【Don't cry baby】・11




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【阿部隆也+三橋廉】



抜け道だけあって、暗いながらも駅までは10分もかからなかった。路地の終点からは、この時間でもまだ喧噪に満ちた大通りが見える。駅は、その通りを挟んだすぐ向こう側だ。

「ここまでくれば、大丈夫か?」
振り返りながら尋ねると、淡い色の髪がぴょこぴょこと上下に揺れた。さっきも感じた事だけど、細い首の上で揺れるフワフワの頭は、妙に笑いを誘う。思わず歪みそうになる口元を必死で堪えると、自分の眉根に変な風に皺が寄ったのが判った。

「・・・う、ぐっ」
「はぁ!ああああっ!ご、ご、ごめんなさい!!」
だが飲み込みきれなかった笑いが、奇妙な音になって漏れたのをコイツは誤解したらしい。頭の揺れがより一層大きくなって、ただでさえデカい目も更に大きく見開かれる。乾いたはずの涙さえ、うっすらと浮かんでいる様子を見てしまえば、俺ももう限界だった。

「ぶっ、くっ!あっははははっ!!ずげぇ顔!!」

「・・・・・・えっ?」

呆然と俺を見ている顔の中で、口は閉じる事を忘れたみたいにぱっかりと開いている。今時、こんな顔するヤツを初めて見た。まるで子供みたいに無防備な顔。不安気に揺れる瞳が、何故笑われるのかが判らない、と訴えていた。

「くくっ、お前、面白過ぎ!」
「へっ・・・・・・」

はっきり言って、今日一日で一番愉快な瞬間だった。水谷に誘われたつまらない合コンの憂さなんかも、あっという間に何処かへ飛んでいってしまう位に、すばらしく面白い。

「わ、笑う、なっ!」

「・・・くくっ、わ、悪ぃ。つ、つい。・・・ぶっ!」

笑うな。と怒る顔がまたおかしくて、俺の腹筋は痙攣寸前の勢いで震えていた。こんなに笑ったのは久しぶりだと告げて、手の甲で滲んだ目尻を擦ると。殊更に憮然とした顔が向けられる。

「な、にが、そんなに、おかしいっ!?」
「いや。何がって。言われても・・・」
全部だ、全部。言えるモノなら言ってやりたいが、そういう訳にもいかないだろう。そんな事をすれば、コイツは更に怒る・・・。いや、泣くかもしれないし、それはあまり嬉しくない。
とりあえず、これ以上怒られるのも泣かれるのも不本意だったので、俺は話の方向を変えてみる事にした。

「そういやさ、お前、名前なんて言うんだよ?」
「な、まえ・・・?」
「それ位、聞いてもかまわないだろ?」
もう、二度と会う事はないかもしれないけれど、今夜のこの出会いは偶然でもすごく愉快だったから。酒が抜けきっていない勢いも手伝って、何の気無しに俺は尋ねた。まぁ、相手は男だしナンパに間違えられる事も無いだろう。位の軽い気持ちもあった。

「・・・・・・」

「おい?」
突然黙り込んだ相手に、俺は何か変な事を尋ねたのかと首をかしげたが。こいつは困った様な笑いを浮かべて頭を振った。

「・・・ない」

「はぁ?」
「い、えない、んだ・・・」
何だそりゃ?訳が判らねぇよ。自分の名前を言えないなんて、お前は記憶喪失か!と、飛び出しかけた雑な言葉達を飲み込んだ。「名前が言えない」と言ったコイツの顔が、あまりに真剣だったからだ。そして、ふと思いついた疑問を口に出す。

「お前、そんなに・・・・・・変わった名前なのか?」

言いたくない位に、変わった名前なのかもしれない。うん、そうだ。きっとそうに違いない!
俺だって、昨今はやりのジェームスとかロバートとか、珍妙な漢字の当てられた名前が自分の物だったら、初対面ではちょっと言い難い。つーか、恥ずかしい。本当にそんな名前の人達には悪いけど、俺は自分の名前に常識的な字と読みを与えてくれた両親に心から感謝している。

「うおっ!そ、そんな事は、な、いっ!」

俺の質問に、耳まで真っ赤に染める必死さで反論が返ってきた。何も、そんなに必死にならなくても。と思わずにいられない位に一生懸命な顔。いや、マジでこいつの顔は俺のツボに嵌るな、酒の所為もあると思うけど。そうして俺は、またしても腹を抱えて蹲るハメになった。

「ぶぶっ!」

「み、三橋、だっ!」

「は、はは、・・・あ?」
「だから、三橋っ!」
「ミハシ?」
「そう、お、オレの名前っ!」
「お前の名前・・・」

耳まで真っ赤になって、握りしめた拳も震えて。たかが自分の名前を言う位で、こんな顔するなよ子供じゃあるまいし。お前の名前、もう覚えたから。無理矢理に噛み殺した笑いと、「ミハシ」という名前を頭の中で反芻する。

「うう・・・・・・」

「判った、判ったから、もうそんな顔すんなって。ほら、行くぞ」

唸りながら俺を睨め付けるふわふわ頭をぽんと叩いて。駅はもう目の前だ。



しかし路地から大通りへ一歩踏み出した俺は、ふいに、今まですぐ側にあった気配が消えたのに気がついた。

「ミハシ・・・?」
振り返れば路地の暗がりの中、つまりさっきまで俺達がいた所に、ミハシはまだ突っ立っている。
「あ、あ・・・」
「何?」
「あ、あり、がとうっ!」
今度は俺の疑問に答える事なく、明るい色の髪が大きな礼をした。勢いよく持ち上げられた頭の上でふわふわと揺れる髪に、居酒屋の派手な照明が反射する。

「へ・・・?ありがとう、って?」
その「ありがとう」は駅まで送った事に対する礼なのか?それにしては、じりじりと後ずさりする姿はおかしいだろう。一方的な礼だけ述べると、ミハシの身体はもう、路地の闇に半分くらい溶けかけている。

「おい!待てよ!」
俺が声をかけるのより少しだけ早く、ミハシは踵を返して走り出していた。後に残された俺は、呆気にとられて見送ることしか出来ない。

「待て・・・て・・・」
華奢な後ろ姿は、あっという間に見えなくなった。予想外の展開に、追いかける暇なんてなかった。
ああ、でもミハシのやつあんなびしょ濡れの服のままじゃ、風邪ひくぞ。あの調子でちゃんと家に帰れるのか?また、道にでも迷うんじゃねぇだろうな。取り留めのない事ばかり浮かんできたが、本人がいないんだから意味が無い。

結局、俺は一人で改札を通り電車に乗った。

「・・・なんだよ、あいつ」

電車が動き出しても、俺の思考はまだミハシの上を彷徨っていた。
駅使うんじゃなかったのかよ・・・。それとも使うつもりはなかったのに、俺が強引過ぎて言い出せなかったのか?真相はどちらか分からなかったけど、どちらでもかまわないのかもしれない。

―――俺とミハシが再び出会う確率なんて、0に等しいのだから。

電車の出発を知らせるベルが鳴る。動き出した視界の中で、街灯が歪んで流れていった。

―――もう、会う事はない。

この時の俺は、確かにそう思っていた。








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