【Don't cry baby】・8







小さいけれど、今までになくはっきりと告げられた言葉に背筋が震えた。真っ直ぐに向けられた鳶色の瞳は、深くて底が見えない。おどおどと揺れていたさっきまでとは、あまりにも違いすぎるその変化に、俺の頭の中では警告を知らせる音が鳴り響いていた。

―――これに手を伸ばしてはいけない、面倒な事になる。立ち去って忘れた方が良い、また会う事なんてないのだから。今日初めて会った、名前すら知らない相手にここまでしたんだ、もう充分だろう。

確かに、これ以上何かをしてやる必要なんて無い。それは判っているけれど、俺の手はそんな思考を振り切る様に動きを止めなかった。

「ったく。そんな事より、早く泣きやめ!」

「うっ・・・ひ!」

まだ微かに残っていた涙を乱暴に擦り上げる。泣きすぎたのか、擦りすぎたのか、目尻の赤みが痛々しかった。

―――別に、こいつだって俺に助けられる事を望んでなんかいない。

そんな事は最初っから判っている。だってこいつは泣いていたけれど、俺に助けを求めていた訳ではない。
つまりは、俺が勝手にかまっているだけの事なのだ。なんで、こんな面倒くさい事をする気になったか、と問われれば、それは単なる気まぐれだったのかもしれないし、花井辺りの影響かもしれない。正直、俺自身にも理由なんて良く判らないんだ。ただ、この時の俺はこいつの手を離そうと考える事が出来なかった。


「ほら、早くしろ!」

「ひ、ひゃいっ!」




あの細い手をとった事が、間違いだったとは思わない。
それでも手を離せなかった事が、全ての始まりになるなんて。
神でも仏でもない、未来なんてモノを知らない俺には判るはずもなかった。






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【三橋廉、そして阿部隆也】



指示通りやれたと思った。
打ち合わせの時に確認した場所に必要な物は揃っていたし、『的』だってちゃんと確認出来た。『卒業試験』だから、といつも以上に緊張している所もあったけど手順を忘れる事は無かったと思う。

それなのに、オレは失敗してしまったのだ。

『的』がゆっくりと倒れるのを視界の端で確認してから、全力で走った。仕事の時間に余裕なんてものはない。頭の中に叩き込んだ見取り図に従ってオレは出口に向かった。それなのに、修ちゃんに「ここから外に出ろ」と言われていたドアは、どんなに押しても開かなかった。まるで、扉の向こう側の世界にオレが必要無いと宣言するかのような頑強さで、出口は閉ざされている。

「ど、ど、どうしよう・・・」

パニックに陥りかけたオレを正気に戻したのは、他でもない『的』のSS達だ。自分のやった事を考えれば、彼らに捕まった後の事は容易に想像がつく。でも、そんな風になるのは、絶対に嫌だった。
飛び交う怒号の中、店中を夢中で駆け回って、やっとの思いで見つけた窓からオレは飛び降りた。高さがあまり無かった事と、下に積まれたゴミのおかげで幸い怪我をする事はなかったけど、ゴミの中にあった何か(酒かもしれないし、ただの雨水かもしれない)のせいで服がぐっしょりと濡れてしまった。
寒い季節では無いけれど、こんな格好で彷徨いていたらすぐに怪しまれる。怪しまれて、騒がれて、捕まったらもうお終いだ。追いかけてくる気配が感じられなくなるまで、オレは狭くて暗い路地を逃げまどった。

「う、ううっ、うぅ・・・」
逃げている間中、怖くて怖くて涙が止まらなかった。いつもみたいに「ごめんなさい」って謝る事も忘れる位に、怖かった。
そうして、漸く追いかけてくる人間が誰もいないと判った時、オレの足はもう一歩だって動かせない位にくたくたになっていた。

「う・・・っく、う・・・ぐ」
安堵していられる様な状況でないのは判っていたけれど、一度腰を下ろすと疲れがどっと出てきてしまう。弛んだ緊張はただでさえ緩いオレの涙腺も解放するみたいで、涙が堰を切ったようにこぼれ落ちてくる。びしょ濡れになった服に体温が奪われて、震えも止まらない。でも涙すら拭く物を持っていないオレには、どうする事も出来なかった。

「う、うぅ・・・、ど・・・しよ」
ここには、オレの他誰もいないんだ。修ちゃんも織田君もいない。寂しい、怖い、一人でどうしよう。そう思った時、オレはここが修ちゃんから教えられていた合流地点でない事に気がついた。

―――これじゃあ、迎えに来てもらえない・・・。

一番良いのは自分で決められた場所まで移動する事だけど、それをすぐに実行するには、この足じゃ無理だった。しかも現場の周囲にはオレを探している人達が大勢いるはずだ。そんな中に戻るなんて自殺行為に等しい。
でも、あまり時間がかかってしまうと、修ちゃんだって帰ってしまうかもしれない。誰も知らない、いやオレを追っている人達のいる街中で、一人取り残される恐ろしい予想に背中がぶるりと震えた。

「は、早く行かないと・・・。」

このままここで待っていても、事態が好転するわけではない。残された時間の中で、自分がなんとかしなければならないんだ。崩れそうになる膝を必死に支えてオレが立ち上がろうとした、ちょうどその時。


『危ねぇな、ったく!誰だよこんな事したヤツは!』


「うひっ!」


何かがぶつかる音が聞こえて、身体が竦む。続いて誰かの怒鳴り声。あまりにも突然で、しかも近い場所での出来事に、オレは思わず声を漏らしてしまっていた。

―――ど、ど、どうしよう・・・!!い、今の、聞こえて・・・ないよ、ね?

慌てて両手で自分の口を塞いで息を呑んだ。大声を出した相手が、オレを捜している人間だったなら今のは致命的だ。祈るような思いで身体を縮こまらせて積み上げられた箱の影に隠れる。
でも、どこかで『こんな時に声を出してしまうなんて、オレってやっぱり駄目なヤツなんだな』と諦めにも似た気持ちも湧いてきていた。捕まったらどうなるんだろう。

―――痛いのかな、苦しいのかな・・・

痛いのも苦しいのも、どっちも嫌だったけど、捕まったオレの運命なんて決まっている。でもそんな風にちょっと思考がぼんやりしていた間にも、声の主は近づいてきていた。


『もしかして、俺の蹴ったヤツで怪我でもしました?』

「・・・・・・だ、いじょ・・・ぶ」

最初に聞いた怒鳴り声とは違う柔らかい調子に、ほんの少しだけ緊張が弛む。ひょっとしたら一般人なのかもしれない、という期待が浮かんで、それだったら黙っているのも不自然だから『大丈夫だ』って事だけを伝えようと思った。ただ、ずっと泣き続けているオレの喉からはろくな声が出なかったけど。


『え・・・、今、なんて言った?』


―――だ、大丈夫って言ったのに、聞こえて無かった!?






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