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球場を飛び出してからも、オレは必死に走っていた。試合には勝ったけれど、その後引き留められたり質問されたり、ともかく予定外の事ばかりに時間をとられてしまった。
汗だくで走るオレを、すれ違いざまのカップルが不思議そうな顔で見ていたけれど、気にしている暇もない。

「せっか、く――せっかく、会える、のにっ」

肺に残っていた少しの酸素と一緒に吐き出した言葉は、みっともないくらい、今にも泣きだしそうな声に聞こえた。
でも、本当に、一分だって無駄にしたくなかった。
阿部くんは、本人曰く気の長い方じゃないらしい。それでも、高校時代を思い返せば、どんな時も要領の悪いオレに付き合ってくれた。その優しさに気づくまでは随分怖い思いもしたけれど、分かってしまえば何を言われても卑屈になる事は無くなった。
久しぶりに会えるのに、怒鳴られたらどうしよう。と思って、ふと可笑しくなった。

「怒ってくれる、のかな・・・・・・まだ」


3年の夏大会が終わって、オレにプロの話が来てから、阿部くんはあまり怒らなくなった。

それまでは当たり前みたいに毎日怒鳴っていたのが、嘘みたいな穏やかさで。いくら鈍いと言われてるオレでも、阿部くんの変化の原因がオレの進路に関係している事が分かってしまった。
そこで、素直に聞いてしまえば良かったのかもしれない。
どうして怒らないの?
オレがプロを選んだから、もう必要ない?
「・・・・・・でも、怖かったんだ」
怖かった。変な話かもしれないけれど、怒鳴る阿部くんよりも、静かに、凪いだ雰囲気でオレを見つめている阿部くんの方が怖かった。
手を繋ぐだけで分かると思っていた気持ちが、急に分からなくなった、そんな不安。完全に共有出来る感情などもとから無かったのだと言われれば、それまでかもしれない。
でも、日が経つにつれてオレ達の間には言葉に出来ない澱が溜まっていき、

阿部くんは、何も聞かない
オレは、何も伝えない

気がつけば、最後の日を迎えていた。




□□□






白い花の群れの隙間から、青い空が見える。



『頑張れよ――お前なら、きっと出来るから』


でも、そんな風に優しく笑ってくれる阿部くんの顔が前と違う事に、オレはとうに気がついていた。薄いぼんやりした膜のようなものがオレと阿部くんの間にある。
いつの間にか存在していたそれが、二人を隔てて、やがて取り返しがつかないくらい遠ざけてしまう。
理屈ではなくそう感じたけれど、オレにはどうにも出来なかった。

なぜならば、その壁を作ったのは――阿部くん、だから。

目の前に突きつけられると、嫌でもはっきりと分かってしまった。阿部くんがオレと別れようとしている事を。

『ありがとう・・・・・・』

3年間オレの球をとってくれて。オレの傍にいてくれて。たくさんの約束と、まだかなえられていない願いもあったけど。そんな些細な悲しみも喜びも、全て引っくるめてオレは伝えたかった。
阿部くんは、少し困ったように笑ってからオレを抱きしめてくれた。
温かくて、阿部くんの匂いがする。懐かしいな、と思ったら息が詰まりそうになった。
当たり前だと思っていたものが、実際はひどく久しぶりで――そして、これが、たぶん最後だと気がついて。

涙がこぼれないように唇を噛み締めて足下を見ると、白い花の蕾が土にまみれて転がっていた。






□□□



ありふれたデザインのドアに手をかけると、隙間から賑やかな空気が零れ出した。額の汗をぐいと手で拭うと、一回深呼吸。息が収まると、今度は心臓の音がやけに耳についた。
すごく緊張している。それこそ、試合で投げるときと比べものにならないくらいに。

「は、あ・・・・・・」

吸って吐いて、吸って吐いて。肺の中の空気を全部入れ換えるように、緊張も全部出てしまえばいいのに。「だ、大丈夫だ」自分に言い聞かせるのに必死で。でも、すぐに、こんな風に躊躇してる暇など無いんだと思い出した。

「すいませ、んっ」

次の瞬間、予想していたよりも遙かに軽い感触で扉は開き、吸い込まれるようにオレは店の中に飛び込んでいた。




店に入るなり、まっ先に目についたのは、何故か水谷君を腰にぶら下げた阿部くんの姿だった。
相変わらず仲良いんだな、とちょっぴり羨ましくなると同時に、自分も早く近づきたくて足を急がせた。照明が薄暗いので、足下が見えにくい。「す、みませんっ」避けたつもりの身体がテーブルの角にぶつかって、サラリーマン風の人達が驚いた顔でオレを見た。
ごめんなさい、と頭を小さく下げている間も足は止められない。
早く、――少しでも早く、近くに行きたかった。
そんな時、水谷君と喋っていた横顔が、ふいにオレに向けられた。

「あ、阿部く、ん・・・・・・」
「よお・・・・・・」




話したい事は色々あったはずなのに、顔を合わせると名前を呼ぶだけで精一杯だった。
少し不機嫌そうな表情や、本人が気にしている(オレはそんなに気にならなかったけど)下がり気味の目尻は変わらないな、と思った。それから、背はあれからも伸びたんだな、とか髪も切ったのかなとか取り留めのない事が浮かんでは消える。
でも、一番強く溢れた感情は

「ま、間に合って、良かった――」

だった。
しかも、その想いは強すぎて、ちゃんとしまっておくつもりだったのに、オレの唇から勝手に零れてしまう。
焦ったオレが慌てて阿部くんを見ると、呆れた顔をしているとばかり思っていた彼は、何故かぽかんとした表情で椅子に座り込んでいた。
どうしたんだろう、疲れてるのかな。気になる事は少なくなかったけど、それよりも栄口くんの目線に促されて空いている席に座った。

阿部くんの隣、高校時代にいつも見つめていた横顔を見られるのが、この時はただ、本当に嬉しかった。




□□□




「じゃあ、――これ、俺の今の番号だから」
「う、ん・・・・・・」
薄く光る液晶の表面に、見慣れない数字が並ぶ。
何度も押して、でも結局かけることが出来なかった番号とは全く違うそれに、登録しようとした指が震えた。





今度飲みに行かないか、と誘われた時は、夢じゃないかと頬をつねりたくなるくらいオレは浮かれていた。
久しぶりに会えた阿部くんは、オレの想像よりも少し大人びていて、そして記憶にあるよりも優しいような気さえした。寂しい、懐かしい、でも、これくらいの変化ならすぐに飛び越える事が出来ると思っていたのに、現実はひどく残酷な事も教えてくれる。
初めて見る電話番号に、オレは苦しいくらいの動揺を必死で押し隠していた。
大学に入学してから変えたんだ、という阿部くんの言葉が耳をすり抜けていく。
捨てられた番号を大切に眺めていた自分が哀れで。かけることが出来なかった後悔を、こんな事で納得させられるなんて、行き場のない苛立ちが胸の中で渦巻いていた。

「――三橋、三橋?」
「あ、あ・・・・・・阿部くん」

ふいに、すぐ傍でオレの名前を呼ぶ声がして、我に返った。ぼんやりと見ると、阿部くんが気遣わしげな表情でオレの顔を覗き込んでいる。

「お前、疲れてるんなら無理しないで、早く帰れ」
「だ、大丈夫だ、から」
「大丈夫、って顔じゃねーぞ」

眉間に皺を寄せて、ぐっと顔が近づいてくる。そうだね、きっと「大丈夫」なんかじゃない。でも、それは試合の所為でもない。

「本当に、大丈夫だ、からっ!」

咄嗟だった。意識した行動で無く、自然に手が動いたようにオレには思えた。向けられる視線から身を隠したくて、伸ばした手が阿部くんの胸を突いた。
実際には、ごくごく軽い衝撃だったと思う。
その証拠に阿部くんが、痛みを感じるそぶりは少しも見えなかった。
それなのに――

「――悪ぃ・・・・・」

まるで、思い切り叩かれた後みたいな顔に、違和感が湧き起こる。

「ごめ、んなさ、い・・・・・・」
「別に、そんな謝られる程痛くはねぇよ」
「で、も・・・・・・」

阿部くんの目を見たくない。反射的に俯いたオレの頭を、優しい感触が一瞬だけ撫でていった。

「俺がお節介焼きすぎた。お前だって、いつまでも高校の時のまんまじゃないのにな」
「え・・・・・・」

告げられた言葉に滲む物を確かめたくて顔を上げると、阿部くんは困ったような笑いを浮かべていた。

「――悪かったな。三橋。」


その声は、ひどく遠くから聞こえてきた。
途端に、記憶の深い所からぶり返してきた感情がある。
揺れる白い花の蕾と、青い空。
優しい微笑みはオレを遠ざけるための手段で、分かっていて受け入れた自分を悔やまなかった時はない。


「あ、阿部くんっ!」
「お、おう?」

なんだよ、と怪訝そうに尋ねられて「あ、う・・・・・・」言葉の続かないオレに、深い溜め息が向けられる。

「相変わらず、ちゃんと考えてから話ししろよ・・・・・・。全く、そんなとこばかり変わっていないんだよな」

ふう。今度こそ呆れた風な顔で、阿部くんはオレを見た。じわりと苦い物が広がって、オレはまた自分の爪先に視線を落とした。

「でも、まぁ。それくらいの時間は待っててやるから」
「あ、そ、うなん、だ・・・・・・」
「そうだよ。だから、ゆっくり喋れよ」

優しい言葉なのに、少しも心が震えない。これだったら、怒鳴られた時の方が何倍も嬉しかった。勝手な言い分ばかりが頭の中を駆け回って、油断したら飛び出しそうで。それだけはしちゃいけない、と掌をきつく握りしめた。
(――阿部くんを、責めちゃいけない、んだ。)
こんな風に、また会う事が出来たのに、過去を持ち出して何になる?何の意味も持たないくらい、オレにだって理解出来る。
阿部くんは、忘れたんだ。
携帯の番号を変えるくらいの気軽さで、思い出はあっという間に色褪せてしまう。

「大丈夫だ、から」

緩く頭を振ったオレを見て、阿部くんは少し目を細めたけれど、追求はしてこなかった。


「今度の休み前に連絡すっから」
「う、ん・・・・・・」



のろのろと頷いてから笑ってみせる。
また会える喜びと、虚しさが混ざってすごく変な顔だったと思うけど、阿部くんに気づかれまいとオレは精一杯の力を込めた。会わなければ良かった、とだけは思いたくなかったから。











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