【君の手で触れて】・8





少しでも早く追いつきたくて、オレは必死にペダルを踏んだ。だが部室を出てからそんなに時間が経っていた訳でもないのに、阿部くんの背中はなかなか見つからない。
「そういえば、用事、あるって、言ってたっけ・・・」
ふいに、不安が胸を過ぎった。いつもの習慣というか、オレは阿部くんとの帰宅道をそのままなぞるように走っている。でも、阿部くんが言ったように、本当に用事があるとしたのなら、この道をいくら走っても阿部くんには会えないのかもしれない。
ふと、メールをしてみようかと思いついた。路肩に自転車を止めて、オレはポケットから携帯を取り出す。ボタンを操作すると、すぐに阿部くんの名前が出てくる。淡い光を放つ液晶に浮かぶ特別な名前。

「・・・そうだ、特別、なんだ」

この感情に気づく前からも、この人の名前はオレにとって特別なものだった。判ってしまえば、溢れ出す感情を抑える物は何もない。

「今、ど、こ、で、すか・・・」
一語ずつ、口に出しながらボタンを押す。急いて震える指先を必死で抑えながら、さっき見た阿部くんの表情を声を、オレは思い出した。「阿部くん」と呟くと、心臓の音が身体中にうわんと響く。耳の奥が痛い、喉の奥も焼け付くみたいだった。

―――特別だったんだ。

きっと、ずっと前からそうだった。特別だったから、怖かった。自分が、阿部くんの特別になれないと思っていたから逃げ出した。阿部くんの言葉を受け止めることも、認める事も怖くて。反面、その事を嬉しいと思う自分が気持ち悪かった。
自分の中に、こんなに高慢な感情があるなんて思わなくて、苦しくて。藻掻いたあげくにオレは、それを全部阿部くんに投げつけた。


そして、オレは阿部くんを傷つけたんだ―――


液晶の画面に、ぱたりと滴が落ちる。

「泣いちゃ、駄目、だ」
泣いている暇なんかない。少しでも早く阿部くんに会いたい。会って、オレが気づいた事を全部伝えたい。目元を強く擦る。ひりひりした感触は残ったけれど、涙はもうそれ以上流れ出してはこなかった。

「ちゃん、と、言わない、と・・・」


深呼吸をして送信ボタンを押すと、何処からか微かなメロディが聞こえた。




―――阿部くん?

オレが立ち止まっていた少し先。街灯に照らし出された路地の入り口に、見覚えのある後ろ姿が立っていた。


「あ、べくんっ!」

やっと見つける事が出来た。考えるより先に身体が動く。でも、思わず駆け寄ろうとした瞬間、阿部くんの身体が少し動いて、彼の影になった場所にもう一人、誰かがいる事に気がついた。

「あ・・・・・・」

頼りない光が、長い髪の上で弾けている。街灯を浴びて更に白い肌と華奢な身体つきが、細い影を落とし、俯き加減の横顔を儚いものに見せていた。



―――阿部くん。告白。髪の長い。8組。阿部くんのことが好き。女の子。



そしてオレは、それが誰だかを思い知らされる。




目眩がした。名前も知らない彼女は、阿部くんに寄り添うようにして立っている。蹌踉めいて一歩下がると、足下で耳障りな音がした。目をやると、それはオレの手から滑り落ちた携帯電話だ。同時に、背中を向けていた阿部くんがオレの方を振り返る。

「三橋・・・!?」
街灯の真下だった為に、阿部くんの表情は夜目にもはっきりと判った。驚いた様に見開かれた瞳、唇が何か言いたげに動いたが、結局は何も告げないまま固く結ばれた。

「ご、めん、なさい・・・」
「おい・・・何謝ってんだよ・・・」
傍らの彼女を押しのける様にして、阿部くんがオレの方に来る。ゆっくりとした歩みだったが、確実に近づいてくる彼を見て、オレは血の気が引いた。阿部くんが進むのに合わせて、じりと後ずさる。だが、そんな事など気づきもしないのか、阿部くんはオレのすぐ前までくると静かに口を開いた。

「ごめ・・・」
「なぁ、これでお前も安心しただろ」

「あ、んしん・・・?」

告げられた言葉の内容が咄嗟に理解出来なくて、馬鹿みたいに聞き返してしまう。「安心」ってなんだろう、オレが何に「安心する」と阿部くんは思っているんだろう。オレはのろのろと首を横に振った。判らない。阿部くんの言っている事が、本当によく解らないんだ。
「三橋・・・・・・」
阿部くんは、少し困ったような顔をしていた。オレも何か言いたくて口を開いたけど、それは音にならなくて渇いた呼吸音だけがやけに耳に響く。阿部くんの眉が更に深く顰められた。でも、それは不機嫌というよりも何処か悲しそうな表情で、オレは目の奥の熱がぶり返してくるのを抑えようと、固く目を閉じた。
「この前言った事、全部忘れてくれたよな」
「あ・・・え・・・」
もうお前の事、変な目で見てねぇから。と付け加えられて、オレは驚いて目を開けてしまった。近づいてくる阿部くんの輪郭が、ぼんやりと滲んでいるような気がする。阿部くんだけじゃない。冷たく白い光を放っていた街灯も、宵闇に吸い込まれるようにして消えてゆく路地の奥の景色も、その全てが下手くそな水彩画の様に滲んで、原形を留めないぐらいに憐れな状態になっていた。
「三橋?」
「あ・・・・・・」
そんなぐちゃぐちゃな世界の中で、オレを呼ぶ声が聞こえる。阿部くんの声だ。すごく近くで聞こえた様な気がしたけど、伸ばした手の先は少しの温もりも感じる事は出来なかった。声はすぐ側で聞こえるのに、存在がひどく遠い。


「おい、三橋っ!なんだよ、なにいきなり泣いてんだよ!!」

突然、世界がクリアになった。阿部くんの声が聞こえる。頬に手をやると、確かに濡れた感触がした。「泣いてる・・・?」冷たい頬の上を滑る滴はひどく熱くて、確かにこれが現実なのだと実感させられた。

―――そうか、オレ、泣いてるんだ・・・。

「ほら、泣くな!っていうか、なんで泣くんだよ・・・」
「オレ、が、泣く、理由・・・・・・」
理由、理由。理由なんていくらでもある。少しでも早い球を投げたい。一つでも多く勝ちたい。部活の時だけじゃない。阿部くんの隣でお弁当を食べたい。阿部くんの名前を呼びたい。たくさん話をして、一緒に笑いたい。必要とされたい。オレの名前を呼んで欲しい。
お前が泣く理由なんて、なんにもないだろう?怒ったように乱暴な口調。でも、本当は違う。阿部くんはオレの事をすごく心配してくれている。持ち上げられた阿部くんの手が、ぎこちない動作で握り締められた。ああ、オレの涙を拭こうと思ってくれたんだ。と判ってしまった。触ってもいいのに、でもオレが怯えると思ってるんだよね。あんなに勝手な事ばかり言った後で遅いのかもしれないけど、今、何か願いがかなうとしたら、オレは今、

―――阿部くんに、触れて欲しい。



『阿部君、どうしたの?』


少し高い声。柔らかく響くのは阿部くんの名前。


「あ・・・」
「え、あ・・・べくん・・・」

長い髪が揺れる。街灯の下の細い影。名前も、顔も判らない柔らかな声が、近づいてくる。声はもう一度「阿部くん」の名前を呼ぶ。阿部くんが振り返る。

「阿部くんっ!」

次の瞬間、オレは、阿部くんに向かって夢中で手を伸ばしていた。他には何も考えられなかった。襟元を掴んで引き寄せると、黒い双眸の中に涙でぐしゃぐしゃになったオレの顔が写っている。頭の片隅で「みっともない顔だな」と思った。でも、それだけだ。みっともなくても、無様でも構わなかった。誰かに見られていても構わなかった。

「み、は・・・っ」


オレは、オレの名前を呼ぶ声にも躊躇する事なく、唇を重ねた。
勢いが強すぎた所為か、歯がぶつかって鈍い痛みが走る。下手くそなキスでごめんなさい。と心の中で呟いた。重ねた唇は、少し乾いてとても温かい。少し辛い味がしたのは、オレの涙のせいだろう。涙は、もう自分でもコントロール出来ないくらいの勢いだった。だけど、もうこれで最後にするから。

「ご、めん、な、さい・・・」

阿部くんの目が大きく見開かれて、すごく驚いているのが判る。驚かせてごめんなさい。今更でごめんなさい。自分勝手でごめんなさい。でも、これだけはどうしても伝えたかったから。ゆっくりと唇を放すと、一歩下がってからオレはぺこりと頭を下げた。

「・・・・・・」
阿部くんの顔を見たかったけど、怖くて顔を上げる事が出来なかった。返事が戻ってこない事が阿部くんの怒りの大きさを現しているようで、怖い。足下からじりじりと湧いてくる不安は、オレをひどく居たたまれない場所に追い込んだ。

「お、オレ、か、帰る、ね」
今の事はごめんなさい。忘れて下さい。オレには、それだけを言う事が精一杯だった。そういえば、同じ様な事を阿部くんにも言われたな、と思った。あの時の阿部くんも、こんな気持ちだったんだろうか。
阿部くんは、まだ何も言わない。たぶん何も言いたくないくらい、怒っているのか、呆れているのかもしれないと思う。返事をもらえない事も、一緒にいた筈の彼女の事さえも気にしている余裕は無かった。一度も振り返らないで、自転車を止めてある所まで走る。幸い鍵はかけていなかったから、出発するまでにたいした時間はかからなかった。


―――阿部くん。


スタンドを外してハンドルを握る。でも、ペダルを踏み出そうとした瞬間、すごく強い感情がオレの中から吹き出した。本当は振り返りたい、阿部くんの顔が見たい。でも、ぼたぼたと流れ落ちる涙は、拭いても拭いてもきりがなくて。その作業はすぐに放棄するハメになった。

「阿部く、ん」

我慢できず声に出すと、頬を濡らす勢いは一層増したようだった。これで最後だと思ったくせに、覚悟なんか、実はこれっぽっちも無かったんだという事を思い知らされる。もう、一分でも一秒でも早く、ここから離れなければいけないと思った。そうでないと、オレはまた阿部くんに迷惑を掛ける事になる。



「く・・・はっ・・・」

風が冷たい。自分が来た道を、オレはまた必死で走っていた。
油断すると涙は、オレの顔だけじゃなくて自転車のハンドルさえも濡らしてしまう。ぬるりとした感触をシャツに擦り付けて、それからまた、オレは泣いた。


そして、その後の事は良く覚えていない。




気がついたら、オレは野球部の部室の前に立っていた。







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