【Don't cry baby】・10





「お前な・・・、いい加減泣きやめ!!」
「う、ひっ!!」

至近距離で怒鳴られて、心臓が止まるかと思った。びっくりしすぎて、あんなに湧いてきた涙さえ引っ込んでしまったみたいだ。こんな風に怒られる事は、オレにとって本当に久しぶりだった。まじまじと彼の顔を見つめると、眉間には深いシワが寄っていて、持ち主の機嫌がどれ程悪いかを教えてくれている。

「う・・・・・・」
言葉が出ない。でも、こんな表情をオレは見慣れていた。こんな顔で見られる事は良くあったから。施設でも、そこから引き取られた後でも。そして、この後、どんな風に罵られ蔑まれるかも予想はついていた。ひょっとしたら、手もあげられるかもしれない。でも、それは仕方が無い事なんだ。だって全てオレが悪いんだ・・・。だから怒った彼の顔と手が自分に近づいて来るのを、オレは目を閉じ身体を硬くして待っていた。

「うぐっ!・・・ぐ」

結論から言えば、考えていたような痛みは襲ってこなかった。顎は痛い位に強く掴まれていたけれど、その手も、乱暴に顔を擦る手も、オレを痛めつけるためのものではない。

「お前、いい加減に泣きやめ!」


―――・・・ど、うして?

確かに怒っているはずなのに、と彼の行動の理由が全く解らなかった。怒っているはずなのに、どうしてオレの涙を拭いてくれるんだろう・・・。

「ど・・・ぐ、じて」

問いかけた言葉は通じるようなものでは無かったと思う。きっと、ただの雑音にしか聞こえない。その為か、彼はどこか困った風な表情でオレを見ていた。ただ不思議な事に、困っている様子はあったけど、さっきまでの怒りにも似た雰囲気は綺麗に消えている。

「俺だって、・・・判んねぇよ」

表情の意図が読めなくてじっと見つめると、彼はぽつりと呟いて気まずげにオレから目をそらした。普段のオレだったら、そんな彼の仕草にも緊張して怯えていたと思う。でも今はそんな事よりも、自分の言葉や感情が彼に通じていた事の方に驚いてしまう。その驚きは、とても暖かい物に包まれていた。

―――ああ、本当にオレの事、心配してくれてるんだ・・・。

だがそんな穏やかさとは裏腹に、オレの心はどんどん暖かさを失っていく。
そして彼の言葉にオレが返したのは、感謝の言葉だけでは無かった。

「・・・・・・ほう、が良い、よ」
「あ?なんだ、何か言った?」
「オレに・・・・・・」


『ありがとう。でもオレに、関わらない方が良いよ。』

―――良かった、何とか、言えた。

声は小さかったけれど、今までで一番はっきりと伝えられたと思う。ほっとして思わず安堵の息が漏れた。オレの言葉を聞いて、彼の瞳が大きく見開かれたのが判ったけど。それは、きっとオレの言葉の意味が判らないんだ。訳が判らなくても当然だ、でも、これだけは絶対に伝えなくっちゃならなかった。

―――彼はオレには関わってはいけない。こんなに優しい人を、オレは今まで殆ど知らなくて。すごく嬉しかったけど、だけど、やっぱり彼とオレとは違うんだ。

『違う』という事を改めて自分自身に認識させると、さっきまでの動揺が嘘みたいに感情は収まってくる。吐き出した息はまだ少し震えていたけれど、落ち着いて足に力を入れてみた。アスファルトを踏みしめる硬い感触。これだったら自分の足で歩いていけそうだ。
このままオレと一緒にいたら、オレを追って来る人たちに見られたら、組織とは無関係の彼にも大きな迷惑がかかる。遅まきながら、オレは漸くその事に思い至ったのだ。

それに、これは一番考えたくなかった事だけど。場合によってはオレの手で彼の事を・・・。

―――い、・・・やだ。

握りしめた手にひやりとした感触が過ぎった。その可能性が0で無い事が、こんなにも辛いなんて思わなかった。大事なことに気づくのが遅い己の鈍さが腹立たしい。自分の妄想だと判っていても、仕事の後に感じるあの冷たさや、動かなくなった身体の硬さを思い出して、止まったはずの涙が一粒ぽろりとこぼれ落ちる。彼のそんな姿を見たくなかった。だが、彼はオレの内側のそんな葛藤を知らない。

「ったく。そんな事より、早く泣きやめ!」

「うっ・・・ひ!」



こぼれ落ちた最後の滴を乱暴に拭うと、彼は立ち上がった。膝に付いていた埃を払う仕草の後、オレの涙や涎でぐちゃぐちゃになったハンカチをポケットの中に押し込んだ。そして、それから少しの間があった。彼は逡巡していたみたいだった。オレの言った事を考えているんだろう。

―――いいよ、迷わなくて。オレの事は置いていっていいから。

オレに背を向けて立ち去る彼の姿をイメージすると、少しほっとして、それでも少し、寂しかった。だから目の前に突き出された彼の手が、いったい何のつもりか理解するまでに。たぶん、たぶん数分はかかっていたと思う。

「ほら、駅までなら送って行ってやるから」
「え、・・・う、あ」
「怪我してねぇなら立てるだろ?」
「・・・あ」

突き出されたままの手が軽く揺らされる。言葉よりも、むしろ彼の態度と視線に促されて手を伸ばすと、予想より遙かに強い力で引き上げられた。骨張ってオレより大きく、熱い手のひら。

「じゃあ、ついて来いよ」

「・・・・・・」




立ち上がると同時に、離された手首がじん、と痺れる。掴まれていた部分を反対の手でさすると、何故かそこだけひどく熱を帯びているような気がした。






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