【Don't cry baby】・7
声を掛けると、灯りの届かない路地の隅、その奥でごそごそと何かが動く気配がする。返事は無い。
―――まさか、俺が蹴り飛ばしたアレで怪我したとか?
結構軽く蹴ったつもりだったけど、あんな空ケースだって当たれば痛いに違いない。返事が無いっていう事も俺の不安を掻き立てる要因になった。
「おーい、大丈夫ですか?」
道に散らばる他のケースを脇に寄せながら、恐る恐る声の聞こえた方を目指す。それにしても随分派手に散らかったもんだよな・・・。いったい何があったっていうんだ?ちらりと疑問が頭を掠めたが、それよりも奥にいるかもしれない人物が気になって、そんな疑問もすぐに忘れてしまった。
「誰かいますかー?」
『う、ひっ』
また、微かに声が聞こえた。なんだか泣いてるみたいにか細い声だ。
「もしかして、俺の蹴ったヤツで怪我でもしました?」
『・・・・・・だ、じょ・・・ぶ』
「え・・・、今、なんて言った?」
“大丈夫”と聞こえた気はしたが、如何せん小さすぎてはっきりしないし、声の感じは台詞の内容からは程遠く弱々しい。声の持ち主を確かめようと足を勧めると、路地の奥、崩れたケースの山の傍らに膝を抱えて蹲る人影があった。
「本当に大丈夫ですか?」
これだけ近づいて声を掛けても、その人物は顔を上げようとさえしない。頑なに膝を抱え、すすり泣くような音だけが耳に届く。
―――あー、参ったな・・・。どうすっか・・・。
正直、この時俺は面倒な事になったと思っていた。目の前で知らないヤツが泣いている。まぁ、俺が怪我とかさせた訳じゃないのは確認出来たから、このまま放っておいても問題無いだろう。まったく、自分がこんな役を割り振られる日が来るなんて、思ってみた事もなかった。こういう役目はいつも花井や栄口だと相場が決まっていたから。
「俺、慰めるのとか苦手なんだよな・・・」
思わず漏らした言葉に、泣いているヤツの肩がびくりと震える。
―――お、一応こっちの話聞いてるんだ。
あんまり嬉しい種類の反応では無かったけど、なんだかちょっとほっとする。
近づいてよくよく観察してみたけど、こいつって男かという疑問が湧いた。雰囲気的には自分とたいして変わらない年齢みたいだけど。顔が見えないからあんまり確信出来ないし。見えるのは栗色の頭頂部だけだ。
「なあ、本当に大丈夫?」
「う・・・う・・・っく」
「どっか痛いの?」
―――男だとしたら、相当よく泣くヤツだよな・・・。
「・・・・・・い、たく、ない」
俯いたままぶるぶると首を振られた。痛くないならなんで泣いてんだ?
「あ、そう」
いつもの俺だったら、こんな馬鹿みたいな興味を他人に持ったりはしない。でも、何故だか今は気になって仕方がなかった。
「じゃあ、どうしたの?」
一歩距離を縮めると、またびくりと震える。震えた拍子に思わずといった感じで、少しだけ顔が上がって目があった。
―――やっぱ、男かよ。
震える肩の骨格は細いけどしっかりしていたし、ふわりとした髪の下から見えた瞳は微かな街灯の光を吸ってやけに大きく見える。どちらかといえば華奢なタイプかもしれないが、それでも間違いなく男だった。
「な、ななんで、も」
「ななな?」
「な、んでもっ、ない」
「あ、そう」
冷たいみたいだけど、男だと判ったら途端に『面倒だ』という文字が一層大きく頭を掠める。男だったらこんな場所で泣いていたところで、大した事にはならないと思う。たぶんだけど。そう思ったはずなのに、次に俺がとった行動は全く正反対の物だった。
「な、んでもないっから、大丈夫っ」
「お前な・・・」
よだれくらい拭け。とポケットからハンカチを取り出して突き出した。入れっぱなしだったから多少皺が寄っているけど、そんな事はこの際仕方がない。だってこいつすごい顔して泣いているんだ。鏡で本人に見せてやりたい位に。ここまでくれば、同情するというよりも・・・・・・、むしろ笑える。
「えっ?ぐっ・・・え、ぁ?」
「ほら、拭けよ」
俺から出た声は(自分でも驚いたのだが)これが俺の声かと疑うくらい優しかった。しゃくりあげるようにしながら“大丈夫”を繰り返す目の前のヤツを見て、放っておける性格では無かったらしい。でもこれは新しい発見というよりも、絶対に花井辺りの悪影響だ。
「ほら!」
「う・・・ぐっ、っん」
あわあわと両手におかしな動きをさせて、もがく顔を強引に拭った。なんだか調子が狂う。酒のせいかもしれない、とわざと乱暴な手つきでハンカチを動かすと、ズズッと鼻をすする音がした。あー、こいつ本当に良く泣くヤツだな。
だが、尚もごしごしと作業を続けていると、拭かれている方も段々と大人しくなる。よし、もうそろそろ綺麗になった頃だろう。とハンカチを外しかけた時、俺は奇妙な事に気がついた。
「あれ?なんで・・・」
―――濡れてる?雨なんか降ってなかったよな?
コイツの体格からすれば些か大きな上着の下からは、顔に似合わない派手な赤い生地が覗いていた。私服というよりも商売用の衣装みたいな色。ぐっしょり濡れて肌に貼り付いているのもひどく不自然だった
「おい・・・、お前」
濡れてるけど寒くないのか?と聞いた瞬間、今まで以上に大きく目の前の身体が震えた。
―――あれ、俺そんなにまずい事を聞いたのか?
「う・・・、あ・・・あ」
怯えたように大きく開かれる瞳。落ち着いたかと思っていた涙が盛り上がって頬を滑り落ちる。自分で自分の身体を抱きしめるように縮こまる唇から、掠れた声が漏れた。
「おい。俺はただ・・・濡れてるから大丈夫かっ・・・て」
「・・・・・・ご・・・な、さい」
「おい!お前、人の話聞いてるのかよ?」
「・・・ごめ、なさい。ご・・・めん、なさい」
次々とこぼれ落ちる涙を追いかけるようにハンカチを押しつけると、顔を振って避けられた。出会ってから初めての明確な拒否。今まで馬鹿みたいにされるが間々だったくせに、今更なんだっていうんだ。なんだか無性に腹が立ってきて、俺の口調も自然ときつくなる。
「ごめ・・・ん・・・な、さい」
「誰も、お前に謝れだなんて言っていないだろ!」
「う・・・ぐっ、ご・・・」
「お前な・・・、いい加減泣きやめ!!」
一喝すると、ただでさえ大きな瞳がさらに広がった。怯んだ隙にまだ嫌がる顔を押さえつけて無理矢理に涙を拭う。真っ赤になった目元が何か信じられない物を見たという様に俺を見上げてきた。
「ど・・・ぐ、じて」
『どうして、こんな風にしてくれる?』きっと、こう聞きたかったんだろう。泣きすぎて殆ど日本語になってなかったけど、その瞳を見れば何を言いたいかなんて全部判る気がした。でも理由なんて
「俺だって、・・・判んねぇよ」
理由なんて自分でも判らない。ただ大きな瞳で見つめられているのが、妙に居心地悪くて視線を合わせる事が出来なかった。仕方がないので、不自然にならない程度に視線を外して顔を拭くのに注力する。
『・・・・・・ほう、が良い、よ』
「あ?なんだ、何か言った?」
「俺に・・・・・・」
―――ありがとう。でも俺に、関わらない方が良いよ。
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