【Don't cry baby】・21






【花井梓+阿部隆也、水谷文貴。とある金曜日】


氷の溶ける微かな音がする。グラスの肌は拭ききれない程の汗をかいて、学食ならではの“限りなく透明に近いアイスティー”が、更に薄まるのも時間の問題のようだ。

―――どうせなら、俺が溶けたいぜ・・・

氷みたいに溶けてしまえば、シクシクと痛む脇腹からも、煩わしさからも、逃げてしまえる様な気がする。・・・気のせいかもしれないけど。

「おい、花井。さっきから見てれば、そんな風に顔付けて、将来学食のテーブルと結婚でもする気かよ」

小馬鹿にした様な声の主は判っていた。
そうだよ、見えなくたって俺には判る。黒髪垂れ眼の悪人面に間違いない。

「誰のせいで、ここまでなってると思うんだよ・・・」
「この前、国際政治のノート写させてやっただろ?」
「その後の田島フルコースで借りは帳消しの上、追徴課税したい気分なんだけどな・・・」

俺の言葉に、阿部がふん、と鼻を鳴らすのが聞こえた。続いてガタガタと椅子を引き摺る音がして、どうやらヤツは向かいの席に座ったらしい。

「いつまで、そうやってるつもりだ?」
「・・・・・・」

―――そんなの、俺にだって判らないんですけど・・・。

机に頬をぺったりとつけているのは、冷たくて気持ちが良いからだ。だが、そんな事すら説明するのが面倒くさくて、俺は阿部に返事をする事なく溶ける氷を眺めていた。


水谷主催の合コンから始まった先週という一週間、俺は本当についていなかった。合コンの後始末だけじゃない。病み上がりの身体に鞭打って学校に出てくれば、いきなりテンションMAXの田島に掴まって(田島はいつでもテンション高いけど、あの日は特に酷かった気がする)再び悪夢を見るはめになった。現役野球部のやつが酒を飲む、というのは流石にまずいという事で、まずはカラオケ、そしてゲーセン。で、カラオケ、ゲーセン、カラオケ、ゲー・・・。
無限とも思われるループの後、かろうじて財布の中が空っぽになる前に帰れたのは、もはや奇跡としか言いようが無いだろう。もっとも、財布の前に、俺の体力が底をつきそうだたけどな。まぁ、予想より早く帰れた理由は、田島が寮に住んでたって事で。つまりは、門限を守る為(さすがの田島もこれだけは忘れる事は無いらしい)日付の変わる前に、俺を解放してくれたって事らしい。

「・・・・・・おい、花井。」

今思えば、あの授業の時の阿部が妙に優しかったのは、こういう風になる事を、全部判ってたからじゃないだろうか。と俺は睨んでいる。いや、きっとそうに違いない。翌日に田島と二人して見舞いにも来てくれたけど、あれだって、よくよく考えれば随分と阿部らしくない行動だ。この垂れ眼があんなに親切だなんて、ちょっぴりおかしいと思ったんだよな。だが、問い質したところで答えてくれる保証は無かったし、第一に、過ぎた事をほじくり返すのは俺らしくない。

「ったく・・・」
苛立たしげに呟いたのは、もちろん阿部だろう。なんとなくだが、俺にはその言葉の中に焦りの様な物が含まれている気がした。そんな阿部は、ひどく珍しい、というか初めての様な気もする。まだ回転の鈍い頭で、何か尋ねた方が良いのか迷っていると、阿部の方が先に口を開いた。

「悪りぃ、花井・・・」

「は・・・・・・?」

「・・・・・・」

「・・・・・・あ、べ?」

―――なんだなんだなんだなんだ!?今、コイツ何て言った!?ひょっとして謝ったのか、謝ったんですか!?この貴サマ俺サマ阿部サマが!?(いや、それは確かに言い過ぎかも知れないけれど。)

とりあえず、俺の頭の中はそんなとこだった。しかし、あまりに驚きすぎて言葉が出てこない。本当にびっくりした時は、何のリアクションもとれないというが、まさにそれだ。結局、滅多に無い珍事に俺が唯一出来たのは、「思い切り目を見開いて阿部を見る」というごく当たり前の事だけだった。

「なんだよ・・・」

明らかに憮然としたヤツの顔の中で、ほんのりと耳の端が赤いのが、似合わなくてちょっと不気味だ。だが、どんなに不機嫌な目で見られても、一度限界まで開いた目蓋ってヤツはなかなか閉じる事が出来ないらしい。いや阿部じゃなくても、こんな風に見られたら誰だって面白くないだろうな。

でもな、判っちゃいるけど、やめられない。

「いや、あの、その・・・」
「はぁ?」
「いや、それ、これ・・・」
「なに、わけ判んねぇ事ばっか言ってんだよ」
「まぁ、えっと、別に・・・」
「言いたい事あるなら、さっさと言えよ!」

いい加減焦れたらしい阿部の口調が、聞き慣れた乱雑さに変わる。ところが、自分でも驚いた事に、俺はその口調を聞いて不思議に安心してしまった。

―――え、安心・・・って何ですか?

「・・・・・・俺、マズイかも・・・」
「はぁ?」

なんだか己の不幸体質に、拍車をかけそうな事実に気がついて、俺はおののいていた。頼む、誰か嘘だと言ってくれ!素直な阿部が気持ち悪くて、俺様の阿部に安心するって、これってどうよ!?



「花っ井―っ!あ、阿部もいるっ!!」

だが世の中には、焦る俺と、不機嫌な阿部の顔色に全く気がつかないヤツもいる。

突き抜けそうに脳天気な声で、ラッキーと叫んで飛び込んできたのは、今更説明する必要もないだろう。この声を聞いた途端に、「今度はどんな問題を持ち込んでくるのか」と俺は内心うっそりした思いでいっぱいだ。こいつこそ俺の先週の運を、全て使い果たさせてくれた張本人。

「・・・クソが」

阿部が仏頂面で呟くのが聞こえる。ああ、胃が痛い・・・。それでもこの場で話の口火を切るのは俺の役目と決まっているらしい。全く相手にする気のない阿部の事は、賢明にも放っておいて、水谷は得意満面の顔をこっちへと向けているからだ。

「水谷、今日は何の話だよ・・・」

変な焦りは消えた。阿部の仏頂面も俺から水谷に針路変更。ああ、でも神様神様。俺が何をしたというのでしょうか?先週に続いて今週までも、このパターンだなんて勘弁して下さい。



□□□



ジャンジャカジャーン!景気の良いかけ声と共に、水谷が鞄に突っ込んでいた手を突き出した。派手な彩色の紙片が数枚、持ち主の手の動きに合わせて、ぴらぴらと踊っている。
「どう、これ?バイト先でもらったんだけどさぁ」
「・・・・・・」

―――おい、阿部。お前、今無言で視線を外したろ・・・。

「あ、ああ。なんだよ。何かのチケットか?」
阿部が一言も発する気が無いようなので、俺が尋ねると、水谷は満面の笑みで頷いた。

「聞いて驚け!今年の夏にオープン予定の、某アトラクションの先行お試し券だーっ!」

「マジで!?」
水谷が告げたアトラクションの名前に、俺は本気で驚いた。それは雑誌やテレビの情報番組で、最近頻繁に取り上げられているヤツだったからだ。本当なら是非ともお試しさせて頂きたい。しかも休園日に貸し切りで行われるイベントらしいので、他のアトラクションも乗り放題の遊び放題。金策に乏しい学生の身分には、うってつけの招待状だ。

「・・・・・・あ、そう」
だがしかし、予想通りと言おうか、阿部の反応はあくまで冷淡だった。
「えー、阿部は行ってみたくないの?」
「興味無いね」
「花井はどうする?」
「お、俺は行ってみたいんだけど・・・」
「うん、じゃ花井に一枚あげるよ。あ、そうだ、誰か他に誘いたい子とかいるんなら、もう一枚渡すけど」

そう言われて、俺は伸ばしかけた手をはたと止めた。確かに一人で行くのは寂しすぎる・・・っていうか、いくらお試し日とはいえ、男一人で遊園地を回る姿は想像したく無かった。誰か喜びそうなヤツは・・・、と考えていると、ふいに阿部が横から手を伸ばした。

「これ、まだ何枚もあるのか?」

水谷の手元から、ぴっと招待状を奪うと。さっきまでの態度が嘘のように、真剣な表情で見つめている。

「あ、う、うん。あるけど・・・。なんだよ、阿部もやっぱり興味あるんじゃん!」
「俺じゃねぇよ」
「え・・・・・・?」
「阿部が行かないなら、誰が・・・」
との水谷の問いかけに「俺の知り合い」とだけ、あっさりした答えが返ってくる。

「じゃ、そいつの分と俺の分と2枚もらうから」
「はぁ!?阿部、興味ないんじゃなかったのかよ!」
あまりの態度豹変ぶりに、俺が思わず声をあげると。



「気が変わった」



―――・・・ああ、そうですか・・・。







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