【君の手で触れて】・2




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水谷くんの話を聞いてから、一週間が過ぎた。意識してる訳じゃないけれど、あの時を境にオレは見てしまう。


オレが自分のクラスに戻るためには、8組の前を必ず通る事になる。
野球部員以外の友達が少ないオレには、知らない国の様な隣のクラスだったけど、今は少し違っている。

このクラスのどこかに、阿部くんを好きだという女の子がいるんだ。

あの噂を聞いてから、無意識にその“誰か”の存在を探してしまう癖がオレについた。水谷くんの話だと髪が長くて細い女子だって言われたけれど、オレから見たら殆どの女子がそんな風に見えて、正直どの子だかは判らない。でも、誰もが明るくて可愛くて、すごく楽しそうに見えるのも確かだった。

―――どの子が、阿部くんの事・・・。

「おい、三橋」
「え、あ・・・」
「なんだよ、お前最近なんか変だぞ?」
「浜ちゃん・・・」
声をかけられるまで、オレは浜ちゃんの存在にまるで気がつかなかった。幸いな事に浜ちゃんはそんなオレの態度で気分を害した様子は無い。むしろ、なんかおもしろいモンでも見えるのか?と言って、廊下に面した窓から8組の教室を覗き込んでいた。
休み時間のざわついた教室は、どこもそんなに変わらないから。ひとしきり教室の中を見回して、浜ちゃんに興味のある物はなかったらしい。当たり前といえば当たり前なんだけど、自分の心の奥に沈んだ澱に触れられなくてオレはほっとした。

「ふーん。別にいつもと変わんねぇよな」
「う、うん」
「三橋がさ、あんま熱心に見てるから、邪魔すっと悪いかと思ったんだけど」
「そう、なんだ・・・」
そんなに他のクラスを熱心に見ている様に、オレって見えたんだ・・・。浜ちゃんの指摘に、心臓がまた嫌な感じで騒ぎ始めた。そして、それに追い打ちをかけたのも、浜ちゃんの言葉だった。

「誰か、三橋に気になる女子でも出来たのかと思ったよ」
「え!?それは・・・ない、よ」

“春が来た〜”と、軽い調子で謳いながら笑う浜ちゃん。うん、浜ちゃんが言った事は、一部では当たっている。オレは確かに、顔も知らない“誰か”が気になって仕方がない。

―――でも、それは、阿部くんを好きな子だよ。

この時、素直にそう話せれば良かったのかもしれない。水谷くんが知ってる位なんだから、浜ちゃんだって耳にした事くらいあっただろうし。でも、何故かオレはそうと告げる事が出来なかった。

「おら!」
「へっ?」
「なんて顔してんだよ!」
俯いた額を指でぴん、とはじかれる。
「あ、ごめ・・・」
「あやまんなよ。三橋は、あやまるような事してないだろ?」
「うん・・・」
頷くと、頭をぐしゃぐしゃに掻き回された。浜ちゃんの手は大きくて固い。だから掻き回されるとちょっと痛くて、でも気持ち良かった。こんな風にしてもらえると、オレの中でドロドロに溜まっていた澱が、ほんの少し薄くなった様な気さえする。浜ちゃんは突っ込んだ事は何も聞かないし、言わないけれど。こうやってオレの抱えている物をちょっとだけ軽くしてくれるのがとても上手いんだ。
「よし、これで元気でただろ?」
「浜ちゃん、ありがと、う!」
お礼を言うと、気にすんなよ。と軽く肩を叩かれる。これも、いつもと一緒。ウヒッと笑ったオレに、浜ちゃんもいつも通り笑ってくれた。

―――良かった、これでこの後もぼんやりしなくてすみそう、だ・・・。

声をかけてもらえなかったら、オレはいつまで8組の教室を覗いていたんだろう。想像すると、ちょっと怖い。そうじゃなくても、最近ずっと“――さん”の存在がオレの頭から離れないっていうのに。これ以上、ぼんやりしてばかりだと、阿部くんにだって気づかれてしまうかもしれない。
―――阿部くんに、怒られるかも。
それは、ちょっと困る。怒られるのは怖いし、第一に阿部くんに呆れられるのが怖かった。阿部くんは言葉こそ乱暴だけど、投手としてのオレを初めて認めてくれている。何よりもその信頼を、オレは失いたくなかったんだ。

「あ、三橋。俺達もそろそろ教室帰らないとマズいなぁ」

そんな事をつらつらと考えているうちに、気がつけば、時計の針が休み時間の終了を知らせようとしている。浜ちゃんに促されるままに、オレは自分の教室に戻ろうとして、ふと、振り返った。
なんとなく、まだ8組の様子が気になったのかもしれない。でも、そこにあるのは慌ただしく出入りする隣のクラスの姿だけで。

「え・・・」

でも、その喧騒の向こうには、よく知っている顔があった。



「阿部く、ん・・・?」



阿部くんのクラスは7組なんだから当然の事なのかもしれない。阿部くんもたまたま廊下に立っていただけで、これから教室に戻るのか、ひょっとしたら他の教室に移動するために出たところなのかもしれない。

だけど、オレには何故かその理由がどちらも当てはまらない様な気がしたんだ。

阿部くんは、きっとオレの事を見ていた。重なった視線が、屋上で向けられた表情とだぶって見える。黒くて強い、真っ直ぐな双眸。

―――なんで、そんな目でオレを見る、んだ?

聞きたいけれど聞けなかった。聞いたらいけない様な気がしたんだ。聞いてしまったら、たぶん、色々な物が壊れてしまう。訳もない恐れがオレの口を閉ざさせた。


『おーい、早く席着けよ。先生来ちまうぞ』
『三橋―っ』


先に戻った浜ちゃんや、泉くんのオレを呼ぶ声が聞こえる。始業のベルが鳴り終わったこの時間、廊下に残っているのは、もうオレと阿部くんの二人くらいだ。やがて、オレ達の間を通る人の姿が一人も無くなって、残っているのはオレと阿部くんの二人だけになってしまう。

それでも、まだ阿部くんは何も言わずにオレの事を見ていた。

「阿部くん?」

どうしてだろう、何かを聞かなきゃいけない様な気がした。聞くのは怖いけど、気づかないふりをするのも無理そうだった。それでも何と聞いていいか判らなくて、オレの唇から零れたのは、彼の名前だけだった。


「俺は・・・」


オレ問いかけに、阿部くんの口が微かに開く。


『阿部―!』


「ああ、判った」


でも7組から阿部くんを呼ぶ声が聞こえた途端、呟きは中途半端なまま廊下に放り出されてしまった。重なっていた視線が、阿部くんの方から外される。

「あ、べくん・・・」

踵を返す阿部くんを、オレは無意識で追いかけようとしていた。でも、そんなオレの背中にも自分のクラスから呼ぶ声が聞こえた。


『三橋、やばいって!先生来てんぞ!』


「う、うん。今、戻る」

阿部くんの姿は、もう7組のドアの向こうに消えている。物言いたげな視線の残像だけが、いつまで経ってもオレの目の前をちらついていた。




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