【君の手で触れて】・6





ぼんやりと窓の外を眺める。大きく伸びた枝先に、小鳥が止まって緑の葉が揺れた。4時限目終わり間際の教室へ、夏の日差しがいっぱいに降り注いでいる。

「あ、つい・・・」
ただ椅子に座っているだけでも、汗が滲んで気持ち悪い。いつもだったら、朝練でくたくたになったオレは居眠りをしてしまう時間なんだけど、今日は何故か少しも眠くならなかった。

「あ、つい・・・な」

―――阿部くんは、どうしてるんだろう・・・?

ふと浮かんだ考えを、額に浮かんだ汗と一緒に手の甲で拭うと、漸く終了のチャイムの音が聞こえてきた。






「三橋―っ、先行くぞ」
「あ、うん」
ガタガタと音を立てて、椅子から起ち上がる。弁当を抱えて教室を飛び出す田島くんの後ろ姿は、あっという間に見えなくなった。

「三橋は、今日の昼飯購買行くの?」
「い、泉くんも?」
「おう。さっさと行かねぇと売り切れるから・・・」
「い、行く!早く行くっ!」
「ぷっ・・・、ちゃんと財布持ってけよ」
「はいっ!」

今日はいつもより早く家を出た所為で、お母さんのお弁当は間に合わなかった。ちょっと残念だけど、購買でパンを買って済ませようとオレは思っていて、同じ様に購買へ向かう泉くんと連れだって廊下を歩く。部活の事、次の時間の小テストの事、他愛のない会話を重ねるうちに、オレ達はいつの間にか目的の場所へ着いていた。

「まずいな・・・。もうかなり混んでるぜ」
泉くんの、困った様な呟きが聞こえた。
「あ、わ・・・、どうしよう・・・」
オレ達の教室は、校舎でも比較的奥の方にある。その為にオレ達が購買に着く頃は、すでに買い物に来ていた生徒達の群れで、場は壮絶に混み合っていた。
「三橋、ちょっと待ってろよ」
「え・・・、泉くん?」
混戦の中に突入できなくておろおろしていたオレを、泉くんが引き留める。

「ほら、前の方見てみろよ」
「あ!浜ちゃん?」
「あいつに頼もうぜ」
押し合う生徒達の中でも、背が高く、脱色した金色の髪は良く目立っていた。だけど「浜ちゃん!」「浜田!」とオレ達が彼を呼んでも、騒然とした雰囲気の中では声はが届かないみたいで、浜ちゃんが振り返る事はない。

「・・・全く、こうでもしないと気づかないのかよ」
そうしてオレが、浜ちゃんに気づいてもらうのを諦め書けた時。にやりと人の悪い笑みを浮かべた泉くんが、ポケットに手を突っ込んで、くしゃくしゃになった紙を取り出した。

―――あ、それって・・・前の時間のプリントなんじゃ・・・。

オレが止める間もなく、泉くんの手が動いて、紙玉は見事に浜ちゃんの後頭部に命中する。

「い、ってぇなっ!誰だ・・・って、泉と・・・三橋っ!?」
不機嫌そうに振り返った浜ちゃんは、オレと泉くんに気がついて目を丸くした。

「おい、浜田!焼きそばパンと卵サンドとカツサンドとシベリアとコロッケロールとたらこおにぎり、買ってこい!」

―――い、泉くん・・・。そんな頼み方って・・・


「そんなの覚えきれるか、馬鹿泉!!」

「馬鹿なんて言える身分かよっ!このボケ浜田!」

案の定、泉くんの態度に浜ちゃんが大声で叫ぶ。でも泉くんも負けていなかった。もう、ノート写させてやんねーぞ。と泉君が言うと、浜ちゃんは大げさな位に首を振って自分の言葉を否定する。

「か、買う!買ってくるから、もう一回言ってくれよ!」
「ちっ・・・。特別に、もう一度言うからな!焼きそばパンと卵サンドとカツサンドとシベリアとコロッケロールとたらこおにぎりとシーチキン巻き買ってこい!」

「お前・・・増えてんじゃん!!」

「判ってるなら、さっさと買ってこい」
勝負あり。ついでに牛乳とお茶も忘れんなよ。と付け加えて。ふん、と鼻で笑う泉くんに、浜ちゃんの方ががっくりと落ちた。

「だ、大丈夫かな?」

脇ではらはら見ていたオレに、「別におごれって言ったわけじゃないからな、そんなに気にする事はないぜ」と、泉くんは何でも無い様に笑って見せた。そんなものなのかな、そんな風でいいのかな?戸惑うオレにも、泉くんの表情は変わらない。
でも、そんな浜ちゃんの苦労のおかげで、泉くんとオレは目当てのメニューを格段に早く手に入れる事が出来たのだ。(ありがとう、とオレがお礼を言った時の浜ちゃんの表情は、すごく疲れていたけど、泉くんはあれくらい平気だ、と言って笑っていた・・・)


屋上に着くと、オレと泉くん以外はみんな揃っていた様だった。真っ先の教室を飛び出した田島君の弁当なんて、もう半分以上空になっている。
「なんか今日購買に寄った割には早かったな、三橋」
「うん、浜ちゃん、が買ってきてくれたんだ」
田島くんが、へーっ。と感心したような声を漏らす。
「オレも、今日は購買にしとけば良かったかな」
「ふひっ!」
抱え込んだパンをまじまじと覗き込まれて、少しばかり引けた腰が泉くんにぶつかった。
「あ、ごめ・・・」
「田島は弁当喰ってんだろ」
「でもさー、オレだって購買の卵サンド喰いたいんだもん」
たいして気にした様子もない泉くんは、自分のおにぎりを頬張りながら、田島くんが卵サンドに伸ばした手をぴしりと叩く。
「お、オレので良かったら、食べる?」
「マジ!?ラッキー!」
なんとなくそうした方が良いような気分になって、オレは、自分の卵サンドを田島くんに差し出した。途端に、ちょっと拗ね気味だった顔が、満面の笑みに変わる。そして、代わりにオレの卵焼きやるな!と言って、田島君の箸が美味しそうな卵焼きを一切れ、手の上に載せてくれた。
「美味しい、ね!」
良く晴れた空の下、屋上はすごく気持ちが良い。交換して食べる昼食も美味しくて、オレは自然に顔が綻んだ。

―――あれ・・・?でも・・・

いつもと変わらない風景のはずなのに、何かが少しずれているような不思議な違和感。そして何が足りないのか、オレは気づいてしまった。

「あれ、阿部くん、は?」

昼食をとっているメンバーの中に、阿部くんの姿だけが無い。オレが屋上に着いた時に、阿部くんと同じクラスの花井くんと水谷くんは、いつもの様に弁当を開いていたけれど、阿部くんはいなかった。さっきまでのふわふわした空気の中に、ざわりとした違和感が混じりだす。
「阿部のやつ。昼休みになった途端、どっか行ったんだよな」
花井くんが、自分でも首を傾げながらオレの疑問に答えてくれた。隣にいた栄口くんも、阿部くんの行き先は知らないという風に首を振る。本当に、阿部くんは何処へ行ったんだろう。オレと顔を合わせづらいのかも知れないと思い浮かんで、胸の中がじり、と焼けた。でも、それだったら朝練の時だって声を掛けてくれなかったはずだ。ぐるぐると回る思考の中で、ふいに、朝練の時の阿部くんの目を思い出した。

―――戸惑うように揺れていた、弱々しい光。

オレを好きだ、と言った時の、焼け付くような熱は微塵も無かった。突き飛ばしてしまった時も、阿部くんはあんな風な目をしていたのだろうか。今になってオレは、自分の感情にばかり囚われていて、オレは阿部くんの事を殆ど見ていなかった事に気がついた。腹の底から湧いてくる焦燥感で、口の中が妙に乾いて、ごくりと唾を飲み込んだ。

―――阿部くんを、探さなきゃ・・・。

見つけたところで、何を話せばいいかは解らない。でも、このまま悠長に昼食を食べている事も出来なくて、オレは食べかけのパンを片手に腰を上げる。「三橋、トイレ?」田島くんが尋ねてきたのに、とりあえず頷いた。
「う、ちょっと行ってく、る」
オマケみたいなおしぼりで、おざなりに手を拭いて。そして、屋上から階下に続くドアに手を掛けた時、ふいに水谷くんの声が聞こえてきた。

「阿部のヤツさ、呼び出されたんだと思うよ」

やけにはっきりと聞こえたその言葉に、ノブを回す手が止まる。

「呼び出されたって?」
「だって、朝のHRの後くらいに8組の女子が阿部のとこに来てたから」
泉くんの問いかけに水谷くんが答えた。『8組の女子』という部分に田島くんが反応する。
「えっ!それってさ、告白?マジで告白じゃん!?」
「やっぱ、そうかなぁ・・・」
「泉とか、田島とかは知らないの?8組のーーーさんって」
栄口くんが首を捻る。水谷くんの口から出た名前には聞き覚えがあった。前に部室で聞いた名前。オレが無意識に探していた相手。
「あ、オレわかんねぇ!」
「泉は?」
「なんとなく、だったら。顔まではっきり覚えてねぇけど、髪が長い印象があったかな」
「そうそう、たぶん、その子だよ」
「へぇ。その子阿部の事好きなんだ?」
阿部だけもてて、ずっりー!オレ、ゲンミツに覗きに行きたい!と騒ぐ田島くんを、花井くんが必死で押さえつけて、みんなの苦笑をかっている。でもオレだけは笑う事が出来なかった。ノブを回す事も忘れて、呆然とみんなの会話を反芻する。

阿部くん。告白。髪の長い。8組。阿部くんのことが好き。女の子。

千切れた会話は、意味のない羅列になってオレを翻弄した。日差しは汗ばむほど暖かいのに、指先が冷たくて堪らない。ノブを掴んだ手が震えていた。

「おい、三橋。トイレいいのか?」

ドアの前でただ立ちつくしていたオレに、泉くんが心配そうな顔で声を掛けてくれる。そうだ、オレは行かなきゃいけないんだ。

「あ!あ・・・うん。い、行ってくるよ」

―――でも、オレは、何処に行けばいいんだ?

方便で言ったトイレに用は無かったし、昼休みの終わりにはまだ早い。だけど、阿部くんを探そうという当初の目的は、到底かなえられそうになかった。阿部くんを好きな子が、阿部くんと一緒にいる。二人とオレの間には、これっぽっちも関係が無い。そう思うと、、オレが阿部くんに伝えていい言葉なんて、何も無い気がした。



もし、見つけられても、何を話せば良いのかすら解らないくせに。




悲しいのか、苦しいのか、一粒こぼれ落ちた涙は、ひどく苦い味がした。







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