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卒業以来初めて二人だけで会った日から、オレ達はまたぽつぽつとメールを出すようになった。

今日はすごく調子が良くていっぱい投げてしまった。今日は何処の会社の説明会に行った。同じチームの先輩が怪我をして大変だった。水谷くん卒業に必要な単位が危ないらしい。昨日のドラマはちょっとおもしろかった。明日は久しぶりにバイトに行かなきゃいけない。面倒くさい。また飲みに行こう。

他愛の無い事ばかり、小さなボタンを押して綴っていく。途切れていた間の時間を埋めるように少しずつ少しずつ。
小さな電子の言葉が降り積もって、ゆっくりとオレ達の空白を埋めていって欲しい――そして、阿部くんも同じように考えてくれていればいい。
冷たい画面に額を押しつけてオレはそう祈った。

『おやすみなさい。』

送信。
微かに震える指先、今夜もささやかな手紙が夜空を飛んでいく。チカチカと小さな星みたいな灯りが瞬いて、メールを送り終わった後の画面が静かにブラックアウトした。

「おやすみなさい――阿部くん」

そんな風にして、連絡を取っていなかった時の事には一言も触れず、オレ達は取り留めのない近況ばかりを伝えあった。楽しかった事、嬉しかった事、ちょっと困った事。何気ないメールの繰り返しは、まるで高校時代に戻ったかのような甘い錯覚を起こさせる。

何かに目を背けている事に気がつかないままで。







何度目のメールの後だったのか、何回目の電話の後だったのか、阿部くんとオレはまたあの居酒屋にいた。阿部くんと再会して初めて二人で飲んだあの店だ。相変わらず賑やかな店内は、注意しないと会話がまともに進まない。
あの時以来、阿部くんは自分の分しかビールを頼まなくなった。だから、オレの前にはアルコールが薄すぎてジュースみたいなグレープフルーツサワー。半分も飲まないうちにすっかりぬるくなってしまっていた。

「――それでさ。来週――谷が」
「谷くん?」

千切れた会話の端をやっとの思いで捉まえると、あっさり首を横に振られた。

「谷?俺は水谷って言ったんだけど」
「水谷くん、が、どうした・・・・・・んだ?」
「ああ、あいつ今就活中でさ。来週に本命の試験なんだよ」

俺もそろそろ第一希望を決めないとな。と阿部くんはジョッキを煽った。そっか。と自然に口が動いた。

「あべ、くん。就職するん、だ・・・・・・」
「当たり前だろ?大学院まで行くつもりはないし、留学とかする予定も無いからな」

大学を卒業して特にやりたい事も無い。と纏めた言葉を聞きながらサワーを飲み下すと、さっきまでのあの甘ったるさが嘘みたいに苦い。思わず少しむせる。「大丈夫か?」阿部くんが身を乗り出して背中をさすってくれた。

「だ、だいじょうぶ」
「飲むんならゆっくり飲めよ。まだ時間はあるんだし」
「そうだ、ね・・・・・・」

優しい感触に答えながらも、ひどい違和感があった。
違和感――?
ざり、と砂が胸の内側で擦れるような奇妙な感触。それは『違和感』というよりも、もっともっと気持ちが悪い気がした。

「三橋?」

ああ、駄目だ。また心配させた。眉を顰めた阿部くんに笑って見せたけど、たいした効果は無かった。寧ろ不機嫌そうになって逆効果だ。

「お前、また何か――」

剣呑な目付きにじわりと汗が滲む。嫌じゃないとは思っていても怖いものは怖い。「うひっ」殆ど条件反射で身が竦んだ。
でも、テーブルの向こうから伸ばされた手がオレのこめかみに触れる、その寸前――




「阿部くん?阿部くんじゃない?」


「あ?――ああ」

振り返った阿部くんが、ごく自然にオレの知らない名前を口にした。
名前を呼ばれた子が嬉しそうに笑う。女の子らしい優しい色のワンピース、ひらひらした裾が金魚みたいな。すとんと真っ直ぐに落ちた栗色の髪が綺麗だな、と思った。「学校で同じゼミ。」阿部くんから短い紹介があって、オレもこくりと頷いた。

「ど、どうも・・・・・・」
「大学、の友達じゃないよね?」

高い声がして、唐突に彼女の顔が此方を向いた。声にあわせて人形みたいにカールした睫毛がぱたぱたと上下する。細い指先が口元にあてられて、淡いピンク色に塗られた唇が問いたげに薄く開く。その一連の動きがひどく人工的で、余計に人形と話しているように感じられた。

「――でも、彼、どっかで見た事ある気がするんだけど」
「え・・・・・・」

凝とした視線が居心地悪い。初対面だけど阿部くんの友達だし、何か言わなきゃと思うのに、自分でも意味不明な言葉しか出てこなかった。どうしよう。こんな時どう言えばいいんだろう。こっそり阿部くんの顔を盗み見ると、心なしか不機嫌そうな気がした。
どうして?なんで?思考回路は絡まるばかりだ。
そうこうしている内に、あ、という呟きが彼女の口から漏れた。

「もしかして、――野球やってる人!?」
「う、おっ!」
「やっぱり!そうだよね!」

一段と高くなった声に思わず狼狽えてしまう。この前テレビに出てなかった?阿部くんとよく会ってるの?矢継ぎ早に質問が飛んでくるけれど、そのどれもに上手く答えられなくて、オレはひたすら首を振るだけだ。
うん、はい。それでも必死に頷いていると、彼女の声とは対照的に低い唸り声が目の前の阿部くんから発せられた。



「――おい。悪いんだけど、こいつ今オフなんだからほっといてくんない?」





□□□





「悪かったな、俺もこんな場所で知り合いに会うなんて思わなかったから」

そそくさと自分のテーブルに帰って行く後ろ姿を見ながら、阿部くんが深い溜め息をつく。

「だ、大丈夫。ちょっと驚いた、だけだ、から」
「そうか・・・・・・」

一瞬会話が途切れて、オレは自分の手元を見つめていた。手触りの悪そうなざらざらとした指先も、爪だけはきちんと揃っている。
ふいに、さっきの彼女の指先を思い出した。
唇と同じ色に淡く染められた爪は、宝物みたいにきらきらと輝いていた。

「阿部くん、が・・・・・・」
「ん?」
「篠岡さん、以外の女の子と話してる、のって初めて見た気、する」
「んなわけねぇだろ・・・・・・」

阿部くんから、はぁ、と呆れたような声が上がった。

「それとも、お前の認識している女子は篠岡だけなのかよ・・・・・・」
「そんなこと、ないけ、ど」
「まぁ、今んとこ付き合ってる女はいないけどな」
「でも、さっきの人、なか良さそうだった、よ」
「別に、――ただの知り合い」

つまらなさそうに鼻を鳴らすと、阿部くんはジョッキに残っていたビールを空にした。そしてそのまま、タイミング良く通りかかった店員にお変わりを注文すると、

「ほら、飲み直すぞ。もう少しなら時間あるだろ?」
「う、ん」

オレも促されるままにジョッキを持ち上げたけど、一気に煽るには多すぎた。仕方なく一口だけ飲み込むと、それとは入れ違いに込み上げてくる言葉があった。


「本当に、時間・・・・・・あるのかな」


阿部くんと同じ大学に通っているという彼女は、オレの想像していたする『阿部くんの彼女』とあまりにかけ離れていた。華やかだけど人工的で、野球の匂いなんて少しも感じられない。
でも、それが今の阿部くんの現実なんだ。
再会して、また前みたいに連絡をとって、嬉しくて。でも、こんな風に向かい合って飲んだりしている間にも、オレ達の距離はどんどん離れてるんじゃないだろうか。

「ん、何?なんか言った?」

無意識にこぼれ落ちた呟きは、喧噪に紛れて阿部くんには届かない。その事に何故か安堵した。
聞き返してくる阿部くんの両目を見ながら、オレは静かに息を吐く。

「何でもないよ、大丈夫」

今度は自分でも上手く笑えている自信があった。阿部くんの眉間に寄っていた皺がふっと解けて、僅かに浮かんでいた疑問が消えていく。

「本当に何でもないんだな?」
「う、うん」

不機嫌というよりも気遣わしげな表情に、さっき感じた奇妙な感覚がまた一瞬強くなった。

「三橋?」
「大丈夫、だよ」

油断しちゃいけない。阿部くんは驚くほどオレの事を分かってくれている。だからほんの僅かでも気づかれちゃいけない。『分かってくれている』のが、嬉しい以外に、こんな切迫した感情を呼び起こすなんて思ってもみなかった。
だから、オレは今までで一番力を込めて頷いた。


「オレは、大丈夫だ、から」


阿部くんは、何も言わない。
オレも、黙って自分のジョッキに口を付けた。
甘い。苦い。甘い。苦い。変わるはずなんてないのに、喉の奥で目まぐるしく変化する味が気持ち悪い。無理矢理飲み下したアルコール分はいつまでも舌の上から消えようとはしなかった。



(この感覚を追求してはいけないんだ。そんな事をしたら高校時代の二の舞だ。)





□□□





うだるような暑さに、いつの間にか涼しい風が混じりだしていた。
プロ野球のシーズンもいよいよ大詰めに差し掛かっていて、ロッカールームの中にも張りつめた空気が漂っている。
それでも試合のある日はまだ良い。肩の張りだとか、抜けきれないだるさとかも、マウンドに立っている時間は忘れる事が出来るからだ。

『ピッチャー・・・・・・――三橋。』

コールされた名前が腹の底にゆっくりとたまっていく。
いつもと同じように球場を満たす熱気、喧噪、緊張感。綯い交ぜになった全てが、オレがボールを投げる為の力になるはずだ。じわりと掌に滲んだ汗をズボンの尻で擦ると、深く呼吸をする。

「・・・・・・投げなきゃ」

それが、今のオレにとっての全てなのだから。足下の土の感触を確認して、指先にかかる赤い縫い目をゆっくりと辿ると、ようやく心が落ち着いてきた。大丈夫、オレは投げられる。何回も繰り返した呟きがすうっと胸の中に消えた。

「オレは、投げなきゃ・・・・・・」

18.44メートル先にあるミットの中央に集中する。その距離が、何故だかいつもより遠く感じられて――気の所為だ。

『マウンドに立つ時、怖くはないですか?』

ふいに過去に受けたインタビューが頭を過ぎった。



「弱気、は、いけな、い」

恩師の言葉が蘇った。恐怖心に飲み込まれたら、負ける。

負けたくない。
負けたら、投げられなくなるから。

マスク越しに向けられる視線に頷いて

「大丈夫、オレ、投げられる、よ・・・・・・あ」

阿部くん。
オレは、あの頃みたいに彼の名前を呟いていた。



硬球を強く握りしめる。
指先がひどく冷えている気がした。













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