめんなさい」ではないからだ。


「気の所為だろ。それとも俺に気ぃ遣ってんのかよ。そうしないと俺が球取らないと思ったのかよ、俺は優しくないけど、部活に支障があるような事するつもりは無いって言っただろ」
オレの必死の告白に返ってきたのは、繰り返し聞いた文句と阿部くんの憮然とした表情。でも、それがすごく阿部くんらしい気がして、オレは少し笑ってしまった。

「う、うん。阿部くんは、優しくない・・・」
「・・・・・・そうかよ」
「でも、優しいよ・・・」
「・・・訳わかんね」
優しくないと言うと眉間に皺が寄って、優しいと言えば皺は弛む。言葉通り訳が判っていなくても、阿部くんは俺の言葉を否定しようとはしなかった。『ちゃんと聞く』と自分で宣言したとおり、要領の悪すぎる俺の説明を、真っ直ぐに受け止めようとしてくれている。
「阿部くんは、じ、自分一人で何でも決めようとする・・・し」
「・・・・・・それが、何?」
「オレの気持ち、も全然考えて無くて、勝手に決めて、勝手に納得して・・・」
「勝手ってなんだよ!あれは、お前が・・・」
気持ち悪い・・・って・・・。最後の方は殆ど聞き取れないくらい小さな声だった。俯いた唇から苦しげな息が漏れる。
「うん・・・オレも、すごく酷い事言った。オレも勝手だったから・・・」
「・・・・・・」
「オレ、あの時自分の事しか考えて無くて・・・今もやっぱりそうなのかもしれない、けど・・・」
「・・・・・・」
「でも、やっぱり、阿部くんの事、好き、だと思う」
「・・・なんだよ、なんなんだよ」

阿部くんはがっくり肩を落とすと、とうとう床に座り込んでしまった。ロッカーに背中を預け、だらりと力を抜いてオレの顔を見上げている。意図した訳ではないのだろうけど、まるであの告白の後と一緒。違うのは、オレが阿部くんの瞳から絶対に目を反らさないという事と、オレの気持ちをオレ自身がちゃんと判っているという事だ。

「なんだよ・・・それ・・・」
「・・・うん」
「お前さ、そんな事今頃言って、俺に何を言えって・・・」
「・・・うん」
「うん、じゃねぇだろ・・・」

そうだね、と言いたかったけれど俺は黙っていた。そんな事を言ったって、今更何の役にも立たない事は判っている。だってオレは遅過ぎたんだ。阿部くんが、好きだと言ってくれた時に応えられなかったオレ。オレが好きだと自覚した時には、阿部くんの隣には他の人がいた。現実はそれだけだ。
だから、終わってしまった感情をこんな風に話すのは、自分勝手なオレの我が儘なんだけど。あれだけたくさん泣いたんだ。せめて、これくらいのエゴは許して欲しい。

オレを見る阿部くんの目が好きだった。
オレを呼ぶ阿部くんの声が好きだった。
オレに触れる阿部くんの手が好きだった、から―――

「あ・・・・・・」
でも『好き』という言葉が頭に浮かんだ瞬間、目元が信じられないくらい熱くなった。咄嗟に手で押さえつけたけど、閉じ込めきれなかった一粒がほろりとこぼれ落ち。オレは、思わず阿部くんから視線を外してしまう。
「う・・・ぐ・・・」
こんな顔を見られたくなんかないのに。必死で顔を背けたけど、努力の甲斐もなく床には大粒の水玉模様が増えていく。
「なんだよ・・・」
耳に、ひどく乾いた呟きが聞こえた。座り込んでいた阿部くんが起ち上がる。首の後ろを掻く仕草は、阿部くんが何か迷っている時に見せるクセだ。
「本当は、こんなの反則だろ。試合が終わってから、逆転満塁ホームランなんてありえないだろ。」
「え、あ、阿部くん。な、何、言ってるん、だ?」
「大切な話」
俯いたオレの顔を覗き込むようにして、阿部くんは話続ける。「大切」という単語につられて顔を上げると、阿部くんはすごく緊張した顔をしていた。でも、試合とか、ホームランとか、今までの話にどうしたら関係してくるのだろう。
「三橋・・・」
「は・・・い・・・」
「さっき会ったあの子さ、・・・関係無いかんな」
「え・・・?」
突然、話が飛んだ。オレの話し方は判りづらい、と良く言われるけれど、今の阿部くんはそれ以上によく判らない。どうしようもなくて首を傾げると、阿部くんが深い溜め息をついた。
「お前誤解してたみたいだし。俺も、お前が楽になるんだったら誤解されたままで良いと思ってたんだけど。なんだかマジで違うみたいだから」
「う・・・え?」
消えかけた灯が、ふいに戻ってくる。そんな筈は無いと何度打ち消しても、今度はなかなか消えようとはしなかった。全身の感覚が、阿部くんの言葉に集中する。予感というより確信に近いものが、オレにはあった。今から阿部くんが言う事が、彼の本当の答えなんだ。もう「聞きたくない」なんて絶対に思わない。少しでも早く阿部くんの話が聞きたい。痛いくらいに早く脈が走る。ゆっくりと言葉を綴る阿部くんの黒い双眸を、オレは必死で見つめていた。


「俺も、まだ」

―――三橋の事が好き、なんだ。




「ひっ、あ、あべ、くんっ。あべ、・・・くん」

まだ、と言われたところで、もうオレの涙はすごい勢いになっていた。ぶっきらぼうで、ちょっと掠れて、すごく優しい声に、自分も何か言わないと、と思った。でもオレの口は馬鹿みたいに、ただ阿部くんの名前だけを繰り返す。だって、嬉しいとか、すごいとか、大好きとか、みんな一緒にぐるぐる回ってる。全部伝えたいけど、どの言葉から言えばいいのか判らない。

「あ、べくん・・・お。オレっ・・・」

とりあえず、もう一度「好き」とだけ伝えるので精一杯だった。




□□□




ひとしきりオレが泣いて、泣いて、泣きやんで。泣きすぎだって怒られて。また顔を洗いに行かされて。そうして部室に戻ってくると、阿部くんが、ぽつりと呟いた。

「触ってもいいか?」

掠れて小さな声。乾いた部室の空気に、ぽとりと落ちる一欠片の願い。阿部くんの瞳に弱々しい光が揺れて、それを見たオレは阿部くんがまだ戸惑っている事に気がついた。そうだ、あの時からきっと、阿部くんの中の時間は動いていない。好きだという気持ちは伝えられたけど、オレが阿部くんにつけてしまった傷は、口を開けたままの状態でまだこの場所に残っているんだ。

「うん・・・」

ごめんなさい、と言いかけたけど、その言葉を口にするのはやめておこうと思う。代わりにはっきりと頷くと、ぎこちない動きで阿部くんの手が伸ばされるのが見えた。オレは、あの手の感触を知っている。固くて少しざらついた指先、オレよりも大きく、オレよりも高い体温。誰よりも大切で、特別な手。
だが、もう少しでオレの頬に触れる、その寸前で阿部くんの手は躊躇うように握られた。

「阿部くん・・・?」
「わりぃ・・・・・・」

心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。消えた筈の不安が足下から押し寄せて、オレは思わず阿部くんの双眸を見つめた。やっぱり、もう何もかもが遅かったのかもしれない。掛け違えたボタンは、元に戻せないのだろうか。


「そんな顔すんなよ」
「で、でも・・・」
せっかく顔洗ってきたんだから、もう泣くな。と言われて、オレは必死で涙を堪えた。頑張りすぎて変な顔になる。そんなオレの顔を見て、阿部くんはちょっと笑ったみたいだった。

「なぁ三橋。頼みがあんだ」
「た、・・・のみ?」

ああ、と溜め息の様な声を漏らしてから、阿部くんは続ける。

「目、閉じてくれないか?」

まだ、少し怖いんだ。と阿部くんは言う。オレに触れる瞬間、オレの瞳に少しでも怯えがあったら、迷いがあったら。そう考えると怖くて触れないんだ。

―――だから、目を閉じて欲しい。

「う、うん。わ、かった。目閉じるよ」

阿部くんに頼まれた通りに、オレは目を閉じる。本当は阿部くんの顔を見ていた気持ちもあったけど、それよりも阿部くんを安心させてあげたかった。それに見えなくても構わない。阿部くんの声は聞こえるし、触れてもらう事も出来る。そう思えば、オレの口の端も自然と綻んだ。


「・・・ごめんな」
「あ、阿部くんは、謝らなくて、いいんだ!!」
「三橋・・・」

そうだな。と言ったクセに、阿部くんはもう一度ごめんと謝った。謝るな、と言うと、また「ごめん」と言う。

「いつもと逆みたいだよな」
「ふ、ひっ」

そうだね、阿部くんとオレ。阿部くんが怒る、オレが謝る。そんないつもとはまるで逆だけど、また「ごめん」と謝った阿部くんの声に、もう暗いものは少しも混じっていなかった。

「三橋・・・」

すぐ側で声が聞こえる。何も見えない分、耳から入る音、肌に触れる空気にオレの全ての感覚が集中する。顔のすぐ側で柔らかい風がおきた。



額に触れ、目蓋をなぞり、頬に添えられる懐かしい感触。
ざらついた指先、オレより高い体温。温かくて優しい感触。




じわりと伝わる熱の心地よさに目を閉じたまま、オレは阿部くんの手の上に、自分の手をゆっくりと重ねた。






end