【Don't cry baby】・28








遊園地から遠ざかるにつれて人の気配は薄くなる。駅までの道は特に何もない平坦なもので、時折すれ違う誰かの他は、疎らに立つ街灯と枝を伸ばした樹だけがひっそりとしている。数分前までの喧騒と比べれば、なんて静かな時間―――オレは少し冷たくなった夜の空気を深呼吸した。
夏の長い長い陽が沈み、ようやく訪れた宵の帳に白い星が瞬き始めても、水平線の端はまだ薄らと明るいようだった。その眺めは、オレの気持ちと何処か似ている。体の中心、胸の奥、言い方は違うけれど、優しくて暖かい物が綺麗な輝きを放っている。
「き、今日は楽しかった、ね!」
阿部くんがちら、とオレの顔を見た。
「い、色々乗ったし、阿部くんの友達とも会えた、し…」
思わず勢いのまま話し掛けてしまったけど、阿部くんはなんともいえない奇妙な表情をしていた。ちょっと怒っているような、戸惑っているような。眉間に薄くしわを寄せて、はぐらかされた視線がオレの後ろに落ちる。
「…マジで楽しかった?」
「楽しかった、よ!」
どことなく心細げな問いに、大きくかぶりを振ると、阿部くんの表情も僅かに弛む。まだ具合が悪いんだろうか、と少し心配になった。
「もう気持ち悪くとかねぇから、気にすんな」
「え…?」
オレの考えていた事を読み取ったみたいに、ぼそりとした呟きが聞こえた。軽く首を捻ると、ため息が一つ。
「お前が楽しめたっつーんなら、俺もその方が嬉しいよ」
「う、うん」


それきり黙りこくってしまった阿部くんに、オレも、浮かない顔の理由を聞きそびれてしまう。
あ、と小さな声がした。
「俺が言った事、あんま気にすんなよ」
何が?と首を傾げると、今度は目に見えて、阿部くんは顰め面になった。
「ちくしょう…墓穴かよ…」
低くてぼそぼそした呟きは聞きとりにくて、彼が何を云わんとしているのか分からなかった。




「オレ、本当に楽しかった、よ」




なぜだか、もう一度ちゃんと伝えたほうがいい気がしたんだ。初めて乗ったジェットコースターも他の乗り物も、みんなすごくおもしろかった。阿部くんの友達とも会えて、親切にしてもらって。それに阿部くんと一緒じゃなかったら、友達と遊園地なんて一生来なかった機会かもしれない。
大袈裟でなく、それはオレにとって文字通りの意味だったし、こんな経験が出来たのは全部阿部くんのおかげだ。


「オレ、す、すごく楽しくて。そ、それで、あの・・・」


もっと、オレが上手く言葉を綴れたらいいのに。どんなに口を動かしても、伝えたい事の十分の一も話せていない気がする。ふわふわとした気持ちは掴み所が無くて、なかなか捉える事が出来ない。もどかしさに音をあげそうになっていると、ふ、と今まで重かった空気の弛む感じがした。
「そんな頑張んなくても大丈夫だから」
「え・・・?」
「三橋、今、眉間にすげぇ皺が寄ってた」
人差し指で、額の中央を軽く突かれた。思わずその部分を撫でさすると(そんな事をしても、皺が伸びるはずもないけれど)、我慢できないといった風に阿部くんが笑う。
「・・・え、へへ」
「お前まで、何笑ってんだよ?」
「だって、阿部くんが笑ってくれた、から」
「はぁ?」
「だって、オレ今日すごく楽しかったけど。阿部くんも、た、楽しくなかったら意味、ない・・・んだ」
そっか。と呟いた阿部くんの表情は、街灯の影になって良く見えなかった。なんだか気になったけど、覗いてみてもいいのか迷っているうちに。ふいに伸びてきた手がオレの髪を掻き回した。
「ありがとな、三橋。今日、一緒に来てくれて」
「え、えっと・・・なんで、阿部くんが、お礼なんて、言うんだ?」
「・・・いいから、言わせといてくれよ」
「う、ん・・・」
頷きながら、ふと振り向くと、遊園地はかなり小さくなっていた。夕暮れの気配はもう残っていない深い藍色に覆われた空と、そこに浮かび上がる小さな光の国。その中央の辺り一際目立つ場所に、燦めきながらゆっくりと回っているゴンドラが見えた。




「そういや、観覧車は乗らなかったな・・・」


その景色を眺めながら佇んでいると、阿部くんの足もいつの間にか止まっていた。
「かんらんしゃ?」
「ああ、男同士で乗っても、あんま気持ちいいもんじゃねぇかと思って誘わなかったんだけど・・・」
どうせなら乗れば良かったな。と残念そうに言う横顔を見て


「ま、また、遊園地行こうよ!今度は『かんらんしゃ』に乗りたい!」


オレは思わず、そう呼びかけてしまった。
「そうだな・・・。じゃあ、そうするか」
柔らかく弛んだ口元を見て、ほっとする。続けて、約束だな。という言葉に胸の奥が震えた。




「約束・・・」
「ああ、今度はあいつらも一緒に行くか?」


阿部くんが本気で言ってくれたのか、それとも冗談だったのかは分からない。でも、どちらにしろオレに出来たのは、何も言わずにただ頷く事だけだった。




―――その約束が果たせるまで、この場所に居たい。




誰かの傍らに在る未来が欲しいなんて、今まで考えた事もなかったのに。はっきりと自覚してしまった望みに涙が出そうだったから。







それを知ってか知らずか、阿部くんの手がもう一度、オレの髪をくしゃりと掻き回した。暖かく、固く、優しい阿部くんの手。






オレは、また深呼吸する振りをして、こっそりと涙を飲み込んだ。








□□□







【花井梓+水谷文貴 とある月曜日(まとめ)】




B定をまるっとたいらげた阿部は、約束通り水谷にノートの写しを渡すとさっさと席を立った。
「あ、阿部、もう行くのか?」
「今日は午後の講義が休講になったから、これで終わりなんだ」
それを聞くなり、いいなぁ。とぼやく水谷の声など耳に入った様子もない。だが、食べ終えた皿とトレイを片付ける後ろ姿を眺めながら、
「・・・なんか変わったよな」
と、俺は呟いていた。
「あ、花井もそう思った?」
「花井も、って・・・お前も思ってたのか?」
まぁね。としたり顔で答えた水谷は、すっかり氷だけになってしまったグラスを指で突いていて、その口元は楽しげに持ち上がっていた。


「阿部ってさぁ、前に比べて『優しくなった』って思わない?」
「お、おう・・・」


水谷の口から「阿部が優しい」という言葉が出てくるとは予想もしなかったけど、それは俺の感じていた事とほぼ同じだった。
「前はさぁ、もっと他人を寄せ付けないっていうか、ちょっと怖いくらいな時もあったんだけど。今はあれだよね」
「あれ?」
「顔は怖いけど、怖くない」
「お前な・・・」


―――阿部に聞かれたら本気でぶん殴られるぞ。


こういう調子の良さが水谷の長所でもあり短所でもあるのだが、
「思ったより、ちゃんと阿部のこと見てたんだな」
ここはとりあえず、褒めておく事にした。俺がほぼ同意見だった、という事もあるが、今まで散々阿部の雑な言葉を受けていた割に、水谷はまっすぐ阿部の本質を見ていたと気づかされたからだ。


「俺だって、友達は選ぶんだよ」


へらりとした笑顔に紛れていたけれど、それは水谷の本音なのだろう―――広く浅く人付き合いを楽しんでいるように見えて、その実、なかなか心の底を読ませないコイツなりの。


「へぇ・・・。珍しいな意見が合うなんて」
「何が?」
「俺も実は、友達を選ぶタイプなんだ」


そう返してやると、一瞬面食らったような顔をした後、水谷はひどく愉快そうに笑った。


「花井に選んでもらったんなら、自信ついちゃいそうだな。俺も」
「水谷の場合は、あんまり調子に乗ってない時に限る、けどな」
「ねぇ、俺、いつもそんなに調子に乗ってる?」
「自分の言動を省みてみろよ」
わざとらしく眉を寄せる水谷の頭を、もらったばかりのプリントではたいてやる。阿部がしっかり用意してくれた紙の束は結構分厚くて、そのおかげでか存外にいい音がした。
「ほら、俺達も早く片付けないと次の授業に遅れっぞ」
「俺も阿部と一緒の講義とれば良かったなぁ・・・。そうすれば今日は休みだったのに」
「―――お前そんなんじゃ、また阿部にB定おごるハメになるぞ」
促す意味も込めてもう一度プリントを振りかざすと、水谷は大袈裟な仕草で頭をかばう。
「は、花井!やめて!暴力反対、馬鹿になる!」
「これくらいで、本当に馬鹿になるわけないだろ・・・」
「俺はそこんとこ繊細に出来てるんだよ!」
「・・・水谷」


これ位で呆れていたら、水谷の友達とはいえないだろうな―――いや、呆れていても最後までとことん付き合ってしまう、例えば阿部のようなヤツもいるけど。


「―――そういうのを、“お人好し”っていうんだよな」
「え、何?誰の話?」
「あ、ああ・・・」


俺よりも、余程お人好しであろう人物の顔を思い浮かべてみる。だが、その表情がいつも通りに甚だ不機嫌なものだったので、つい―――


「あー、花井変な顔して笑ってる!」
「五月蠅い、は、早く行くぞ!」


お人好しとは程遠い面。でも、アイツ以上にその言葉に相応しいヤツはいない。そう考えると、俺は弛む口元をなかなか抑えきれないでいた。




「ね、ね、なんで笑ってたの?」




興味津々といった風な水谷の頭を軽く小突くと「最近、花井まで阿部に似てきた気がする・・・」と恨めしそうに呟かれる。
たいして痛くもないのに大騒ぎする『友達』を見て、俺は「俺の友達は、仕方ないヤツばっかりだな」と笑ってやった。









←back  □□□  next→