【君の手で触れて】・7






結局、あれきり放課後の部活の時間になるまで、阿部くんと会う事は出来なかった。何か胸に詰まったような、そんな重さを抱えたまま、オレは部活に向かう。そうしてグランドに着いた頃には、胸の中の痼りは、更にその大きさを増したようだった。

「三橋―っ、おせぇぞ!」
「あ、ご、ごめん!!」
捕手用の防具をつけた田島くんが駆け寄ってくる。阿部くんの姿は無い。途端にオレの頭から、すうっと血の気がひいた。朝練の時の会話が蘇る。でも、あの時、阿部くんは確かにオレの球を受けてくれると約束したはずなのに。

―――やっぱり・・・受けて、くれない・・・んだ?

「おい!」
「・・・・・・」
「おいっ!三橋っ、聞いてるか?」
「あ、あ・・・うん、田島くん」
田島くんが心配そうな表情で、オレの顔を覗き込んでくる。自覚は無かったけれど、余程酷い顔をしていたらしい。ミットを嵌めていない方の手が、オレの額に触れた。
「熱はねぇよな・・・。三橋さ、心配しなくてもいーぞ」
「え・・・?」
オレに熱が無い事を確認した田島くんは、手を引っ込めると、ニカッと笑う。それに対して、「心配しなくてもいい」と言われたオレは、訳も判らず田島くんの顔を見つめていた。
「今日は、花井も投球練習するんだよ」
「あ、そう、なんだ・・・」
「だから、花井の球はゲンミツにオレがとる。で、三橋の球はゲンミツに阿部がとるからな!」
「うん・・・」
ありがとう、田島くん。と呟くと、田島くんは、気にすんなよ。と言ってオレの背中を思い切り叩いた。叩かれた所から、じんわりとした熱が伝わってくる。昼休みからずっと冷たかった指の先に、トクンと血の通う音が聞こえた気がした。




「阿部、くん」
田島くんに背中を押されるように走り出すと、阿部くんが向こうから走って来るのが見えた。花井くんや栄口くんも一緒だったから、監督と打ち合わせをしていたのかもしれない。

「遅かったな。時間あんまりねぇんだから、早く準備しろよ」
「う、うん」
「メニューは朝練の時に打ち合わせしたのをやるからな」
「解った、よ」
阿部くんの顔を見た途端、さっきまでの不安感が嘘みたいに消えてゆく。嬉しくて、本当に嬉しくて、思わず口の端が弛むと、阿部くんは奇妙な表情でオレの事を見ていた。
「おい・・・、お前なんか変なモノでも喰ったか?」
「え、変なモノ食べて、無い、よ」
「そっか・・・。そんなに五月蠅く言うつもりはねぇけど、喰いモンには気をつけろよ」
「あ、うん」
オレは、首を勢い良く振った。大丈夫。変なモノなんか食べない、よ。水分もちゃんと摂るし、甘いモノや冷たいモノも・・・ちょっとは我慢出来ると思う。一生懸命言いつのるオレに、阿部くんは少し笑った。呆れたような、でも、気のせいかも知れないけれど、少し寂しそうな、そんな笑顔だった。

「俺だって、いつも見ていられる訳じゃねぇんだから、自分でも神経使う習慣つけろよ」

「阿部くん・・・?」

それは、どういう意味なんだ、と聞きたかった言葉は空に消える。阿部くんはオレの問いかけに応えるつもりは無いようだった。軽く顎を振られて、雑談はこれで終わりとばかりに準備を促される。

「とろとろしてっと、時間無くなるぞ」

どこか釈然としない物が、まだオレの目の前にある。さっきの言葉だけじゃない、昼休みの事も、オレはまだ聞けないでいた。水谷くん達が噂していたように、阿部くんは、8組の彼女に告白されていたのだろうか。もし、そうだとしたら何と答えたんだろう。この時のオレは、オレ自身の知りたいと思う気持ちの強さに戸惑っていた。

「阿部くん」
「なんだ?」

怪訝そうな顔で、前を歩いていた阿部くんが振り返る。不機嫌そうに寄せられた眉と、きつい視線に身体が竦む。聞きたい、でも、聞けない。オレがそれ以上一言も発しないのを思ったのか、阿部くんは再び歩き始めた。

―――阿部くん、昼休みは何処にいたんだ。誰と会っていたんだ。水谷くん達が言うように、8組の子と会っていたの?

心の中、その背中に向けて、オレは必死に問いかけていた。でも、聞こえるはずも無い声に、阿部くんが気づくわけがない。聞きたい事を何一つ聞けないうちに、オレ達はブルペンに辿り着いて、いつものように投球練習が始まった。

「三橋、まず10球な!」
「う、うん」
「気ぬくなよ。ぼけっとしてっと承知しねぇぞ」
「は・・・は、はいっ!!」

ブルペンでミットを構える阿部くんの姿は、あの告白の前と少しも変わらなくて、投球モーションに入ったオレに向けられた双眸も、真剣そのものだった。

オレに向けられる真っ直ぐな視線。でも、それだけだ。焼け付くような色、オレを不安にさせたあの光は、もう見えない。


ふいに、あの時に感じた熱を思い出してオレは唇を噛んだ。






「今日、コンビニ寄るヤツー!」
田島くんが挙げた手に、我も我もといった感じでみんなが手を挙げる。

「お、オレも行きたいっ!」
「おう、三橋も一緒に行こうぜ!」
さっきおにぎりは食べたけど、お腹はまだ空いている。オレはこの前テレビのCMで見た新商品を試してみたかった。見た目は普通の肉まんなんだけど、具が今までの2倍入っているってヤツ。とっても美味しそうで、テレビの画面を見ているだけでも涎が湧いて困ったのを覚えている。そうして浮かれた気分でバッグに着替えを詰め込んでいると、後ろで阿部くんが話す声が聞こえた。

「田島、悪いけど俺、今日は帰るから」
「えっ、なんでだよ!阿部も一緒に寄ろうぜ。腹減ってんだろ?」
「腹減ってないんだよ。だから先に帰る」

そして、阿部くんは、本当にそのまま部室のドアに手を掛けた。

「あ、べくん!」
「なんだよ、三橋」
「えっと・・・」
「用事あるんじゃないのか?」
「お、オレは・・・」

阿部くんが振り返る。怪訝そうな表情と声に、さっきと一緒だ。と思った。何も言えないオレを置いて、きっと阿部くんは行ってしまうだろう。オレは、またその背中を見送るだけだ。

「全く・・・、お前って・・・」

ふっと息を吐く気配があって、阿部くんが動いたのが判った。もうすぐだ、もうすぐドアの閉じる音がする。それは、阿部くんが出て行く音。遠ざかる背中を見たくなくてオレはめを固く閉じて俯いた。

「おい、お前が何気にしてんのか知らねーけど、別にみんなと一緒にコンビニに寄るのが嫌なわけじゃないんだからな」
思いがけず近くで聞こえた声に、オレは顔を上げる。阿部くんは、いつの間にかオレのすぐ近くに戻って来てくれていた。
「一緒に行かねぇくらいで、そんな気にすんなよ」
「・・・う、うん」
耳の先まで熱くて堪らない。オレの子供じみた感情は、阿部くんはとっくに見抜いていて、宥めるように囁かれた言葉が身体に染みてゆく。胸の奥が、じわりと温かくなった。

「本当に・・・仕方ないヤツだよな」
俺は保護者かよ。と阿部くんとしては珍しい冗談まで飛び出して、オレの口の端が弛む。そんな事で笑うな、と言いながら、阿部くんも照れたように笑う。伸びてきた手がオレの額に触れる寸前で―――止まった。


「・・・ごめん」


オレの他、誰にも聞こえない様な微かな声。返事をする事は出来なかった。握りしめた手を身体の横に戻すと、阿部くんは踵を返してドアへと向かう。そして今度こそ、振り返る事なく出て行った。温まりかけていたオレの胸の奥に、つきりと冷たいモノが突き刺さる。

―――痛い。

針のように細く鋭いそれを、『罪悪感』という名前で済ます事は出来なかった。ゆるゆると手を持ち上げて、オレは自分の額に触れる。もう少しで、阿部くんが触れてくれたはずなのに―――あの優しい手で。





「お、オレ、触って欲しかった、んだ」


唐突に判った気がした。
少し汗ばんだ感触と、浮かんだ想いに心臓が早鐘を打ち始める。阿部くん、と心の中で呼びかけた。オレは、さっき、阿部くんに触れてもらいたかったんだ。訳の判らない不安に縛り付けられていた感情が、ほどけるように流れ出す。


「おーい、もう行くぞー」
「三橋―っ」
「あ、う、うん」
オレも行く、と返事をしかけて、オレは立ち止まった。側にいた栄口くんが、不思議そうな顔でオレを見る。
「三橋、どうした?なんか忘れ物でも思い出した?」
「お、オレっ、やっぱり、コンビニ行かないっ!」
「え!?」
「おい、三橋!本当にどうしたんだよ?」
すごく驚いた様な栄口くんの顔、その向こうで泉くんや田島くんも振り返ってオレを見ている。

「オレ、用事、思い出したんだ。す、すぐに、行かなきゃいけない、んだ」

みんなの反応を確認している余裕なんてなかった。一分でも一秒でも早く、あの背中を追いかけたかったから。床に置いていた荷物を掴むと、オレは開け放しになっていたドアから飛び出した。すれ違いざまにオレの名前を呼ぶ声が聞こえたけど、振り返らない。途中、うっかり駐輪場の脇を抜けそうになって駆け戻る。鍵を外す時間すらもどかしいのに、手がみっともないくらいに震えて、いつもより時間がかかってしまった。


「阿部くん―――」



漸く自転車に跨ると、オレはひたすらに前を向いて走る。少しでも早く、君に会いたいと思った。










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