【君の手で触れて】・1




その噂を最初に聞いたのは、確か朝練の後だったと思う。

「三橋、三橋」
「あ・・・え?」
軽く肩をつつかれて振り返ると、水谷君がいた。なんだろう、何の用事だろうと首をかしげると、水谷君は口をちょっとぱくぱくさせた。
何となく水谷君の目線を追うと、その先には阿部くんがいる。
『あ、べくん?』
小声で尋ねると、水谷君はこくりと頷いた。どうやら、阿部くん絡みの話で、かつ本人にはあまり聞かれたくないらしい。何となく嫌な予感がしたけれど、それ以上にオレの好奇心の方が勝ってしまった。
『阿部くん、が、どうした、んだ?』
阿部くんの視線は、熱心に雑誌の表面を追っている様に見える。かといって、あまり大声で尋ねるのも憚られたので、オレは水谷くんに一歩近づくと、そう囁いた。
『三橋はさ、8組のーーさんって知ってる?』
『――さん?』
どこかで聞いた気もするけれど、思い出せない。8組だったら隣のクラスだから、見た事くらいはあるかもしれないけど。他のクラスの女子と話す機会なんてマネジの篠岡さんを除いたら、オレには殆ど無かった。
『ほら、髪が長くって、ちょっと華奢な感じの・・・』
『・・・・・・あ?』
そこまで言われて、脳裏にちらりと過ぎる人物があった。長い髪。小柄で細い、大人しそうな女の子。どこで見たんだっけ?一生懸命思い出そうとしたけれど、なかなか思い出せない。でも、その彼女がいったいなんだっていうんだろう?水谷くんは何が言いたいんだろう?
オレの飛ばしている疑問符に気がついたんだろう。水谷くんがちょっと笑った。
『噂なんだけどさ・・・』
『う、わさ・・・?』


―――その子、阿部の事が好きなんだって。




□□□君の手で触れて□□□






教室に戻ってからも、オレの頭の中から水谷くんの言葉は離れなかった。

阿部くん、を好きな女の子がいる。

別に、その事を不自然だとは思わない。阿部くんは、言葉遣いとかはちょっと(たぶん、ちょっと、だと思う)乱暴だし、いつもニコニコ笑っているタイプじゃないから、女子が気軽に声をかける様な事もない。でも、阿部くんがいつもニコニコしていたら、それはそれで怖い、ような気もするし。実際に話してみれば、余分な事は言わないけど、いい加減な事も絶対に言わない。オレみたいなヤツの面倒だって見てくれてるし。
それに少し注意して見れば、阿部くんがどんなに優しいかなんて、誰にだって判ってしまうと思う。

―――だから、水谷くんが言っていた彼女が阿部くんを好きだとしても、何もおかしい事なんてないんだ。


そんな事を考えていたら、いつも以上にぼんやりとしていたらしい。気がついたら4時限の終わりを知らせるチャイムが鳴っていて、田島くんが弁当を片手に教室を飛び出していった。

「おい、三橋。早く行かないと飯食う時間無くなるぞ」
「あ・・・うん」
泉くんに言われて、オレも慌てて鞄の中を探った。母さんが作ってくれたお弁当。でも、今日はなんだかやけに重たい気がする。変だな、いつもと同じ弁当箱なのに。ほんの些細な違和感だったから、オレはその事をすぐに忘れてしまった。




屋上に行くと、オレと泉くんが最後だった。野球部では練習の短い水曜日に、屋上に集まってお昼を食べる事は半ば習慣になっている。集まったからといって練習をしたり、ミーティングをする訳でもないけれど、暖かい日差しの中でお昼を食べながら色んな事を話せるこの時間は、オレにとても愉しみだった。

「あ、来た来た!早く座れよ!」
先に行った田島くんが大きく手を振るのが見えた。その隣で笑いながら手を振ってくれているのは栄口くん。オレは誘われるままに栄口くんが開けてくれたスペースに腰を下ろした。
「三橋、今日遅かったね」
「え、あ、う、うん」
「なんだか、ぼうっとしてたんだよ、三橋のヤツ」
オレを挟んで栄口くんと泉くんが小声で会話をしている。間に挟まったオレは、オレが話題なんだけど、ちょっとだけ居心地が悪い。何故ならば、オレの正面には阿部くんがいるからだ。

「・・・どっか調子でも悪いのか?」

ぼそっと呟くように低い声が聞こえた。ああ、やっぱり。阿部くんにも聞かれていたんだ。阿部くんは弁当を食べる手を休めて、じっとオレの事を見ている。

「ど、どこも、悪く無い、よ」

それは本当だ。風邪もひいてないし、昨日の夜もたっぷり寝れた。朝練の時だって、調子の悪い所は何一つ無かったんだ。

「お、お腹空いたね」
「じゃあ、早く食べろよ」
「う、うん!い、頂きます!」
オレの事を探るような阿部くんの視線には、気づかない振りをした。綺麗に包まれた包みの結び目を解くと、いつもと同じ弁当箱が顔を出す。蓋を開ければオレの好きな物ばかりだった。

「あー、三橋の唐揚げ美味そうっ!」
「こら、田島っ!!」
ちょっと離れた所から、田島くんがぴょんと寄ってきた。「1個ちょうだい」と言われても嫌な気はしない。母さんの唐揚げは本当に美味しい、と思うから。
田島くんの差し出した弁当箱の蓋に唐揚げを一つ載せると、お返しに卵焼きが一切れオレのご飯の上に載せられる。ちょっと焦げ目がついていて、これも本当に美味しそう。
「交換こだな!」
「うんっ、交換こ、だ」
こんな風にお昼を食べれるなんて中学時代には重いも寄らない事だったから、この時間はオレにとってすごく嬉しい時間だ。交換した卵焼きを口に放り込むと、ほんのりと甘くて美味しい。田島くんも唐揚げを頬張りながら「美味い!」と言ってくれていた。

「こいつら、本当に子供だよな・・・」
呆れた様な泉くんの声だけど、目が優しい。飛び回る田島くんを捉まえた花井くんだって、ちょっと笑っているのが判った。日差しだけでなく、お腹の中まで暖かくなる雰囲気。だけどオレは気づいてしまった。

『阿部くん・・・・・・?』

いつもだったらこんな時、呆れた様に何かを言ってくれるはずなのに、阿部くんは黙ったままだった。でも、じっとオレの動きを見ている気がするんだ。弁当は食べ終わったみたいで綺麗に片付けられているし、オレが気にしすぎているだけなのかもしれない。

『気のせい、だよね・・・』

疑問を振り切るように軽く頭を振って、視線を戻した。きっと気のせいだ。たまたま目があっただけなんだ。


でも、阿部くんの黒い瞳は、確かに真っ直ぐオレの方に向けられていた。


「あ・・・・・・」


やっぱり阿部くんは、オレの事を見ている。途端に心臓が痛い位に騒ぎ出した。そして耳元で蘇る声。


『噂なんだけどさ・・・その子、阿部の事が好きなんだって。』


なんで阿部くんは、あんな目でオレの事を見るんだろう。なんでオレは、こんな時にあの噂を思い出したんだろう。なんでオレの心臓は、こんなにも痛いんだろう。


始業のベルまで後5分。答えなんて出るはずもなかった。



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