【Don't cry baby】・3


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【阿部隆也】


「阿部〜っ、阿部様〜」

遠くから、阿部の名前を連呼する声が聞こえる。
「おい、阿部呼ばれてるぞ」
そんな事は言われなくても、呼ばれているのは判っていたし、呼ぶ声と口調から誰が呼んでいるのかも判っていた。
それでもあえて無視を決め込んでいたのは、不本意ながらそいつの用件までもが聞くまでも無く検討がつくからだ。自分の良すぎる学習能力が、こんな時にひどく恨めしいくて思わず口をついたのが。
「・・・・・・ちっ」
「阿部・・・お前今・・・“ちっ”て・・・」
舌打ちをすると、隣を歩いていた花井が顰めっ面で脇を小突いてきた。その拍子に思わず振り返ってしまったのは、更に失敗だった。情けない声を上げながら駆け寄ってくる水谷の姿を、そのせいでばっちりと視界に入れてしまったからだ。

まぁ、ここは俺の心の中だから正直に言わせてもらう

―――はっきりいって、ウザイ。





花井に栄口、田島、水谷。自分が校内で友人と呼べるのはこれ位だろう。クラスや学部に違いはあるが、同じ野球サークルに入っていた縁もあって、大学に入ってから2年の間を一緒に過ごしている。もっとも、田島だけはサークルじゃなくて正規の野球部に所属していたが。あいつの場合、花井と同じ高校に通っていた、って所から一緒に行動する事が多かった。


「阿部様―っ!」

段々と水谷の声が近づいてくる。そして声が大きくなるにつれて、俺の苛立ちも増してゆく。別に俺は水谷が嫌いという訳ではない。ただ、あいつが俺の地雷を踏みすぎるのだという事だけは、確かだと思う。

「なぁ、阿部・・・」
「・・・・・・」

そうでなくても、今週はレポートが山積みで睡眠が足りていない。苛々するなっていう方が無理ってものだ。これから学食に行って飯を食って、図書館で資料を借りて、やらなければならない事が山ほどあるってのに。

「はぁ?何だよ?」
言いたい事あるなら、はっきり言えよ。水谷への苛立ちをそのまま花井に変換してやると、長身の身体が怯えたように一歩後ずさった。
「いや・・・・・・」
そんな引きつった顔する位なら、最初から水谷の事なんか気にするな。と怒鳴らなかったのは、この後を考えての事だ。こうなってしまったからには自分一人で水谷の相手なんかしてやるものか。是非とも花井にも協力してもらおうと(いや、嫌がっても協力させるけど)心に決めて、自分でも人相が悪いと自覚している笑みを浮かべてやる。

「あ、あああ阿部?」
案の定、花井の顔から面白い様に血の気が引いてゆく。

―――このお人好しめ!今頃後悔しても遅ぇーんだよ。だからいつも田島なんかにつけこまれんだ。まぁ、ついでだから水谷の相手もしてやってくれ。

「どうした?花井。」
「・・・・・・」
「ほら、水谷が来るぞ」

―――あんまりいじめるのも可哀想なので、今日はこれ位にしてやる。人一倍お人好しで面倒見が良いのは花井の良い所でもあるわけだし。それを他人ばかりに有効活用されているとしても、それはそれ。

結局は、花井自身の問題って事だ。





【花井梓+阿部隆也・水谷文貴・栄口勇人】





「阿部―っ!」
解放されてよろりと横に移動した花井のスペースに、今回の元凶ともいえる水谷が飛び込んできた。阿部と花井の間で交わされた会話を欠片も知らない水谷は、常よりも一層場の雰囲気を読むことが出来ないようで、縋り付くような勢いで阿部に飛びつき、軽く避けられている。

「阿部―!良かった〜。呼んでも振り返ってくれないから、耳の具合でも悪いかと心配したよ〜」
「お前に心配されたら俺もおしまいだな」
最後にフッ、と嘲笑した阿部の顔を見て傍観者であるはずの花井の口から、うう、と小さく呻き声が漏れた。
「・・・水谷・・・、阿部・・・」
阿部の態度に問題があるのは今日に始まった事ではないのだが、水谷の台詞もナチュラルに失礼だ。もっとも、それに応える阿部の台詞は輪をかけて最低で。しかも、どちらも素でそれを言っている辺りが、側で聞いている常識人花井の胃袋にガンガン負荷をかけて下さっている。

―――畜生、またなんでこんな貧乏くじ!!

一歩引いて無意識に脇腹を押さえながら、それでも花井は、敢えて二人の間に再突入しようと深呼吸で息を整えた。(他人はそれを無駄な努力と言うかもしれないが、見過ごす事の出来ないの辺りが花井のお人好しと呼ばれる所以である。)
もっとも花井自身の意見を尊重するならば、この二人を放置して後々の収拾を図らされるよりも、事が起こる前に、という事らしいけれども。

「あ、阿部・・・、ちょっと位だなぁ」
「ああん?何だよ花井?」

―――ああん?って何だよ!“ああん”って!!それに、その眼が友達に向ける目付きかよ!?

『俺たち友達だよな!?』と問い質したい気持ちを必死で抑えて隣を見れば、事ここに至り、やっと場の空気を悟ったらしい水谷が真っ青になって震えている。そんな水谷を見て、花井は自分だって思い切り泣きたい気持ちになった。

―――水谷、お前もっと早く気づけ!っていうか、それ以前に学習しろ!!

もしも、世界『お人好し』選手権なるものがあったら、自分は確実に優勝出来る!そんな大会有るわけ無いし、仮にあっても絶対に出たくはないのだが。乗りかかった船、毒を食らわば皿までも。

「ちょっと位、話・・・」

そんな悲壮な覚悟を持って挑もうとした花井に、ふいに天からの声が掛かった。

「それだけ必死なんだからさ、話だけでも聞いてあげなよ。阿部」

「え・・・・・・」
「あ・・・・・・」
「・・・・・・ちっ」

穏やかな声の響きに三人が振り返る。そこには声を裏切らない柔らかな微笑みを、ふんわりと浮かべた栄口が立っていた。

「さ、栄口〜っ!!」
地獄で仏とはこの事か、阿部には泣きつかんばかりだった水谷が、今度は抱きつかんばかりの勢いで栄口に駆け寄って行く。

「・・・・・・あいつ、また首突っ込んできやがって」
阿部の眉間に少しばかり皺が寄ったのは、学内でも『良い人』と認知されている栄口が、その実なかなかに手強い事を知っているからだ。面倒臭い事になったと思っている事が丸わかりの阿部の顔だが、栄口の登場で気勢がそがれたのだろうか。先程までの苛立ちが薄れている事に気がついて、花井もやっと胸を撫で下ろす事が出来たのである。





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