【Don't cry baby】・9







来なくても大丈夫って事は上手く伝わらなかったらしい。気遣わしげな声はどんどん近くなる。逃げる事も出来ないオレは、顔だけは見られないように必死で膝の間に埋めた。そんな事をしているうちに、とうとう目の前まで来られてしまったみたいだ。人の気配を感じて、ほんの少しだけ顔を動かして視界を広げると、黒いラインの入ったスニーカーのつま先が見える。

「本当に大丈夫ですか?」

―――はい。大丈夫、です。

ちゃんと答えるつもりだったのに、オレの口から出たのはしゃくり上げる様な変な音だった。恥ずかしくて恥ずかしくて、顔を上げる事が出来ない。こんな時に、恥ずかしいなんておかしいかもしれないけど、仕方ないじゃないか。声の相手はやっぱりただの通行者みたいだ。かといって、素顔を見られる事はあまり良くないし、と更に膝の間深く顔を埋める。
そうやって固まった様に動かないオレの頭の上から、「俺、慰めるのとか苦手なんだよな・・・」と呟く声が聞こえた。呆れた様に低くて、ぶっきらぼうな声。

途端に、胸の何処かがちりと痛んだ。

―――・・・・・・呆れられた、のかな。


無償に差し出された好意を素直に受け取る事が出来ないオレは、呆れられても当然だと思う。この人は(まだ顔を見てないけれど)きっと優しい人だ。こんな風に他人を気遣う事はオレには出来ないから余計にそう思える。

―――オレになんかに、優しくしなくていいのに・・・。

優しい言葉をかけられた嬉しさと、呆れられたかもしれない(でも、きっと呆れてる)寂しさとが変な具合に入り混じる。早く愛想をつかして何処かへ行って欲しい気持ちと、

「なあ、本当に大丈夫?」
「う・・・う・・・っく」
「どっか痛いの?」

まだそばにいて欲しいという、これは期待―――?

「・・・・・・い、たく、ない」

自分でも考えが良く纏まらない中、漸く人間らしい言葉を出す事が出来て、内心かなりほっとした。でもこれで彼はもう立ち去ってしまうだろう。その事を寂しく感じてしまうのは気のせいだ、だって彼は元々関係が無いんだから。
オレの言葉に「あ、そう」と短く答える声が聞こえて気を緩めた瞬間、遠ざかるとばかり思っていた足音が、オレの側の小石に当たって軽い音をたてた。

「じゃあ、どうしたの?」

予想より遙かに近くで聞こえた声に、反射的に顔を上げてしまった。街灯は彼の後ろにある。逆光の為に顔立ちは良く判らないけれど、彼の服装や仕草、正面から聞こえる声の感じから、たぶんオレや修ちゃんと同じ位の気がした。思ったより若い、そう感じたけど、正面から向き合ってしまったせいで、オレの緊張感は勝手に高まってしまう。

「な、ななんで、も」
「ななな?」
「な、んでもっ、ない」
「あ、そう」

舌を噛みそうになった・・・。ああ、またすごく格好悪い。こんな所で体裁なんか気にしても仕方ないのかもしれないけれど、いかにも落ち着いた彼と、明らかに挙動不審なオレとでは差が有りすぎる。そんな所でも落ち込みかける自分を必死で鼓舞しながら、言葉を綴った。どんな言葉でもいい、オレが大丈夫だって事を彼に判って欲しかったから。

「な、んでもないっから、大丈夫っ」

「お前な・・・」

勝手に開いたり閉じたりを繰り返そうとする口を、頑張って自分の意志で動かした。ちゃんと伝えられたと思ったのに、オレは判ってもらえるどころか「よだれくらい拭け」とポケットからハンカチを出されてしまう始末。

「ほら、拭けよ」

言葉は乱暴だったけど、声の調子とオレを見る瞳はすごく優しく感じられた。思わず突き出されたハンカチと彼の顔をぼうっと眺めてしまう。初めは怖い人だとばかり思っていたけれど、良く見れば少し垂れてるけどすっきりとした目元や薄い唇が、彼の顔立ちが整っている事を教えてくれた。
でも、オレが呆けていられた時間は短かった。差し出された好意に、素直に手を伸ばせないオレに代わって、彼の方から近づいて、ぐしゃぐしゃになった顔を拭ってくれる。

「う・・・ぐっ、っん」
正直、ちょっと(かなり)乱暴な手つきで顔の表面がヒリヒリしたけど。どうにかした拍子に鼻と口が一緒に塞がれて、本気で窒息するんじゃないかと頭がくらくらしたけど。オレは、少しも嫌だとは思えなかった。
後で思い返すと、この時のオレはふわふわとすごく気持ちの良い場所を漂っているみたいだった。



だから、彼の手の動きが止まって瞳に訝しげな光が揺れている事に気がつかなかったのだ。


「あれ?なんで・・・」

―――「何で」って何の事だろう?

『なんで、濡れてるんだ?』

ぽつりと零れた言葉は、問いかけられたものではない。ただ、彼の目線で疑問の原因が何かはオレにもすぐに判った。

「あ・・・・・・」

ぐっしょりと濡れたオレの服。大きめの上着を羽織っていたから、ばれる事なんて無い、とどこかで油断していたんだ。しかし下を向けば、裾から『試験』用の真っ赤な衣装がはみ出しているのさえ見える。

―――どうしよう、ど、・・・どうしよう!絶対、変に思われた!

あんな事をした後で、気を抜いたせいなのか。それとも今までしてきた事の罰が当たったのか。ほんわりとした気分はあっという間に剥げ落ちて、身体が震えるのを止められない。
向けられる、視線が怖い。どう思われているか、考えるだけで怖い。
そんな風に、オレは、ただひたすらに怖かった。
あやしまれるかもしれない、誰かを呼ばれるかもしれない、という最悪の予想で頭の中がいっぱいになって。その所為で、彼がオレに呼びかけている言葉さえ耳に入らなかった。

―――ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!!

そうしてオレは、ひたすらに心の中で、ここにはいない誰かに向かって謝った。謝れば許されるとか思っている訳じゃない。そんな事で許してもらえないのは、ずっと、ずっと判っていた事だから。それでも謝らずにはいられない。

「おい!お前、人の話聞いてるのかよ?」

「・・・ごめ、なさい。ご・・・めん、なさい」

誰でもない、誰かに向かってオレは心の中で謝り続ける。それが何の意味も持つことが無い、と判っていても。

―――たぶん、こんな風に許しを請うのは、・・・きっと自分のためなんだ。







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