【君の手で触れて】・3



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練習は問題無かったと思う。いつも通りに監督の出したメニューをこなして、最後にちょとだけ投げ込みを追加させてもらった。「今日は特別だかんな」と渋い顔をしながらも、阿部くんはマスクをかぶって腰を下ろす。
何が「特別」なのかは良く判らなかったけど。投げる事ができるなら、オレにとって理由はなんでもかまわない。特にこんな気分の日には。
散々身体を動かした後に投げる硬球は、鈍い疲労感と高揚感を同時に感じさせる。後5球。後4球。阿部くんの声と共に球が投げ返される。そしてついに返球が無くなった時、グランドに残っていたのはオレと阿部くんの二人だけだった。
照明の無い西浦のグランドでは、18.44メートルの距離すら朧気になる時間だ。

「三橋、もう上がるぞ。さっさと部室に行けよ」
「あ・・・うん」
膝の埃を払った阿部くんが起ち上がると、奇妙なデジャヴに襲われた。二人きりの、他に誰もいない空間。あの休み時間の廊下で聞けなかった疑問が、オレの中で再び頭を擡げ始める。だけど今回は阿部くんにその気が無いらしい。部室に向かって駆けて行く後ろ姿に、オレの事を伺う気配は全く無かった。

―――あれは、オレの勘違いだったんだろうか?

「ほら、急げって言ってんだろ!」
ぼんやりしていると、先に行ってしまったとばかり思っていた阿部くんが、すぐ側まで戻ってきていた。汗をかいた後はすぐに処理をしないと、肩を冷やすといって怒鳴られる。
「一緒、だ・・・」
「あぁん?」
いつもと一緒だ。阿部くんの態度は、いつもと変わらない。あの屋上での、廊下での不思議な目の色は、オレの気のせいだったんだ。そう思わせてくれるような態度だった。だけどそれは、オレが考えていたような安堵をもたらしたりはしなかった。胸の焼け付く様な不安感は無いけれど、代わりに湧き上がったのは理由も判らない寂しさだ。

―――なんで、だ?


一緒にいるのに、何故寂しく感じるんだろう。その理由は、阿部くんに聞いたら判るのかもしれない。漠然とそう思ったけど、どうしてだかは自分でも判らなかった。



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「おい、早く汗拭いて着替えろよ」
「う、あ、うん!」
初夏の夜は少し肌寒い。気持ちよいんだけど、それに甘えて薄着をしていると、身体を冷やすと言って阿部くんに怒られる。だから、なるべく手早く身体の汗を拭き取って、カッターシャツに袖を通した。

「着替え終わったら、これでも飲んどけよ」
もたもたと釦を嵌めていると、後頭部にこつんと当たる感触がある。振り返れば、とっくに着替えが終わった阿部くんが、ペットボトルを揺らしていた。

「もう温くなっちまったけど、あんまり冷たいのを飲むよか良いだろ」

瓶の中で液体が跳ねる。喉がごくりと鳴った。目の前の水分を見た途端、オレは自分がどれ程に乾いているかを自覚する。だけど、半透明のボトルに気を取られていた所為で、それを振る阿部くんがどんな表情をしていたかオレは全く気づけなかった。





「ありがと、う」

乾いた喉は、あっという間に嚥下した水分を吸収した。僅かに白濁した柑橘の香りが、体中に染み込んでゆく。適当な温さは不快感よりも、むしろ水分が身体に定着するのを助ける様だった。すっかり空になったボトルのキャップを閉めてゴミ箱に入れると、首の後ろがちりと焼け付くような気がする。

「あ・・・・・・」

この感覚には覚えがあった。つい最近気がついた感覚。オレが気づかない振りをしている事。

「三橋・・・・・・」

振り返ってはいけないと思った。振り返れば、阿部くんがきっとあの瞳でオレの事を見つめている。それは、確信に近い予想だった。

―――お願いだから、これ以上そんな声でオレの名前を呼ばないで欲しい。

でも、そんなささやかな望みも適わない。空気の動く気配がして、阿部くんがオレのすぐ後ろにまで移動した事が判る。吐息が触れそうな程近くで「三橋」と囁く声が聞こえた。

「な、な・・・に・・・?」

阿部くんの問いかけに答えるオレの声は、みっともない位に震えていた。決して広くない部室が張り詰めた空気に満たされて、僅かな身動ぎをするだけで肌が痛い。そして声だけではなく、握りしめた拳までも震えている事にオレが気づいたのは、阿部くんがふいに離れてからだった。

「何、緊張してんだよ。俺怒鳴ったつもりもないんだけど」

憮然とした口調に思わず振り向いてしまった。部室に入ってから、初めてまともに阿部くんの目を見た気がする。目が合うと、阿部くんは口の端を少し歪める彼独特の笑い方をした。
「あ・・・」
「なんだよ?」
「・・・・・・」

「用が無いんなら、さっさと帰るぞ」

黙ったままのオレに焦れて、阿部くんは踵を返してさっさと歩き始める。

「あ、べくん!」

オレに背中を見せた阿部くん。無造作に自分の荷物を持って扉に向かう後ろ姿に、オレは思わず手を伸ばしていた。

「・・・・・・おい」
「・・・あ、う。ご、ごめん」
苛ついた低い声が耳朶を打つ。無意識に伸ばされた俺の手は、阿部くんのシャツをしっかりと握りしめてしまっていた。咎める様な雰囲気におたおたと手を離そうとしたが、オレの意志とは反対にシャツの皺は無くならない。

「お前な・・・、いい加減に・・・」

「ご、ごめん、なさい」

なんでオレの手は、オレの言う事を聞かないんだろう。情けなくて涙が滲みそうになる。阿部くんの呆れた風な溜め息が耳に痛くて、俯いた顔を上げる事が出来なかった。

「良く判んねぇけど、お前だけ置いてく気はねぇから。とりあえず、手、離せ」
「・・・う、うん」
阿部くんにしては珍しく、優しい声だった。相当気を遣ってくれているんだろう。げんきんな事に、その優しい声を聞いた途端オレの指は弛んだ。指の間を抜ける、さらりとした生地の感触。拘束から解かれた阿部くんは、ゆっくりとオレに向き直った。

「三橋、どうしたんだお前?なんか今日変だぞ。」
「・・・・・」
「どっか具合悪いんなら、早く言えよ。隠すとウメボシすっからな」
ウメボシという単語に、反射的に身が竦む。それを見た阿部くんが「冗談だ」と続けてくれたので、恐る恐る顔を上げると。阿部くんは仕方がないヤツだ、と言って笑ってくれた。

―――でも、本当にそれだけ?

阿部くんの言葉のまま、オレも笑って頷けば、それだけで終わるはずだったんだ。

呆れた様に笑う阿部くんの後をついて部室を出て。いつもみたいに自転車に乗って家に帰る。途中でコンビニに寄ったって構わない。肉まんの季節は過ぎたけど、お腹を満たしてくれる物は幾らだって売られている。買い物をしたり、野球の話をしたり。そうやって、変わらない繰り返しの中に身を委ねる事も出来たのに、オレの口をついて出たのは自分自身思いも寄らない言葉だった。

「変、なのは。阿部くん、の方だよ・・・」

「・・・あ?なんだって、もう一回言ってみろよ」

深く寄った眉根が、彼の不機嫌の度合いを示している。正直、オレはすごく怖かった、でもそれ以上に口を噤んでいる事も出来なかった。阿部くんの黒い双眸の中に押し込められている光が、オレを駆り立てる。

「変なの、は、阿部くんの方、だ!」
「・・・・・・っ!」
「阿部くんの・・・」

オレの言葉は、突然遮られた。視界を白い物が覆って、鼻孔に汗と微かな土の匂いが届く。

「あ、べくん・・・」

阿部くんに抱きしめられていると気づくまで、オレの鈍い頭でもそう時間はかからなかった。

「こんの・・・ば、っかやろう・・・」

押し殺した様な呟きが耳元に落ちる。オレの背中には痛いくらいに阿部くんの腕が回されて、身動ぎひとつとる事が出来ない。抱きしめられてる、でも理由が判らない。

「あ、阿部、くん。離し、て・・・くれ」
「・・・・・・」
「離して・・・」
「・・・・・・なんだ」
「え・・・・・・」

阿部くんらしくない、あまりにも小さな声だったので、最初、オレはその言葉を聞き逃してしまった。いや、ひょっとしたら聞きたくなかっただけなのかもしれない。熱く、掠れた息が首筋にかかる。回された腕に、さらに力が込められた。肺の中の酸素が、全て抜けてしまいそうに強い力。骨が軋む痛みから逃れようとしてオレは藻掻き、弾みで上がった顔が、阿部くんと真正面から向き合ってしまった。


「好き・・・なんだ、よっ!」





ああ、あの瞳だ。と思った。屋上で見た、廊下で見た、そして今オレの目の前にある黒い双眸。微かに潤んでいるように見えたけど。それによって、宿る光が薄れる事は無い。呆然と見上げるオレに向かって、阿部くんはもう一度「好きだ」と呟いた。







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