【君の手で触れて】・5





どんなに泣いても、どんなに苦しくても。布団に入ってしまえば、部活で疲れ切った身体は夢をも見ない眠りに落ちる。次に目覚めた時は、眩しい光で部屋が満たされる時間だ。夏の盛りに近づきつつあるこの頃は、かなり早い時間から外も明るい。練習をするうえでは願ってもない事だけど、今のオレには気が重たいばかりだった。
それでも必要な準備を自転車に乗せ、ペダルを踏む。耳の横を流れる朝の風は、オレの想いの淀みとは対照的に、爽やかに流れていった。

「はよっ!三橋」
「は、はよ・・・栄口くん・・・」
学校まで半分位の道程で、栄口くんに会った。いつもと変わらない、柔らかい笑顔で挨拶してくれる。

「お前、今日早いなぁ」
「そ、そうかな?」
言われて、どきっとした。昨日、眠る事は出来たけど、流石にいつもより浅かったみたいで、目覚ましの告げる時間より早く目が覚めてしまった。二度寝する程の時間の余裕もなく、そうかといって家にいても余分な事ばかり考えてしまいそうで、オレの足は自然と学校へ向かっていた。でも幸いな事に、そんなオレの不安に栄口くんが気づいた様子はない。

「そうそう。だっていつもこの時間、俺、誰とも会わないもん」
「え、じゃあ、栄口くんがいつも一番早いの?」
「あー、それは違う。俺はいつも3番目くらいかな」
「栄口くんが・・・3番目?」
「そ、1番は阿部だよ」
「あ・・・・・・」
2番はだいたい花井かな、主将だもんな。笑いながら栄口くんが答えてくれる。阿部くんが1番。なんとなく、そんな気はしていた。少なくともオレは、自分より遅い時間に阿部くんが来たのを見た事はなかった。オレがグランドにつく頃には、いつも綺麗に整えられたマウンドと、阿部くんの姿があった。そして、いつの間にか、オレはそれが当然の事のように思っていた。

「んー?三橋、どうしたの?」
「え、あ。な、なんでも、ない、よ!」
急に黙り込んだオレを、栄口くんは心配そうに見つめてくる。調子悪いんだったら、早めに言えよ。と言われて、こくんと頷くと、それ以上の追求はされなかった。
「・・・・・・」
それでも、上手く会話を再開出来ないオレは、こっそりと伺うように栄口くんの顔を見る。

「三橋さ」

「ふえっ!」

こっそり見たつもりだったのに、タイミングを計ったかのようにぴったりと名前を呼ばれて、変な声が出た。栄口くんが、また少し笑った。

「阿部の作ったマウンド、綺麗だろ」

唐突に振られた話題に、心臓が跳ね上がる。今は、阿部くんの名前を聞くだけで胸が軋んだ。だがそんなオレの感情にかまわず、栄口君は話を続ける。

「あいつが、いつも早く来るのって。9割はマウンドの為なんだと思うよ」
「マウンドの・・・?」
「うん。投手が本気で投げられる様に、最高のマウンド用意したいんだって」
その言葉には、割と安心して頷く事が出来た。前に阿部くん自身が、そんな事を言ってたのを聞いた事があったから。只そう考えると、阿部くんが早く来るのは、オレの為って事になる訳で。自分の考えが飛躍しすぎかと思って恥ずかしくなったけど、栄口くんは、相変わらず穏やかに笑っていた。でも、まるでオレの考えが正しいんだよ。と後押ししてくれている様なその笑顔が、今のオレにはひどく痛かった。
この話を聞いたのが、昨日だったら。昨日じゃなくても、今日じゃなかったら。オレはきっと素直に喜んでいられたと思う。今だって、本当は嬉しくて堪らない、でもそれと同じくらいに切なくて苦しかった。

だって、オレは阿部くんを拒絶したんだ。

ふいに、突き飛ばした時の感触が蘇って、手のひらをズボンの尻に擦り付けた。






着替えを終えてグランドに着くと、グラ整はもう終わっていて。やっぱりオレより早く来ていた阿部くんや、花井くん達はもう軽く身体を動かしていた。

「三橋、はよ。」
「お、はよ。花井くん」
なんか三橋、今日は早いな。と栄口くんに言われた事と同じような事を花井くんにも言われる。オレって、そんなに遅く来るイメージだったのか、とちょっと気になって、明日からはタイマーを15分早くセットしようと心に決めた。そんなオレのささやかな決意に気がついたのか、花井くんはちょっと笑うと、『頑張れ』という様に軽く肩を叩いてから外野に向かって駆けていく。


「三橋、今日は早いな」

花井くんの長身を見送って振り返ると、意外なくらいに近くから声が掛かった。

「あ、うん・・・、あ、べくん。今日、早く目覚めた、から」

あんまりに突然だったから、何も考える暇がなかった。その所為か、昨日の晩は「顔を見たら、きっと一言も喋れない」と悩んだ事が嘘みたいに、言葉はするりと流れ出る。たぶん、誰が見ても、普段と変わらないオレ達だったと思う。オレの返事に阿部くんは、ほんのちょっとだけ目を丸くして、それから少し笑ったみたいだった。

「ま、早く起きるのは、悪い事じゃないと思うぜ」
「・・・う、うん」

じゃあ、投球練習すっか。と言われて頷くと、阿部くんは真っ直ぐにブルペンへ向かった。なんだろう。拍子抜けするくらい、いつもと変わらない後ろ姿に頭が混乱する。変わらない事に、安心するよりも不安になるなんて、おかしい気もするけれど。それくらい、阿部くんは「普通」だった。

「ほら、ぼけっとしてんなよ」
気がつけば、オレはブルペンに向かう途中で、ぼんやりと立ち止まっていたらしい。呆れた様な溜め息。そんなとこで突っ立ってると、怪我すっぞ。という言葉とともに、大きな手が顔の横を掠めて、思わず反射的に目をつぶってしまう。だけど、オレが予想していたような感触は、いつまで経っても襲ってこなかった。


「・・・・・・あべ、くん?」


昨日までだったら、ボケっとしているオレを、阿部くんが小言と一緒に小突いて。オレが謝って、阿部くんに謝るなって怒られて。またオレが謝って。でも、結局、阿部くんは呆れた溜め息をつきながらも、オレの準備を待っていてくれて。


「わり・・・」


でも、今日は違った。謝ったのは、オレじゃなくて阿部くんの方だった。恐る恐る目を開けると、阿部くんの固い手がオレから遠ざかるのが見えた。触れる寸前で引っ込められた手は、少し空を彷徨った後、身体の横にだらりと力無く下げられる。苦しげに寄せられた眉に、見覚えのある表情が重なった。


「触んねぇから」
「え・・・?」

「もう、絶対に触んねぇから。安心してくんないか・・・」

昨日の今日で、安心ってとこまでは、無理かもしんねぇけど。と呟く様に付け加えられて、オレは、漸くそれが昨日の事を指しているのだと気がついた。

「・・・・・・あべ、くん」

気にしてないから、と答えれば良かったのかもしれない。でも、相変わらず不器用なオレの口は、自分が思った様に動いてはくれなかった。言葉を続けられないオレに焦れたのか、阿部くんの表情が少し険しくなる。


「本当に、何も、しねぇから」


苛立った口調に身体が竦む。阿部くんの顔をまともに見る事が出来なくて、オレは俯いたままの姿勢で、頷いて見せるのが精一杯だった。

「三橋・・・・・・」

オレの名前と一緒に、胸の中の澱を、全て吐き出す様な深い溜め息が落ちる。阿部くんは今、どんな表情をしているのかが気になって仕方なかった。呆れてるのか、怒ってるのか。どちらにしても、確認する事は、オレにとってひどく恐ろしい。

「練習・・・」
「・・・・・・?」
「田島に、代わってもらうか?」
「え・・・・・・」
「その方がやりやすいんなら、遠慮無く言えよ」
「う・・・・・・い、やだ」

それは違う。それだけは、絶対に無い。迷い無く大きく頭を振って、オレは彼の言葉を否定した。阿部くん以外の人に投げるなんて、オレには考えられない。例えどんなに嫌われたとしても、阿部くんが取ってくれると言う限り、オレは彼に投げたかった。俯いた顔を必死で上げて言葉を綴る。


「オレは、阿部くん、に、投げたい・・・です」


オレの言葉を聞くと、阿部くんはちょっと驚いた様な顔をした。見開かれた黒い双眸に、見たこともない弱々しい光が揺れている。

―――阿部、くん・・・?

「・・・判った。三橋が俺でいいんなら、俺がお前の球を受ける」

「うん・・・・・・」

「じゃあ、早く用意しろ」
「は、はいっ」


言われるがままに、オレはブルペンに向かって再び走りだした。



前を走る阿部くんの背中は、一度も振り返らない。







←back  □□□  next→