【Don't cry baby】・22





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「いいよな、水谷。余ってんだろ、これ」
「あ、うん・・・まぁ」
別に余ってる訳では無いんだけれど・・・。という水谷のささやかな主張は、ささやかなまま終わった。
そして、もらう物をもらったらもう用は無いとばかりに阿部が席を立つ。後に残されたのは、呆然とした表情で自分の手元を見つめる水谷の姿。その様子がいつもながらあまりに不憫で、俺は伸ばしかけた自分の手を引っ込めてしまう。

「お、俺の分はいいから、水谷が誰か誘って行ってこいよ」
努めて明るくなるように言うと、がくりと落ちた肩をそのままに水谷は呟いた。


「阿部ってさ・・・阿部だよね」


日本語的には正しくないだろう。でも、心情が痛い位に伝わってくるその言葉に俺は大きく頷いた。

「阿部は・・・阿部なんだよ」
最近、ちょっとは優しくなった様な気もしていたけれど、根本的な所はちっとも変わらない。変わった方が気持ち悪いという事実には、この際目を伏せておこう。

「でもさ・・・」
「?」
「阿部が連れて行きたいって、どんな子なんだろね?」
「は・・・・・・?」
「俺、ちょっと興味あるな〜。ねぇ、花井もそう思わない?」
「あ、あ、まぁ・・・な」

―――俺も興味あるけど、怖すぎて踏み込めない。っていうか、お前立ち直り早すぎだろ!

すでに先程の悄然とした雰囲気は何処へやら。嬉々とした瞳で語り出す水谷を見て、俺の頭を『懲りないヤツ』という単語が駆けめぐる。

「花井、花井っ!」
「な、なんだよ・・・」
極めて嫌な予感。一人浮かれた表情の水谷が、次に何を言わんとしているかが判ってしまう自分が憎い。

「あのさ」
「だ、駄目だ、駄目だ、駄目だっ!俺は阿部の後なんかつけねぇぞ!」
「えー」

俺だって、自分が一番可愛いんだ。わざわざ大口開けた虎の巣に、突っ込む勇気なんて持ち合わせてはいない。第一、阿部にばれた時の事をコイツは考えているんだろうか。

「・・・なぁ、水谷。古今東西、好奇心が命取りになったって話はごまんとあるだう?」
「うーん、どうしようかなぁ」
駄目もとで諭してみたけれど、駄目なものはやはり駄目だったらしい。

「おい・・・お前・・・聞いてないだろ・・・」
頼むから俺だけは巻き込まないでくれ、とか、それでいつも苦労するのは誰なんだよ、とか言いたい事はたくさんあったけど、言ったところで事態が改善する余地はなさそうだった。

とりあえず、こういう時は何て言えばいいんだっけ。
「なるようになれ・・・」



(いや、それ言ったら水谷に協力するって事になるんじゃ・・・)



□□□



夏の気配が濃くなり始めた今の時期は、夕暮れ時になっても驚くほど日が長い。気温も高く、自転車を漕いでいるだけで額にじわりと汗が滲んだ。

「あちぃ・・・」

学校が終わった帰り道。俺は、自宅とは逆の方向に向かってペダルを踏んでいる。もうすぐ、あの公園が見えてくるはずだ。ここ最近、この場所に通う事が俺の日課になりつつあった。




【阿部隆也】




まだ、明るいとはいえ、子供の遊ぶ時間はとっくに過ぎている。その為か公園は閑散としていて、目当ての人物はすぐに見つかった。明るい色をした柔らかそうな髪、特徴のある動き方。

「悪い三橋、遅くなった!」

「阿部くんっ!」

声を掛けると、三橋はぴょこんと振り返る。その手に握られているのは、まだ真新しい硬球だ。もっとも、新しい割に薄汚れている所為で、持ち主の酷使っぷりが伝わってくる。

「お前・・・今日は、もうどれ位投げてる?」
「さ、さっき来たばかりだから・・・。15・・・分くらい?」
「それ、本当だろうな?」
「う、うううん・・・」
念を押すように確認すると、極めて不自然な返事が戻ってきた。汗ばんだ額に、栗色の髪がへばり付いている。畜生、この感じだと一時間は投げてたのかもしれない。この前あれ程言ったのに、こと投球に関しては、三橋は俺の注意を聞く様子が全く無い。本人に言わせると、夢中になって投げていると時間を忘れてしまう、という事らしいけど。まるで投球中毒だ。

「じゃあ、今日は後50球くらいだな」
「え、ええええっ!」
控えめな抗議の声は、聞き流しておいた。ちょっと涙目になっているみたいだけど、見ない振りだ。俺は三橋の表情に気づかない振りをしながら、鞄の中から自分の分のミットを取り出すと、三橋からの距離を目測でとって腰を下ろす。そうやって構えれば、三橋の瞳の色が変わった。瞳だけでなく纏う雰囲気まで色を変える様で、自然と俺の身体も引き締まる。

「まず10球な!」


声を掛けると、鳶色の瞳が真剣な表情で頷いた。
こんな時でもなければ、拝む事も出来ない顔だが、真剣な顔にしろ、不満げな表情にしろ、三橋が自分の感情を露わにする様になったのは、ごく最近の事だ。それだけ俺に慣れたという事なのかもしれない。もっとも、投球に関する事以外では、全くといって良いほど進歩は無いくて、相変わらず挙動は不審だし、方向音痴も治らないみたいだ。かえって最近では、三橋のそんな性格に俺の方が慣れてきてしまった。それでも俺としては、投球に関してだけでもコイツが自己主張する様になってきたのだから、以前に比べればマシになったのだと思いたい。

―――でも初めは、なんでもこっちの顔色伺ってばっかだったからな・・・。

先週、花井の見舞いの帰りに再会してから、俺達はこの公園でキャッチボールをする様になった。切っ掛けは三橋のとんでもないコントロールを見た所為で。野球をした経験が無いというコイツに、自分のボールをやったのは俺だ。

『ほ、本当にもらって、いい、の!?』

家に余っているから、とまだ新しい硬球をやると、三橋はこっちが驚く程の喜びっぷりを見せた。ついでに初めてキャッチボールに付き合ってやった時は、感激して涙を流す始末だった。

―――あの調子だと、寝る時でさえ手放していないだろうな。

今日だって、あんなに一生懸命握りしめて子供みてぇなヤツ。と思うと、口に端に自然と笑みが浮かぶ。だが、そんな俺の内心を知らない三橋は、相変わらず真っ直ぐな瞳でミットの中心を見つめて、俺からのサインを待っていた。

「いいぞ。投げろよ、三橋」
「は、はい」

三橋の投球フォームは、滑らかだが、際だった特徴は何も無い。球速も、正直言えば遅い方だろう。しかし、簡単なサインに従ってアイツの手から放たれた白球は、まるで吸い込まれるように俺のミットに収まった。構えた場所を少しも動かす必要は無い。この才能は天性の物なのか、努力の結果なのか、三橋の性格から考えたなら、おそらく後者であるのだろう。しかも驚くべき事に、何球投げさせてもこの正確なコントロールがぶれる事は、今まで一度だってなかった。

「本当に、すげぇコントロールだな」
「そう、かな。・・・うひっ」

―――あれは・・・一応喜んでいる、んだよな・・・。

奇妙な声と表情が、実は喜んでいるのだという事に気づいたのは最近だ。最初は怯えてんのか、困ってんのか迷ったけど、正解は『喜んでいる』だと知った時は、流石の俺もがっくりと力が抜けた。まぁ、それも慣れたから良いけど。しっかりと掴んだ球を三橋に投げ返しながら声をかける。

「次は、カーブいけっか?」
「あ、ま、曲がるやつ・・・。うん、出来る、よ!」
「じゃ、それな。10球になったら、また別のに替えるから」
「うん!」

構える。
投げる。
それだけの事を、こんなにも嬉しそうにするヤツがいるなんて、俺は今まで知らなかった。

―――こんなヤツだって、いるんだよな。

感動にも似た淡い感情が胸に込み上げる。だがそう思った瞬間、ふいに記憶の片隅がざわりと揺れて、深淵に押し込めていた影が滲みだしてきた。漏れだした影は、やがて俺の頭の中で形を結び、一人の男の顔になる。



―――空気を裂いて唸る白球。受けた瞬間、骨まで痺れるような衝撃と充足感に、その時の俺は酔っていた。18.44メートル先から向けられる視線は突き刺す様だったが、そんな事は少しだって怖くない。ただ、この球を受けられる喜びに、捕手としての本能が満たされて―――



「ちっ・・・・・・」


―――なんでこんな時に、アイツの顔なんか思い出すんだ。


「阿部くん?」
「あ、わりぃ。投げてもいいぞ」

今、俺の目の前にいるのは、不思議そうに首を傾げてる、ちょっと変わった投球バカだ。他の誰でもない。

深く一息ついてから、俺は改めてミットを構えた。下らない回想は、さっさと捨ててしまえ。と自分に言い聞かせる。あれは、とうに色褪せた昔の話なんだ。

『カーブ、内側。ぎりぎりの所に』

俺のサインに、三橋は軽く頷いて腕を振りかぶる。



緩い軌跡を描いて、ボールはミットに収まった。






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