【Don't cry baby】・17







「は?」

「お、オレの名前・・・、覚えてたんだ・・・」
「ああ、その事か」
あの出会いは結構インパクトあったからな。しかもたった3日前のことだから、忘れようにも忘れられる訳がない。だが、ゆるゆると目を合わせてきたミハシは、俺を何か、初めて見る生き物の様に眺めていた。
「うん・・・。覚え、て、くれてたんだ・・・」
「ああ、ミハシって言うんだよな」

どんな字を書くかまでは判んねぇけど。と言うと。ミハシは「三、に橋、って書くんだ、よ」と手のひらに字を書いて教えてくれる。

「そっか、教えてくれて、サンキュな」
「う、うん。それで・・・あの・・・」
軽く礼を言うと、それでもまだ何が足りないのか、三橋はきょどきょどとした目を向けてきた。

「なんだ?まだ、何かあったか?」

「あ、あの・・・、き、君の、な、まえ・・・」

「あ・・・」

言われて俺も気がついた。そういえば三橋の名前は聞いていたけれど、自分の名前は教えていなかったっけ。態とではないといえ、随分失礼な事をしちまったもんだよな。我ながら、ちょっと恥ずかしい。

「わり。俺の名前は『阿部隆也』っていうんだけど」

「あべた、か、や?」

ひどく、たどたどしい口調で俺の名前が反復された。

―――おいおいおいおい。今なんか、すごく妙な所で区切られた気がすっぞ・・・。

俺の名前は、断じて「アベタ・カ・ヤ」なんてファンタジーな呼び方はしない。っていうか、そんな場所で区切らないだろう、普通は・・・。普通は、な。小首を傾げながら、何度もオレの名前を反復する姿に焦りが募る。

「阿部が名字で、隆也が名前なんだけど・・・」

「う、うん。判った!オレも、覚えた、よ!」

でも、どうやら俺の心配は杞憂に終わったらしい。




阿部くん、でいいんだよね。と言って、三橋はにこりと笑った。






□□□




見上げれば、夜空に、ぼつぼつと白い星が散らばっている。

オレは今、公園のブランコに座っていた。

身体を揺らすと、金属の軋む音がする。膝の上には、まだ暖かさを残したタコ焼きの箱。蒸気でつぶれかけた蓋を開いて、手を合わせる。

「い、いただきます」

隣では『阿部くん』が、冷めかけたタコ焼きを頬張っていた。



【三橋廉+阿部隆也】




どうしてオレ達がこんな風に並んでタコ焼きを頬張っているか、を説明するのは難しくない。

まず、修ちゃんに連れてこられた新しい部屋で、オレは、あれから丸二日間を過ごしていた。初日の朝ご飯は修ちゃんが用意してくれたけど、後は自分で適当に冷蔵庫の中の物を食べていた。新しい生活になかなか馴染めないオレを気遣ってか、冷蔵庫の中にはそれなりに食料が用意されていたのにも助けられた。不器用なオレを見越してか、修ちゃんが用意した殆どの物は、調理済みか、そのままで食べれるような物ばかりだったし。
でも、そのままずっと部屋の中に閉じこもっている訳にもいられない。お腹も空くし、生活に必要な物もまだまだ揃えなくてはいけない。大概の物は揃えてくれていたから、そんなに必要なかったけど。それに、なによりも、オレは一人で生活する事に慣れなくちゃいけないんだ。



オレは渡された財布を片手に、夕暮れ時の街に出た。





とりあえず駅までの道を辿ってみる。駅前の商店街は賑わっている割に規模は大きくない。オレと同じ位の年齢と思える人が多く見えた。そういえば、この近くに大学があるって説明された気がする。みんな楽しそうに笑ったり、喋ったりしているけれど、誰もオレの事は振り返らない。当たり前の事だけど、改めて、一人になったのだと知らされる様で、オレの頭は自然と俯き加減になった。

―――早く、部屋に帰りたい、な。

どうせ部屋に戻っても一人だけど、それでも誰もいない分だけ落ち着ける様な気がする。
足早に賑やかな通りから離れようとしたオレの鼻に、何かが焼ける匂いが漂ってきた。途端に、腹がぐうと鳴る。そういえば、随分長い間歩き回っていたけれど、そろそろ夕飯の時間なんだ。
「あ、食べ物、買って帰らない、と・・・」
匂いの源を辿っていくと、通りの一番端の辺りで数人の人が並んでいる場所があった。簡単な作りの小さな小屋には、赤い暖簾が下がっている。店先ではじゅうじゅう音がして、ピンポン球みたいな形のキツネ色の物が皿に盛られている。

―――お、美味しそう・・・かも。

芳ばしい香りに唾を飲んで、オレは引き寄せられるようにふらふらと列に並んだ。その後、思ったよりも安価な値段が店頭に明示されているのも後押しして、オレはそれを5箱買って家に帰る事にした。






散々訓練したけれど、オレには苦手な事があった。何かと言えば、それは道を覚える事だ。これだけは何回やっても、なかなか上手く覚える事が出来ない。そして今日も、やはりというか当然とういうか、オレは初日の帰り道で、早くも迷い始めていた。

「えっと、ここ、を右、に曲がったよ、な・・・」
すっかり日が落ちてしまった住宅街は、昼間と全く違う顔を見せている。時折、暖かい光の灯る窓辺から談笑する声が聞こえるけれど、真っ暗な道には街灯の白い光がまばらに落ちているだけだった。手にぶら下げたタコ焼きの袋が、ずっしりと重い。お腹も空いてきたけれど、部屋に辿り着くには、まだまだ時間がかかりそうだった。

―――修ちゃんに・・・で、電話しよう、かな・・・。

ポケットに入れた携帯に手が伸びる。だが、寸前でオレはその手を止めた。こんな下らない事で修ちゃんに電話をする訳にはいかない。一人で生活しろって言われたじゃないか。道に迷った位で泣きついていたら、この先どうなるか判ったもんじゃない。

―――それに、こんな事で電話した、ら、きっと、呆れる・・・よね。

のろのろと手を戻すと、オレは重たい袋をぶら下げて再び道を歩き始めた。そのまま少し歩くと、この通りに入って久しぶりに人とすれ違った。ふと見れば、その人の来た方向にコンビニの灯りが見える。そこだけ昼間の様に白い光。

―――道、聞けるか、な・・・。

あそこまで行けば、なんとかなる気がする。足がほんの少しだけ軽くなった気がした。



□□□



「ど、どうしよう・・・」
迷っている間にも、オレの目の前で、透明な自動ドアは開いたり閉じたりを繰り返している。明るい店内には、様々な物が丁寧に陳列されていて。住宅街の静けさが嘘の様に、人で賑わっている。カウンターで接客をしている店員も、誰もが忙しそうに見えた。
その慌ただしい雰囲気を眺めていると、道を尋ねようと思っていた気持ちが、みるみる萎んでゆくような気がする。迷惑そうな顔をされるかもしれない。第一、子供でもないのに道に迷ったなんて(しかも自分の家が判らない)等、信じてもらえるのだろうか?店の前でうろうろするオレを、すれ違う人が時折、不審気な目で見るのも堪らない。

―――や、やっぱり、自分で探そう・・・。

幸い食料は手に持っている。初夏の夜は暖かくはないけれど、一晩を戸外で過ごしても凍え死ぬ心配もない。諦めて店に背を向けた時、誰かがオレの名前を呼んだ。


「ミハシっ!」


「え・・・・・・」

―――誰?





修ちゃんじゃない、織田くんでもない。でも他の誰が、こんな場所でオレの名前を知っている?
驚きのあまり反射的に振り返ってしまった視界に、一昨日出会った彼がコンビニの袋をぶら下げて立っていた。






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