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昼間はまだ暑いけど、夜は涼しい。いつの間にか暗くなった窓の外に違和感を覚えるようになったら、夏も終わっていたらしい。

「終わっていたらしい、なんて、すごく曖昧な表現」
「曖昧で悪いか。気がついたらそうなってたんだよ」
「いや別に。すごく阿部らしいよ」

俺らしいって何だよ。そっちの方が余程曖昧な表現なんじゃないか。言いたくなるような答えを返してきた水谷は、学食のテーブルの上で買ってきたばかりのスポーツ新聞をめくっていた。
ばらりと大きな紙面が捲られて、雑然とした記事の中で見慣れた名前が鮮やかに踊っている。

「三橋、また勝ったんだね」
「ああ・・・・・・そうみたいだな」
「そうみたいだな、って。阿部、三橋と連絡とってるんでしょ?」

はしゃぐような調子に乗っかる気にはなれなかった。たったそれだけの事だ。それにしても、(俺の気のせいで無ければ)若干批難するような口調が、水谷にしては珍しいとも感じた。

「そんなに、何でもかんでもいちいち連絡すっかよ。いい年こいて」

そんなものかな。と小首を傾げる仕草が態とらしくて、今度はちょっとムカついた。そんなもんだよ。と自分でも分かるほどぶっきらぼうに返すと、はぁと溜め息が聞こえる。

「文句あんの?」
「・・・・・・ないです」

ふつりと湧いた苛立ちに即座に反応する。昔は随分鈍感だと思っていたけれど、人間は学習するものらしい――それとも、元からそうだったのに俺が気付いていないだけだったのか。
ふいに思い浮かんだ考えを馬鹿馬鹿しいと振り捨てると、どこか名残惜しそうに新聞をたたんだ水谷が「よっこらしょ」立ち上がった。

「今日は、もう授業終わりか?」
「うん。阿部こそまだ授業残ってるの?」
「別に・・・・・・」

飲みかけのコーヒーはすっかり温くなっていた。すっかり飲む気も失せた物をトレイに回収すると俺も立ち上がる。ゼミの課題がまだ少し残っていた事を思い出したからだ。
図書館に寄ってから帰ると水谷に伝えると、旧友の顔に何か言いたげな表情が掠めた。
面倒くさい。
問いかけるのも、答えるのも。
水谷が何を言いたくて、俺がどんな答えを返さなきゃならないか(実際にそんな義務はないけれど)分かっている。でも、今は煩わされたくなかった。余分な事など考えたくもなかった。


(――せっかく、うまくいっているのに。)


口にださなかったのは(いや、だせなかったのか?)、それが俺だけの錯覚だなんて、確認したくなかったからだ。





□□□





事の起こりは、先週の週末に、三橋と飲みに行った事だ。

最近は結構な頻度でメールの遣り取りをしている所為もあって、再会した時みたいな妙な緊張感はほとんど無い。高校時代と同じように、とまではさすがに無理だけど、今ではそれなりに心地よい空気感みたいな物ができはじめていた。

酒を飲みながら他愛の無い話をする。俺の学校の事、三橋のチームの事、共通する話題が殆ど無い所為で底の浅い会話になっているのは分かっていたが、それでも良かった。
同じ空間で、三橋と向き合っている事が出来る。微笑む三橋の顔を見ていると、一度手放した事が嘘みたいにさえ思えていた。
それなのに、と思い出しただけで苛立ちが湧く。

二人で会話している時に急に声を掛けてきた女がいた。何処かで聞いたような声に名前を呼ばれ、振り返れば同じゼミをとっているヤツだった。顔と名前は一致する、それくらいの関係だ。どうやら彼女は友達と何人かで飲みに来ていたらしい。
自分としては全く嬉しくない偶然に、早く話しを終わらせようと簡単な紹介だけで追い返そうとした――が、気づかれてしまった。

『もしかして、――野球やってる人?』

好奇心と女らしい欲にちらつく視線が三橋に向けられている。口を挟む間もなく、どんどん投げつけられる質問に三橋が狼狽える。はしゃいだ調子の彼女がその事を気にする様子は全くなかった。

『――おい。悪いんだけど、』

時折こちらに向けられる視線が、必死で助けを求めていた。


『こいつ今オフなんだからほっといてくんない?』


だから気づいたら、自分でも不機嫌丸わかりの口調で追い払っていた。若干怯えたように立ち去る女よりも、その細い背中を見送っている三橋の表情の方が気になった。三橋、と呼びかけたつもりの声は実際には音にならなかった。




淡色の瞳の奥に、見たこともない暗い影が揺らめいている。
訳もなく胸を抉られるような痛みが走ったが、自分でも驚いた事にそれは微かな甘さを纏っていた。
ああ、と漏れそうになった溜め息を堪える。
この痛みには、確かに覚えがあった。

「悪かったな、俺もこんな場所で知り合いに会うなんて思わなかったから」
「だ、大丈夫。ちょっと驚いた、だけだ、から」
「そうか・・・・・・」
「阿部くん、が・・・・・・」
「ん?」
「篠岡さん、以外の女の子と話してる、のって初めて見た気、する」
「んなわけねぇだろ・・・・・・」
「それとも、お前の認識している女子は篠岡だけなのかよ・・・・・・」

唐突に出された名前に面食らいながらも、言われて浮かんだのは高校時代の篠岡の顔だった。化粧っけもなく薄く汗ばんだ顔。ベンチでスコアを付けている小さな背中。そばかすと日に焼けた細い腕。卒業してから何度か野球部の連中と集まったけれど、化粧をしてすっかり普通の女子大生みたいになった彼女の顔は、何故か印象が薄かった。

「そんなこと、ないけ、ど」
「まぁ、今んとこ付き合ってる女はいないけどな」
「でも、さっきの人、なか良さそうだった、よ」
「別に、――ただの知り合い」

そんな事気にしてんのか、と笑い飛ばそうとしたのに俺は失敗した。俯き加減だった三橋の顔が瞬間、此方に向けられたからだ。射るような視線と混じる暗い影は先ほどよりも色が濃い。

そして、ふいに、思い出した。
今の三橋の表情には覚えがある。高校時代、野球でもプライベートでも、どうしようもなく不安な時にする顔だ。どうしようもなく不安で、でもそれを、簡単に口に出す事が出来ない時に、よくこんな顔をしていた。人一倍独占欲が強いくせに、そうと気がついていないのは本人くらいだ。
押し込めていた筈の記憶が滲み出すと、推測は確証に変わってゆく。


何故。
どうして。
そんな顔をする?



疑問は怖しくて口に出せなかった。本当は問いただしたくて堪らないのに、聞いてはいけないと思った。そんな資格、今の俺には無い。
腹の底で膨れ上がる感情を抑えつけていると、喉が渇いて仕方なかった。


「ほら、飲み直すぞ。もう少しなら時間あるだろ?」

三橋の返事を確認する前に店員を呼び止めた。途切れそうになる会話を繋ぎ止めるため、手の中から抜け落ちそうになる時間を留めるために酒を煽る。視界の隅で三橋の手がのろのろと自分のジョッキを持ち上げるのが見えた。その唇が微かに動く。
どうした?と尋ねると、三橋は緩く頭を振った。

「何でもないよ、大丈夫」
「――本当に、何でもないんだな?」
「う、うん」
「三橋?」
「大丈夫、だよ」

真っ直ぐに向けられない視線に、重なる記憶があった。
まだ俺達が出会って間もない頃。お互いを理解出来ず、手を差し伸べる術さえ知らなかった頃。
なんで今更その記憶が刺激されるのか――でも、苛立ちは長くは続かなかった。

見ないふりをしている自覚はあった。そして、それは三橋も同じだと俺は勝手に思いこんでいた。
途切れていた時間には指一本も触れず、今の居心地の良さに甘えるようにして、それでうまくいくはずなんてなかったのに。
俺はまた同じ事を繰り返そうとしているのだろうか。

問いかけるべき相手は目の前にいるのに、その言葉が出てこない。
自分の弱さを自覚しているだけで、結局俺は高校時代と少しも変わってはいなかった。






□□□






何かがおかしい、と感じたのは、幾度かの他愛無いメールを繰り返した後だった。短い文字の繋がりの中に感じた違和感は、穏やかな水面をざわめかせる小石のようだ。
始めは、水谷にあんな事を言われた所為だとも思ったが――あの日の会話は棘のように抜けなかった――焦燥感に駆られた俺は、何時になく長いメールを作成する為に小さな画面と格闘していた。

『明日の夜、メシ喰いにいかないか?』

時間をかけて打っては消し、打っては消して。挙げ句の果てに、最後に送ったメールはいつも通りの短さだった。

「馬鹿みてぇ・・・・・・」

メールが飛んでいった事を表す奇妙なキャラクターは、張り付いた笑顔を見せると徐々に小さくなった。こんな芸の細かさを搭載するくらいなら、今の気持を丸ごと伝えるメールのマニュアル一つも載せてくれ。ぼやきは聞かせる相手がいないからこそ、簡単にこぼれ落ちる。

「――情けねぇ」

誰に指摘されなくても、そんな事自分が一番良く分かっていた。どんなに見ない振りをしていても、現実は容赦が無い。「・・・三橋」今、あいつはどんな表情で俺のメールを見ているんだろう。じわりと滲む不安は、返事を待つ携帯から広がって徐々に全身へ浸透していくようだった。しかし、予想に反して五分と待たないうちに掌の中の機械が震えた。


『大丈夫。待ち合わせは何処?』


ぼんやりと光っている画面に目を走らせると、いつも通りの短い返答が並んでいた。ふ、と無意識に漏れた息で、軽く強張っていた身体が弛む。だが、急な誘いを了承された事に安堵するよりも――薄々感じていた違和感は一層強くなった。

「お前、明後日は試合なんじゃないのかよ・・・・・・」

ローテーションと前回の登板からの間隔で計算すれば、三橋の先発は明後日だった。いや、ひょっとしたら明日かもしれない。そんな時期の呼び出しに、簡単に応じるような奴じゃなかっただろ、お前は。

「――俺、だからなのか?」

これは、自惚れなのだろうか。相手が俺じゃなかったら、三橋はこんな無茶はしない。だが、そう思いこみたいのは自分だけで、実際三橋にとってはたいした事でないのかもしれない。なにせ、アイツはもうプロだ。俺が心配する必要なんて無いんだ。
考えれば考えるほど、俺は訳が分からなくなっていた。
止め処なく湧いてくる不安も違和感も、これは全て錯覚なのか。



答えは、三橋が持っている。











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