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『明日の夜、メシ喰いにいかないか?』



いつも通りの短い文面をぼんやりと見ながら、俺の指は反射的に返事を綴っていた。今までメールを打つのに四苦八苦していたのが嘘みたいに(短いけど)指が動く。何だっけ。そうだ、とふいに思い出す映像があった。何時かのテレビ番組で女子高生がどれだけ早くメールを打てるのか検証しているのを見た事があった。さらさらした茶色の髪を鬱陶しそうに掻き上げて、反対の手だけで薄いボタンを押している。
よどみなく、迷いなく動く指からは、オレには理解出来ない複雑怪奇な文面が生み出されていて。でも、その驚くべき速さよりも、少し伏せた睫毛の隙間から液晶を見つめる硝子玉みたいな眸の方が気になっていた。
きっと、今の自分もあんな眸をしているに違いない。
見ることは出来なくても、確信があった。阿部くんに言ったら、変な顔をされそうだな。と思ったところで思考が止まる。掌の画面を見てみると「送信しました」オレの返事と大差ないくらい素っ気ない文章が、ぽつりと浮かんでいた。




最近「おもしろいな」と思うことがある(「不思議」に似ている気もするけど)。
例えば、どんなにたくさんの人が流れていても、世の中にはそこだけ特別明るいライトが当たっているように見える人がいる。
それ自体は別に珍しい事でもないのかもしれない。華やかで自信に溢れていて、プロ野球の世界に飛び込んでから、そんな風に周囲の視線を惹き付ける人を、オレは何人も見てきた。
でも、すごく目立つ格好をしているわけでもない、大声を張り上げてもいない。
ただ、静かに其所にいるだけなのに、まっすぐ視界に飛び込んでくる。

「――あ」

オレにとって、それは――再会した、阿部くん、だけだった。


「阿部く、んっ」

は、と息を吐く。無意識に詰めていた呼吸が、栓が抜かれたみたいに流れ出す。新鮮な空気が肺に流れ込んできて、同時にじわりと汗が滲んだ。

「おお…」

待ち合わせの場所で、阿部くんは文庫本を片手に立っていた。どれくらい前から来ていたんだろう。半分を超える辺りで開かれた本は、何処かで見たことがあるような本屋のカバーをかけられている所為でタイトルを知ることさえ出来ない。けれども、なんとなく沸いた興味のままにオレが覗き込むより早く、阿部くんは読みかけのページに何かを挟み、手早く鞄にしまい込むと「じゃ、行くか」と短く告げた。

「―あ、う、うん…」

一瞬、反応が遅れたオレに、怪訝そうな視線が向けられる。何だ?と問いかけられるのになんでもないと答えると、阿部くんはそれ以上の追求はしてこなかった。


――何だろう……。


前を歩く背中を見ながら、オレは掌を握り込んでいた。
今までと「何か」が、違う。
口では上手く説明出来ないから、直感というのが一番近い。それは、すごく曖昧なくせにひどくもどかしくて。まるで、焦燥感を駆り立てるモヤモヤの固まりがふいに現れて、オレの頭の中を占拠したみたいだった。

「―おい、どうした?」

気付けば、数メートル先から阿部くんが振り返って此方を見ていた。慌てて駆け出そうとするオレを視線で押しとどめる彼はいつもと変わらない。慌てるなよ。置いていくわけないだろ。ぶっきらぼうな言葉と苦笑するような表情も、変わらなかった。

「う、うん……」

これは、俺が知っている阿部くんだ。何故だろう。それでも、おかしな気持は消えなかった。ゆっくりと自分に近づいていくオレを、阿部くんは静かな目で凝と見ている。
今、この瞬間、阿部くんは何を考えているんだろう。聞いたら答えてくれるんだろうか。

「あ、あの、阿部く…」
「今日は予約したわけじゃないんだけど、いつもの店でいいよな」
「あ……」

飲み込んだ言葉の続きは、結局、促して貰えなかった。







相変わらず騒々しい店内の片隅で、オレ達は向かい合っていた。簡単なパテーションで区切られた席は、ちょっとした個室みたいになっていて、あまり大きな声を出さなくても会話が出来る。こんな話しやすい席に案内されたのは初めてだった。そういえば、今日はいつもより早めに入店したからかな、とぼんやり考えていると、いつの間にか注文した料理が揃っていたらしい。お疲れ様。乾杯。簡単な掛け声の後冷えたグラスを軽く合わせると、キン、と硬質の音がした。

「なぁ、お前、さ……」
「な、に?」

冷たい液体が喉を滑り落ちる。舌の奥に残る苦味は相変わらず慣れない。唇の端を少し舐めてみたら、そこも同じように苦かった。苦い。と呟くと微かに笑う気配がする。でも、それはほんの一瞬で。阿部くんは――彼にしては珍しく――少し躊躇うように視線を彷徨わせた後

「試合とか、大丈夫なわけ?」

「…え?」
聞き難い事を尋ねたように、阿部くんの顎のラインが僅かに強張っていた。じわ、と滲んだのはビールの味じゃない。

「え……えと、試合?」
「お前、最近先発ローテに入ってんじゃないのか……?」

ああ。そう言われたら、そんな気もした。

「そ……だった、かな。いつ投げるかは、まだ聞いてない、けど…」

でも、明日か明後日か、はっきり告げられた訳じゃなかったから曖昧な返事になる。そんな事よりも、この質問の意図が掴めなくてオレは緩く首を傾げた。

「たぶん――だって?」

途端に、阿部くんの眉間に皺が寄る。

「だ、大丈夫だよ…」

ひょっとして何か彼の機嫌を損ねる事を言ってしまったんだろうか。険しい表情に、短いけど重苦しい沈黙。何か言われる前に言わないと。でも、焦ったところで上手い言い訳が思いつく筈もない。大丈夫だから、と繰り返したところで――強張りはまた強くなったみたいだった。
どうしよう。と思考をフル回転させている間に、はぁ、と深い溜め息が聞こえた。

「あ、べくん…?」
「先発のローテに入ってて、しかも、明日、試合かもしれない――それなのに、ここで、こんな風に、俺と酒とか飲んでいていいわけ?」

一瞬、何を言われているのかが分からなかった。はっきりと区切られた言葉が、頭の中でパズルのピースみたいに散らばっている。結局、ゆっくりと巡るオレの思考のスピードに合わせるように浮かんだのは、質問に対する答えなんかじゃなくて、ただの疑問系だった。

「さ、そったのは、阿部くんだ、よ……?」
「それでも、だよ!」
「え、あ……」

阿部くんを批難したつもりはこれっぽちも無かったのに。明らかに怒り(それとも軽蔑?)の色を浮かべた視眼差しに、言葉は塞き止められて出てこない。ひどく混乱したオレの唇からは掠れた音だけがこぼれ落ちた。

「…何で来るんだよ……」

でも、呆れたような、信じられない、という響きを纏った呟きが耳に届いた瞬間――オレの腹の底で押し込めていた『何か』が爆ぜた。


「…阿部くんは、そんな、こと言う為に、食事しようっていった、の?」

「………」

沈黙は肯定なんだろうか。分からないし、正直、分かりたくもなかった。それでも、唇だけが他人の物のように勝手に言葉を続けた。

「オレを、試した……の?」

違う、と小さく否定する声が聞こえた気もするけど、オレは咄嗟に何も聞こえなかったふりをした。彼の言う通り、確かに、そんなつもりは無かったのかもしれない。なんでそんな事を?当たり前みたいな疑問も湧いてきたけれど、今はどうでも良い。例え、どんな深い理由があったとしても――(阿部くんは、オレを、試した)――そうじゃないのか?
思いついた事をそのまま叩きつけることは出来なかったけど、飲み込んだ固まりは鳩尾の辺りで激しく渦巻いている。

「…三橋……」

何故か切羽詰まった声で呼ばれた気がしたけれど、オレは口を噤んだまま俯いた。

(――そんな声で呼ばれても、分からない、よ)

耳の奥で、嵐のような音が轟々と唸っていた。普段意識したことのないそれは、全身を駆け回る血液の流れだ。
目を瞑ると、一層強く近くに感じる。
その音から今、オレが感じているのは、煩いというよりも安堵の気持が強かった。
やけに大きく反響する『音』にかき消されて、阿部くんの言葉がよく聞こえない。(そう思いたい気分だった、だけかもしれないけど。)


「阿部くん…」


固く瞼を閉ざし、それからゆっくり、ゆっくりと開く。細く、息を吐く。海鳴り似た音は遠ざかり、人のざわめく声が聞こえてくる。徐々に明るくなる視界の中で、オレは彼の名前を呟いた。

「…冷めちゃった、ね…」
「………あ、ああ」

不思議なことに、憤りにも似た感情は一瞬で、後に残ったのはひどく空虚な感覚だけだった。視線を落とせば、何時の間に運ばれてきたのか、冷め切った手つかずの料理が並んでいる。のろのろと手近な一皿に箸を伸ばすと、適当に摘み上げたのを口に運ぶ。

「しょっぱい……」

舌の上にざらりとした感触。本当に、ひどく塩辛くて喉がやけに乾いた。







結局、あれから殆ど会話らしい会話もないままに、オレ達は店を出た。ちょうど誰か一人通れそうな間隔で歩いているからか、制服の学生、サラリーマン、連れだって歩く恋人達、色んな人がオレ達の間をすり抜けていく。どれくらいの人数が通り抜けていったのか、数える気はおきなかった。
このまま何も交わさないまま、オレ達はまた別れてしまうんだろうか。
無言のまま電車に乗り、家に帰り、布団に潜り込む一時間後の自分の姿が、容易に想像がついた。
見慣れた駅の名前を二人揃って見上げる時になって、阿部くんは何か言いたげな視線を向けてきた。『何?』オレも声を出さないまま唇で形を作る。まだ、腹がたっていたわけじゃない。たぶん、阿部くんが気にしているほどオレは気にしていないから。強がっているわけじゃなく、本心だった。でも阿部くんは(やっぱり)どこか固い表情のまま、質問を口にした。

「―門限は大丈夫なのかよ?」
「門限…?あ……」

そんな事?真剣な眼差しに対して、オレは軽く首を傾げた。そういえば、阿部くんには、まだ伝えてなかったんだっけ。

「オレ、この前寮を出たか、ら…いま、は、門限とか、無いんだ」
「は、あ…!?」

とんでもなく予想外の事を言われたらしい阿部くんは、顎を下に落として此方を凝視していた。なんで、そんなに驚くんだろう。驚かれたオレの方が途惑うくらいだった。

「教えてなかった……ごめん…」

とりあえず謝ってしまえ。そんなつもりでは無いけれど、言ってしまってからオレは反射的に身を竦めた。

(怒られ、る……?)

「いや、別に……」

だが、どうやら、いつもの阿部くんじゃなかったらしい。気にしていないと、答える彼の顔を横目で伺うと、耳から下のラインが強張って見えて(ああ、やっぱり)オレは謝罪を繰り返すのを止めた。不意に思い出した事があったからだ。

(けいたい、の時と同じだ――)

あの時は立場が逆だった。知らない内に変えられていた番号に、オレは自分勝手な寂しさを感じていた。阿部くんを責めることは出来ないと頭で理解しながらも、すごく苦しかった。

(今の阿部くんが、あの時のオレと同じと感じるのは自惚れなんだろうか。)

浮かんだ思考の都合の良さに自然と口の端が歪む。試すような事をされた後でさえ、オレの気持は阿部くんから離れようとしていない。自分でも馬鹿だと思う。でも、仕方の無いヤツと呆れられても、突き放されても、この感情は動かないんだと悟った切っ掛けは、あの時だったに違いない。

「あ、あの……阿部くん…」

また傷付くかもしれない、と思う。今度こそ、本当に修復不可能なくらい嫌われてしまうかもしれない、とも思った。
それでも、怒りよりも悲しみよりも、虚ろな心のまま阿部くんと向き合う方が、ずっと怖い。

「阿部く、ん……こ、今度は…」

呼びかけたオレの声に、阿部くんの視線がぎこちなく動く。それでも「なんだよ」と答えが返ってきた事に安堵しながら、一旦唾を飲み込んで。(考えてみたら、再会してからこんな事を自分から言うのは初めてだ。)オレは言葉を続けた。

阿部くんの眸が丸くなる。
ああ、すごく、驚いてるんだ。黒く光る硝子みたいな表面に、オレの顔が映っている。



なんだか、それが嬉しかった。












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