【君の手で触れて】・4






―――好き・・・?

告げられた内容が理解出来るまで、どれくらいかかっただろう。静まりかえった部屋の中では、オレ達の息づかい以外何も聞こえない。阿部くんが顔を埋めている肩口が熱くて身体を捩ると、ほんの少しだけ腕の力が弛んだ気がした。

「あ、べくん・・・」
「・・・・・・」

返事は戻ってこない。代わりに、阿部くんの頭がぐっ、と強く押しつけられる。まるで小さな子供みたいな仕草。硬い髪が首筋に触って、少し痛かった。

「阿部く、ん。なんなんだ、よ・・・?」

ふいに阿部くんの顔が持ち上がった。背中に回されていた腕の片方が外されて、少しは楽になった呼吸に息を吐くと、阿部くんが空いた手でオレの頬を撫でる。壊れ物にするような、ひどく優しい手つきに、背筋に震えが走った。

「三橋・・・」

正面から見た阿部くんの眼は、相変わらず深い色をしてオレを見据えている。

あの眼を見ていると、オレの中の色々な感情が、全て引きずり出されてしまう様な気がする。オレの中の汚いモノも、醜いモノも、恥ずかしいモノも、全部阿部くんの前に晒け出されてしまう。

―――こ、わい・・・

そのまま向き合っていられなくて、眼を伏せると、すぐ近くに吐息を感じた。オレの頬に添えられていた指に、力が込められる。

熱い。

睫毛に触れるくらいに近い場所まで、阿部くんの顔が近づいているのが判った。

「あ・・・べ、く・・・っ」

熱い。熱くて、怖い。



「怖い」と呟いた声が、阿部くんの熱に飲み込まれる。





息苦しくて顔を捩ると、強い力で引き戻された。酸素を求めて開いた唇に、するりと濡れた感触が入り込む。
「くっ・・・ん、んっ」
耳元に濡れた音が落ちる。頬に添えられていた手は後頭部に回り、ゆっくりとオレの髪を梳いてくれた。その心地よさに誘われるように、うっすらと目蓋を上げると、阿部くんの視線とかち合った。

―――オレ・・・!?

「あ、いや、い、嫌だっ!」

視線が合わさった途端に、現実に引き戻される。オレは阿部くんの腕の中にいて、阿部くんはオレに、オレに・・・をしていて・・・

「は、離せっ・・・」

滅茶苦茶に暴れると、さっきまでの強い拘束が嘘みたいに、阿部くんの腕はあっさりとオレの身体から離れた。ふいに出来た空間に、火照った肌に触れる部室の空気は、驚くほど冷たい。でも、急に無くなった熱を惜しむ余裕なんて、この時のオレには、ほんの少しだって無かった。

「三橋っ」

「や・・・だ・・・っ!」

阿部くんの腕が、再びオレに向かって伸ばされる。
怖い。
阿部くんの腕に掴まるのが怖かった。

「お前、落ち着け、って!」

「いやぁ、だっ!」

あの熱い腕に掴まってしまったら、今度こそ逃げられない。全部気づかれてしまう。隠していたモノを、全部暴かれてしまう。




「くっ・・・」

鈍い音がしてオレは我に返った。いてぇ、と呟く声が聞こえて目をやると、阿部くんはロッカーを背に畳の上で尻餅をついている。

―――オレが、突き飛ばした所為だ・・・。

すぐに謝らなきゃと思ったのに、謝罪の言葉は喉の奥にこびり付いたみたいに出てこなかった。

「あ・・・・・・」
「三橋・・・?」

無理矢理に言葉を押し出そうとすると、今度は頭の中がぐるぐる回り始める。目眩と頭痛と、その他色々な物が一遍に押し寄せてきて、なんとかしようと藻掻くオレの邪魔をした。

「あ・・・・・・あ・・・」

握りしめた指先が凍える位冷たくて、寒い。でもそれとは対照的に、眼の奥からは熱い物が流れ出す。何を言えばいいのか、何を聞けばいいのかも全く判らない。ただ、激しく揺さぶられる感覚に、胸の辺りが詰まって苦しくて堪らなかった。だから、その苦しさから逃げたくて、吐き出してしまいたくて。


「・・・き、気持ち、わ、るいっ!」


「・・・・・・!」

次の瞬間、阿部くんの眼が大きく見開かれたのが判った。

ロッカーに背中を預けたままの体勢で、大きな手が阿部くんの目元を覆う。いつも、オレの球を受け止めてくれる手だ。オレよりも少し大きくて、節が目立つその手は、見慣れているはずなのに、初めてみたかの様に網膜に焼き付いた。ああ。とオレは胸の内で息を漏らす。阿部くんはあんな手をしていたんだ。

「・・・・・・気持ち悪い、か・・・」

ぽつりと阿部くんが呟いた。

「え・・・・・・?」

一瞬、何を言われているか判らなかったが、それがオレの口から飛び出した言葉だと理解した瞬間血の気が引いた。弾みとはいえ、オレはなんて事を阿部くんに言ってしまったんだろう。今更ながらオレは事の重大さに気がついた。

―――は、早く、謝らな、きゃ・・・。

先刻までとは、全く違う恐怖に襲われる。このままだと、きっと阿部くんに誤解されてしまう。少しでも早く謝らないと。突き飛ばしてしまった事も、あんな酷い言葉を投げつけてしまった事も。

「あ、べ・・・くん、あの。お、オレ・・・」

自分でも自分の感情を上手く説明出来ないのに、阿部くんに伝わる様に謝る事なんて、オレには出来る自信もない。

それでも何か言わなければ。
震える足で一歩を踏み出したその時、俯いた阿部くんの口から、微かな音が聞こえた。

「は、はは・・・・・・」

―――あ、べくん。笑ってる・・・?

オレの聞き間違いでなければ、阿部くんは笑っていた。
ひょっとして、先刻までの事は冗談だったんだろうか、という考えが頭を過ぎる。オレを抱きしめた事も、好きだと告げた事も。そうだと考えれば、今、阿部くんが笑っている事も納得出来るような気がした。阿部くんがこんな冗談を言うなんて、それ自体が冗談みたいな気もするけれど、悪戯だというのならそれでもかまわない。むしろその方が、オレの投げつけた言葉の重みを、軽くしてくれる気さえしていた。

「え、と・・・。阿部くん?」
「・・・・・・そうだよな」
「・・・・・・」
「わりぃ・・・」

恐る恐る近づいていたオレの足が止まる。都合が良い話かもしれねぇけど、忘れてくれ。頼むから。と続けられて、オレは息を呑んだ。
押し殺した様な謝罪の声とともに、阿部くんの手が小刻みに震えている様に見えたからだ。手だけじゃない。強張った肩も、吐き出された息も震えている。


―――笑ってるんじゃ、ない。


今度はすぐに気がついた。オレにとって、その感情はひどくなじみ深いものだったからだ。でも、どうして。なんで阿部くんが泣くのかが判らない。オレなんかに拒絶されたくらいで、阿部くんが傷つくだなんて、どうしても到底信じられなかった。



□□□



その後、どんなに一生懸命に話しかけようとしても「先に帰れ」とだけ言われて。阿部くんは、とりつく島もなかった

「あ、阿部くん、お、オレ・・・」

それでも必死に食い下がるオレに、阿部くんは漸く顔を向けてくれる。

「三橋・・・」

阿部くんの目元は微かに赤みを帯びていたけれど、視線が反らされる事はなかった。

「もう今日みたいな事はしねぇ。約束する。それだけは絶対に守るから、信じてくれ」

「阿部く、ん・・・」

それだけきっぱりと告げると、阿部くんはそれきり、本当に何も答えてくれなくなった。







「じゃ、じゃあ、お先に失礼、し、ます・・・」

返事は無かった。
重苦しい空気に押し出されるように、オレは部室のドアを開ける。戸外の大気は予想より生温くて、肌にまとわりつくようだ。すっかり帳が落ちた暗い空には、星が冷たく輝いている。

「家、帰らなきゃ・・・」

無意識に呟いた次の瞬間、訳の判らない感情に突き動かされて、オレは振り返った。閉じかけるドアの向こうに見えた阿部くんは、こちらに背中を向けたままだ。その背中に縋り付きたいような、奇妙な衝動が湧き起こる。


―――でも、駄目だ。そんな事は、いけない。


好きだと告げられて、抱きしめられて、キスをして。それでも阿部くんを拒絶したオレには、そんな事をする資格なんてない。
この感情を、オレには説明する事なんで出来ない。

そんなオレにも、たった一つだけ、きちんと判っている事があった。


―――オレは、阿部くんの事を、すごく傷つけた。


こぼれ落ちそうになる涙を、必死に我慢する。



今だけは、自分の為に泣きたくなかった。




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