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玄関で靴を履きながら、オレはなんとなく後ろを振り返った。
財布、忘れて無い。携帯、もちゃんとある。この前阿部くんに笑われた髪型も、今日は鏡を見て撫でつけたから――たぶん、大丈夫。
柔らかいクセにクセの強い髪は、昔からオレの言うことを聞いてくれない。元々明るすぎる色の所為もあって、人混みでも良く目立っている、と教えてくれたのは阿部くんだった。

「・・・・・・困った、な」

無意識に呟きが零れる。
相変わらずオレの頭の中は、阿部くんでいっぱいだ。あんなに悩んで返事をしたのが嘘みたいに、今日の約束が待ち遠しくて堪らなかった。こんなに阿部くんの事ばかり考えていたら、本人を目の前に上手く話せるんだろうか。それでも、一瞬過ぎった不安、は、すぐに解消した。

――そんな、心配しなくても、上手く話せた記憶ない、よ。

情けない事に、事実なのだ。オレ達の会話は、阿部くんが話してオレが頷くのと、オレの拙い喋りを、阿部くんが辛抱強く聞いてくれるのと、の2パターンしかなかった気がする。ごくたまには『会話』の弾む事もあったけど、それは殆ど阿部くんの努力によるものだ。
思い返すと、随分いびつな関係だったのかもしれない。
与える方と受け取る方と、フィフティフィフティじゃない天秤は、いつか崩れる。
だからこそ、阿部くんは耐えきれなかった――別れの原因は、そこにあるとオレは感じていた。
途端、浮き立っていた気持ちが、すっと冷めていく。
それでも馬鹿みたいに重たくなってしまった足に手を伸ばすと、緩んでいた靴ひもを結び直した。転んだら危ないから、といつも直してくれていた手は、もう無い。それでも、会って話しが出来るだけで充分なんだ。
言い聞かせるようにきつく紐を引くと、尻ポケットに突っ込んでいた携帯が震えて着信を知らせてきた。

「――・・・・・・はい」
『もしもし、三橋?おい、三橋聞いてんのか?』
「え、あ・・・・・・う、ん」

受話口を耳に近づけた途端、流れ込んできたのは懐かしくて優しい声。冷たくなっていた指先まで、じんと暖まる声。油断すると涙腺が緩みそうで、かろうじて「阿部くん、どうしたん、だ?」と問いかけると、薄い金属越しに少し躊躇うような気配を感じた。

『いや、あの、さ・・・・・・』

彼らしく無い歯切れの悪い言葉に、先ほどオレの中を占めていたのと別の不安が湧いてくる。ごめん、今日やっぱり行けない。でも、そんな風に言われても、オレはきっと文句一つ言うことが出来ない。大丈夫、また今度。なんでもない振りをして、精一杯自分を誤魔化して。

『いや、俺・・・・・・あーっ!!』

唐突に耳元でがなり立てられて、思わず電話を通り落としそうになったオレは、足下に叩きつけられる寸前の愛機を必死で掬い上げる――良かった。間に合った。まだ心臓がばくばくいっている。でも、受話口からは相変わらず阿部くんの意味不明な叫びが聞こえてきていて、耳につけるのをちょっと躊躇ってしまう。

「え、と・・・・・・阿部くん?」

恐る恐る声を掛けると、電話口の奇声はぴたりと止んだ。代わりにぼそぼそと不明瞭な発音が聞こえる。

『あ・・・・・・だから、な。これは・・・・・・』
「も、もしかし、て、電波悪い?」
『悪くねぇよっ!!』

途切れ途切れの言葉に首を傾げたら――怒鳴られた。反射的にぎゅっと縮こまると、まるで目の前でそれを見ているように、阿部くんが「ごめん」と謝ってきた。

『急に怒鳴って悪ぃ。別に電波が調子良くないわけじゃないから』
「え、あ、じゃあ・・・・・・」
『あ、それと都合が悪くなったわけでもないからな』

もうすぐ待ち合わせの場所に着くし。と阿部くんは笑った。

「阿部くん、す、ごい」

なんで阿部くんにはオレの考えが分かっているんだろう。こんなに久しぶりなのに。
びっくりしすぎて、オレはつい本音を口にしてしまった。「う、うひっ!?」言ってしまってから慌てて通話口を塞いだけど、きっと聞こえてしまっている。その証拠に、阿部くんの声がぱたりと止まった。


「あ、阿部くん?」

やっぱり機嫌を損ねてしまったのかな。探るように呼びかけると『すごくねぇよ』ぼそりと呟く声がする。照れた風に聞こえたのは、きっと半分以上オレの願望。期待しちゃいけない、でも阿部くんの話はまだ途中だったみたいで。

『すごいわけじゃなくて・・・・・・単に、高校時代のクセが出たっつーか。気になったと思ったら、勝手に電話掛けてたっていうか・・・・・・と、ともかく!』
「は、はいっ!」
『早く来いよ!待ってんだから!』
「うんっ!」

怒鳴り声が嬉しいだなんて、馬鹿みたいだ。でも、本当に飛び上がるくらい嬉しくて、オレは急いで玄関を駈けだした。が――

『あ、三橋。ちょっと待て――』

通話のままの電話から呼び止められて、オレの動きが中断する。

『お前、今何処にいるんだ?』

正直に、寮の玄関。と答えた次の瞬間『なんで、まだそんなとこにいるんだよ!』と怒鳴られてしまったオレが

「は、走れ、ば間に合うよ!」

顔色を変えながら(阿部くんからは見えないけど)必死に言い募ると、今日一番大きな声で怒鳴られた。


『尚更悪いわ!絶対ぇ走るなよ!!』


その後の道中も『怪我したらどうする』『プロなんだから高校時代以上に気をつけろ』『時間に余裕を持って行動しろ』等々、阿部くんの「お説教」は止まる事を知らなかった。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい!!」
それでも、もう待ち合わせの場所が見える位の頃、ひたすらに謝り続けた結果、やっと許して貰う事が出来た。オレは、久しぶりに本気で反省した気がした。



□□□




他愛の無い会話をしながら適当に歩いて、適当な店に入る。店員が妙に元気の良いこの居酒屋は、どこかで聞いた事がある名前だった。いつ聞いたのか、それとも来た事があったのか、咄嗟に思い出せなかったけど。それくらいオレは、目の前の彼のことで頭がいっぱいだった。
小さく仕切られた席に向かい合わせに座ると、思ったより近い距離に胸の奥が少し痛む。阿部くんは慣れた調子で注文しながら、ふ、とオレの方を振り返った。

「お前も、最初はビールでいいか?」
「あ、う、うん」

頷いてから、こっそり溜め息をつく。本当の事を言えば、ビールはあまり好きじゃない。あの口の中を侵略する苦味は、いつも飲み込むのに苦労する。一度そんな事を言って同じチームの先輩達から子供扱いされてからは、黙っている事にしたけれど。

「三橋」
「え、あ、なに?」
「なんか別の頼むか」
「う、えっ!?」

話が全く読めていないオレに軽く舌打ちすると、阿部くんは此方に背中を向けた店員を再び呼び止めた。

「え、あ、阿部くん!」
「なんだよ」

慌てるオレの目の前で、ばらりとメニューが広げられる。

「――悪かったな」

唐突に突き出された謝罪の言葉に思わず目を瞠った。何がどうして阿部くんが謝るのか、全く理解する事が出来ない。大丈夫だよ、と口にすると。

「お前・・・・・・、また適当な事言ってるだろ」

呆れた風に眉が顰められる。気難しげなその表情はオレにとってはひどく見慣れた物だったので、怖く、はなかった。

「何へらへらしてんだよ」
「え、と・・・・・・」

嬉しい?懐かしい?どっちを口に出しても怒鳴られる事は確実だろう。結局どちらも選べずに曖昧な笑みを浮かべると、溜め息と共に阿部くんの眉間の皺が薄くなった。代わりに、メニューを押さえていた指先が、神経質そうな動きで写真を叩いている。

「――ったく、そんなとこばかり変わらないんだからな・・・・・・」

呟かれた言葉は、オレに聞かせる為のものでは無かったらしい。案の定、首を傾げると、阿部くんはひどくバツの悪そうな表情を浮かべた。それを気づかない振りをして――いや、昔のオレだったら本当に気づかないで――やり過ごしてしまうのが、今のオレには出来なかった。

「どうした、んだ?」
「ああ――」

また、溜め息。僅かに逸らされた視線を“彼らしくない”と断定するには、オレはあまりに『最近の阿部くん』を知らない。それでも凝と見つめていると、阿部くんはゆるゆると口を開いた。

「昔の――高校時代の俺だったら、お前に酒勧める事なんて、絶対に無かったよな」
「え、あ、ああ・・・・・・でも、それは、」

オレ達が高校生だったからであって、成人した現在では関係無いんじゃないだろうか。だから、

「大丈夫だ、と・・・・・・」

気にしないでくれ、と続けるつもりだった言葉は、阿部くんの声に飲み込まれた。

「大丈夫じゃない!お前、まだ投げる予定あるんだろ?」
「え――」
「別に今日じゃなくても良かったんだよ・・・・・・。もっと、シーズン終わってからとかでも・・・・・・本当に、俺は」

殆ど独り言みたいだったけれど、阿部くんの言わんとしていることは分かった気がする。口元が、自然ふにゃりと緩む。

「し、んぱいして、くれた、んだ」
「――当たり前だろ」

不機嫌そうな声音が、全然怖くない。寧ろ、湧き起こる喜びを押し隠すのに必死な(だって、そんな事を素直に顔に出したら、今度こそ本当に怒られてしまうから)オレの顔は奇妙に歪んでいるに違いない。

「要するに俺も、まだ捕手根性が抜けてないって事だよ」

だが、自嘲気味の静かな彼の口調を聞くと、胸の奥が確かに軋む音がした。

「阿部くん・・・・・・?」
「ああ、いや。別にお前の事、管理したいって事じゃないから。今は専門の人がついているだろうし・・・・・・」
「あ、え、で、でも・・・・・・心配し、てくれたのは・・・・・・嬉しかった、し」

言ってくれていいのに。という言葉は、唇から零れる寸前であっさりと消えてしまった。そんな風に言い合える関係は、随分前に無くしてしまっている。臆病なところも変わっていないよ。心の声は、きっと届く事はない。


「そっか、――ありがとう、三橋」


俯き加減で呟いたのは、あの頃より大人びた、オレの知らない阿部くんの顔。それを見ないふりをしながら、オレは笑ってみせる。大丈夫だから。まだ、大丈夫。



――まだ、オレは、阿部くんの前で普通に笑う事が出来るから。











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