Line



8


マウンドに立っているだけで、じわ、と汗が滲む。無意識にロンジンを掴む手に力が籠もった。指先を白く汚す粉を払ってから真っ直ぐに前を向き、オレはミットの中央を見つめた。
途端に、さっきまで五月蠅いくらい響いていた歓声が遠ざかって、代わりに胸の中から鼓動が勢いよく駆け上がってくる。跳ね上がるそれを心地よいと思えるように、握りしめた硬球の縫い目を指先で擦ると、慣れた感触に胸を打つ音が少しずつ穏やかな物に戻っていった。

(大丈夫。信じて投げればいい。それだけで良いんだ。)

脳裏に浮かんだ言葉を裏付けるよう、キャッチャーマスクが頷いた。良かった。安堵の気持ちで口元まで緩みそうになった次の瞬間、微かな違和感が過ぎった。
おまけに、何故だろう。感じたこともない焦燥までもが湧き上がってくる。

「――さん?」

内心の不安を隠しながら彼の名前を呼ぶ。
オレが呼んだのは、勿論、今のチームの先輩で、チームの正捕手で――

「三橋」

ふいに、構えをといて捕手が立ち上がった。
オレの名前を呼びながら、マスクに手をかけて持ち上げる。その仕草に、声に、落ち着いていた筈の鼓動が痛い位に早まった。

「あ、ああ・・・・・・」

上擦った声が漏れる。

(――こんな事が、あるわけ無い。)

あんなにも散々夢見たクセに、映像として目の前に展開されると、オレはひたすらに否定することしか出来なかった。

「あ、べくん・・・・・・」

掠れた音がマウンドに落ちる。これが現実の筈は無い。阿部くんがマスクをかぶって、またオレの球をとってくれるだなんて。
「阿部くん、」オレの呼びかけに、阿部くんが軽く頷いた。向けられる黒い双眸は、記憶の中の物と寸分違わない。それなのにオレは硬球を握りしめた手をだらりと垂れたまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。

「三橋、投げろよ――」

信じられない言葉が耳に響く。あんなに聞きたくて――聞きたくて仕方の無かった言葉なのに、気づけば、オレはのろのろと首を横に振っていた。

「投げ、な、い・・・・・・」
「――どうしてだよ?」

阿部くんの顔が、不機嫌そうに歪む。怖くは、ない。けれど、胃の中に冷たい物が落ち込んだように、ひどく悲しかった。

「オレは、もう阿部くんには投げない、んだ」
「どうしてだよ!?」
「だ、だって・・・・・・」

詰問する口調に、一瞬身体が竦んだ。睨み付けるような視線がオレを突き抜ける。でも、阿部くんは、すぐにその目をオレから逸らしてしまった。

「俺は、もう必要無いってことか・・・・・・」

小さく呟かれたその言葉は、18.44メートルなど関係無いみたいにはっきりとオレの耳に届いた。

「ち、違う!それは、違う、よ!」

目眩がする。込み上げてきた物を必死で堪えながら、オレは彼に向かって叫んだ。

「じゃあ、なんでだよ!!」
「そ、れは・・・・・・」
「答えられないって事は、そういう事なんだろ」

鈍い音に視線が引きつけられると、そこには、脱ぎ捨てられたマスクが地面に転がっていた。
泥にまみれた姿が、記憶の奥の「何か」を連想させる。

「阿部く、ん・・・・・・」

マウンドに縫いつけられたように動かない足は、自分の物でないみたいだった。早く、早く追いかけないと、行ってしまう。ずっと握りしめていた球を落とした事さえ、気にならなかった。
それよりも早く、早く行かないと――。

「阿部くんっ!」

質問の答えは見つからないまま、オレは懸命に手を伸ばす。取り返しのつかない予感に、指先が震えていた。

「阿部くん、阿部くん・・・・・・」

繰り返し呼び続けると、すでに半分背中を向けた姿勢で、阿部くんがオレの顔を見た。動かない表情の中で、唇だけが小さく動いて、


「三橋――」




□□□




唐突に視界が明るくなった。薄く目蓋を開けて、すぐに閉じる。それでも白い光は目に痛いくらい部屋に溢れかえっていて、手をかざさずにはいられない。窓辺に吊されたカーテンが、はらりと揺れた気配がする。
結局、片手分の小さな影では容赦なく差し込んでくる光を防ぎきれなくて、オレは仕方なく緩慢な動きで身体を起こした。

「ゆ、夢――」

時計を見なくても部屋の明るさで、今が起床するには充分すぎる程の時間なのが分かった。今日は休みで良かった。安堵の息をついても、耳の奥に引っかかっている夢の残滓は――あの遣り取りが、架空の物だと知っても尚――なかなか消えようとはしなかった。
理由は、嫌と言うほど分かっている。
頭を軽く振って、まとわりつく何かを振り払おうとしたら、枕元に置いていた携帯が、規則的な電子音で時刻を知らせているのに気がついた。目覚めた原因を引き寄せてボタンをいじると、何処を押してしまったのか「あ、」昨日受け取ったばかりのメールが画面に表示

される。

『FROM 阿部隆也』

送信者の名前を確認しただけで、オレは内容を見ることもなく携帯を閉じた。
昨日来たメールだから、もう読み終わっている。だから、何回も読み返す必要なんてないんだ。言い訳めいた事を考えながらベッドの上に転がると、皺の寄ったタオルケットを引き寄せる。
早く返事をしなければ、と思いながらも、どんな風に言葉を綴れば良いのかが分からない。昔は怒られるのが怖くて返事が遅くなって、遅くなった事を怒られて。そんな繰り返しばかりだったけれど、今みたいに重い気持ちで迷う事は無かった。

「阿部くん・・・・・・」

返事をしなかったら、阿部くんはまだ怒ってくれるだろうか。それとも――





□□□




『お前は、メール見てるくせになんで返事よこさねーんだよ!』
『う、あ、阿部くん。ごめ、ごめんなさ、い・・・・・・』
『俺だって、怒るためにメールしてんじゃないんだからな』
『え・・・・・・』

ふう、と息を吐いた阿部くんの顔は、確かに怒っていなかった。それよりも、困っているといった方が近い表情で、彼は後頭部を掻きながら呟いた。

『そんなに・・・・・・怒ってるような感じだったか?』

オレは返事の代わりに、大きく首を横に振った。文面は阿部くんらしい簡潔な物だけど、責めるような文言は一つも見当たらない。

『お、オレが、勝手に返事が遅かった、だ、けだ』
『そういうの普通は“勝手”って言わねーだろ』
『そ、うかな・・・・・・?』
『そうだよ』

首を傾げるオレの頭に、慣れた感触が軽く触れた。阿部くんの手、だ。続いて「あんまり返事が遅いと、自分がキツイ事を言ったんじゃないかと心配になるから」と、口早に伝えられた内容に、思わず頬が緩んだ。

『大丈夫、き、つくなんてない、よ』
『本当かよ・・・・・・』
『本当だよ!』

懐かしむつもりで思い出したはずではないのに、蘇ってきた記憶は自分でも驚くほど鮮やかで、――鮮やかな分だけ切なかった。
あの時みたいに「大丈夫だ」と迷い無く答えられたらどんなにか良いのに。握りしめた携帯を額に押し当てて、薄い金属の冷たさだけに集中する。阿部くんが、どんな気持ちで返事を待っているかと思うと、小さく刺すような痛みが胸を走った。

「で、も――」

でも、次の瞬間、さっきまで曖昧な輪郭しか持っていなかったはずの不安が頭をもたげる。阿部くんが、あの頃みたいな気持ちで返答を待っているだなんて、そんな風に考える事が、オレの勝手な思いこみかもしれない。
容易く変えられてしまった番号と、見慣れないアドレス。そんな物を再確認しなくても、本当は分かっている。
いじましく抱え込んできた気持ちを否定されたみたいで、自分が意地を張っている事を。
久しぶりにメールを受け取った時の弾むような気持ちから顔を背けて、枕に顔を埋めているオレは――阿部くんと別れた事を、少しも吹っ切れていない。
最初は顔を見れるだけで良いと思って、昔みたいな雰囲気に、友達に戻れたらと考えて。でも、結局、そのどちらにも満足できない己の貪欲さを、オレは直視したくなかった。

「どうしよう・・・・・・」

呟くと、掌の中の機械が急に重たくなった気がする。もう見たくないと思っていたのに、指が勝手にのろのろと動いて画面を呼び出した。

『来週空いてる時間あるか?約束通り、飲みに行こう』

どうしよう。今度は唇が勝手に言葉を零す。聞きたくない。聞きたくなんてないのに、明るい部屋の中では隠れる場所もないのか、はっきりと耳に届いてしまった。

「まだ、こんなに、阿部くんの事を――」

好きだなんて、思わなかった。

自覚してしまった想いに「ああ」と深い溜め息が漏れる。現実はやはり優しくないのだと思い知る。もう、否定する気力も沸かなかった。ほんの数行のメールが、何年も押し殺していた感情を簡単に暴いてしまう。
一番の解決法は、このメールを消去して見なかった振りをする事だ。社交辞令の誘いを断ったところで、生活になんの支障でないはずだ。阿部くんだって、たいして気にするはずもない。卒業以来途絶えた連絡を思えば、そう考えるのが自然だった。多少気分を害するかもしれないけど、時間が経てば、阿部くんだって最初から何事も無かったかのように忘れてしまうだろう。思いつきのような、そんな些細な約束なのだから。
それなのに、――メールを消す為の操作をしようとした指が止まる。

これを消してしまったら、本当にもう、二度と会うことが出来ないかもしれない。

「い、やだ――そんなの、絶対に嫌だっ!」

たった数時間の再会だけで、どれだけ自分が彼に会いたかったかを思い知らされた。昔は当たり前のように与えられていた物の大きさは、同時に失った悲しみも連れてきたけれど、

(二度と手放しくたくはない、んだ――。)

認めてしまったら、押しとどめておくのは不可能だった。目の奥がひどく熱くなって、視界に映っていた携帯の輪郭がぼやける。濡れた頬を乱暴に擦ると、ひりついた痛みが走ったけれど、この際、そんな事はどうでも良かった。
焦りと涙で滑る指先を、馬鹿みたいに必死で動かしながら、オレは阿部くんに返事を打った。




『来週、大丈夫です』




思い出の中のどれより短い返事は、承諾を伝えるための物だった。












←back  □□□  next→