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久しぶりに一緒に飲まないか、と栄口くんから電話がかかってきた時、オレはちょうどコンビニでアイスを買って寮へ戻る途中だった。
片手に携帯、片手に囓りかけのアイスとコンビニの袋。袋の中ではちゃぷちゃぷと水の揺れる音がする。

『三橋、今ちょうどこっちで試合なんだろ?』
「う、うん。そうだ、けど」
『一日くらい、何とかならないかな?そんな遅くまでつきあわせるつもりもないからさ』

ちょっと、待ってて。通話口にそう声をかけると、ソーダアイスの溶けかけた先端を一口囓ってから考える。

「お、オレ、金曜日に投げるかもしれない、から。その、日だったら、大丈夫だ、と思う」

登板はまだ告げられていなかったけど、今のチームのローテーションから考えると、そこら辺だと自分で勝手に検討をつけた。仮に違っていたとしても、次の試合まで移動日を挟んでいるからなんとかなるだろう。時間だって、栄口くんのことだから、本当にそんな遅くなるような事はしないに違いない。

『――そっか。良かった。じゃあ。金曜日開けておいてくれよ』
「うん」

一拍、安堵の息が聞こえてから、もう一度「良かった」と呟く様子に、ざわりと神経を撫でる物があった。ある種の予感に引かれるように、オレは電話を強く握りしめる。さっきよりも、ずっと強く。


『金曜日さ――阿部も、来るから』


待ちかまえていたオレの耳に、ごくごく薄い硝子が砕けるより軽い音をたてて、それは落ちてきた。

「え・・・・・・」
『もう、阿部の事も誘ってあるから。三橋も久しぶりだろ?阿部と話すの』
「あ、う、うん・・・・・・」

栄口くんが口にする度に、その名前はオレの頭の中をぐるぐると回った。阿部くん、阿部くん、阿部くん。懐かしくて、愛しくて、オレにとって一番大切な名前。
阿部くんから連絡が来なくなって、オレからも連絡しなくなって、もうどれくらい経ったんだろう。
どれくらいか計算しようとしたけれど、ただでさえ容量の少ないオレの頭は、突然聞いた阿部くんの名前ですぐにいっぱいになってしまって、正しい答えなんて分からなかった。

『――なぁ、三橋。三橋?』
「ご、ごめ・・・・・・なさい」

そんなにぼけっとしてて、試合とか大丈夫かよ、と笑う声がする。

「だ、大丈夫だ、よ!」
『それは頼もしいなぁ』
「オレは、エースだか、ら」

言い切ると、また一瞬間があって『そうだな』と答える声が聞こえた。そして、それきり栄口くんは黙ってしまった。用事は終わったのかな、とも思ったけど通話を切る気配もない。何となくオレも黙ったまま立ちつくしていた。
やがて、

『――三橋』
「な、何?」
『お前と阿部さ、・・・・・・なんで別れちゃったの?』
「わ・・・・・・かれた・・・・・・」

それは“友達”としてという意味なのか、違うのか。どちらにしても、オレ達はそう見えていたのか。聞き返したい言葉が次から次へと沸いてくる。
ただ、自分でも意外な事に、質問された事は自体は、それほどショックでもなかった。

『突然、立ち入った事聞いてごめん。でも、俺にはなんで三橋と阿部がこんな風になったか分からないんだよ』
「うん・・・・・・そうだ、ね。でも、きっと、オレが、悪いんだ」
『三橋?』
「阿部くん、は悪くない。オレが、駄目だから、愛想つかされただけ」

手の中の薄い金属の向こうで、栄口くんが絶句しているのが分かる。困らせてしまったかな、と思う反面、阿部くんと会う前に、正直な胸中を吐き出せて良かったという気持ちもあった。

「だから、ごめん、なさい」

時間が経ったおかげなのかもしれない。こんな風に落ち着いて話せるのは。これが卒業して間もない時だったら、取り乱して泣き出して、余計に困らせる自信があった。

『三橋、何言ってるんだ?』
「誘ってもらって、本当、に嬉しかったけど、オレは、行かな、い」

はっきりと栄口くんにそう告げて(寧ろ、オレ自身に言い聞かせていたのかもしれない)、オレはボタンを押そうとした。阿部くんと繋がるかもしれない細い糸。
今のオレには、それに縋る勇気がない。

『三橋っ!!待て、まだ切るな!』

でも、最後のボタンに触れる寸前、栄口くんが必死にオレを呼び止める声が聞こえた。

「・・・・・・栄口く、ん」

指が止まって、ふう、と溜め息が受話器から漏れる。

『俺は、お前らの間の細かい事情とかは全然知らないけど。それでも、やっぱり――もう一度ちゃんと会ったほうが良いと思う』
「で、でも・・・・・・」
『だって、その様子だと、西浦を卒業してからまともに話してないんだろ?』
「うん・・・・・・」
『だったらさ。金曜日に言いたい事なんでも言っちゃえよ!そのほうが絶対に三橋もすっきりするから!』

栄口くんの声が急に明るくなる。オレを気遣ってそうしてくれているんだろうな、と思ったら、目の奥が熱くなって涙が出そうになった。

「う、ぐ・・・・・・」

涙を堪えると鼻声になった。「あ、びが・・・・・・」さらに声を出そうとすると、変な音が出た。「ぷっ、」栄口くんが軽く吹き出すのが聞こえる。
そういえば昔、泣く度に、阿部くんから「フガフガ言ってないで、はっきり喋れ!」って怒鳴られたっけ。
そんな些細な事を思い出したら、急におかしくなって、オレも少し笑ってしまった。

『三橋・・・・・・金曜日だからな』
「うん、ありがと、う」

頑張れとは言われなかったけど、栄口くんも笑ったみたいだったから、オレは大きく頷いた。


「絶対、行く、よ」




オレに金曜日の先発が告げられたのは、翌日の事だった。






□□□




『マウンドに立つ時、怖くはないですか?』
と、聞かれた事があった。確か、プロになって初めて勝った試合の時だったと思う。
オレが「怖くないです。もっと投げたいです」と答えたら、翌日の新聞の紙面は一様に「新人らしからぬ落ち着き」「度胸はすでに一軍選手」等書きたてて、先輩達にすごくからかわれた。
正直な気持ちを答えただけだったのに、世の中は上手くいかない。
そして、たぶん、その頃から――プロになって、投げる事に好きなだけ専念出来る環境に身をおいて、尚、オレは満たされない何かを探していた。
マウンドに立つ時の高揚感、白球の感触、客席のざわめきや場内に響く自分の名前。子供の頃ブラウン管の中で見ていたユニフォームと、張りつめる緊張。
手に入った物はたくさんあるけれど、反面どうしても見つからない物もあった。

『阿部くん――』

そんな時は決まって、オレの口からは自然と彼の名前が零れ落ちていた。
照りつける夏の日差しと、額を流れ落ちた汗。暑さの所為だけじゃなく、目の眩むような喜びと、一掴みの土の感触。
西浦で阿部くんと組んだ三年間は、怒鳴られて、呆れられて、気遣われて。迷惑ばかりかけた記憶さえ、今では大切にとっておきたい思い出になっている。

『どうしてるの、かな――』

それに、オレ達の関係は――野球だけ、じゃなかった。
尤も、こっちの方面の記憶は、部活や試合の記憶に比べると結構曖昧なところもある。
握った手の温度や、抱きしめてくれた腕の力強さ。二人きりの時、友達に見せるのと別の顔で阿部くんが笑うのを知った瞬間は、胸が怖いくらい痛くて、そのくせひどく嬉しかった。

何かの折に、少し垂れた目尻が柔らかく、ふっと溶けるようにオレに向けられる。堅い指先が前髪を掻き上げる。
それが合図だ。
オレはゆっくり目を閉じると、引き寄せる腕に身を委ねる。耳元で囁かれる名前に心臓が跳ね上がって、変な表現かもしれないけど「全身が兎になったみたいだ」と思った。
どきどきどきどき、吐息が揺れる。白い小さな兎になって、オレは全力で駆け抜ける。
そして、飛び込んだ腕の中で、ゆっくりと優しい感触がオレの唇に落ちてきた。
息が詰まるような幸福感。ぎゅっと掴んで、離したくない。

『三橋――』
『な、に?』

まぶたを開けると、阿部くんはなんだかちょっと困ったような顔でオレを見ていた。どうしたんだろう、と首を傾げると、彼の頬がさっと赤くなった。さすがのオレも、阿部くんが照れてるんだ、と気がついた。「うわ・・・・・・」逸らされた目線に不安になるよりも、嬉しさが簡単に勝ってしまう。

『笑うなよ・・・・・・』
『笑って、なんか、ないよ!』

我ながら説得力がないのは、仕方がなかったと思う。嬉しくて、嬉しくて、思わず自分から抱きついてしまったから。
阿部くんは、そんなオレの頭を優しく撫でながら、ちょっと笑ったみたいだった。





□□□






「三橋、行ってこい!」
「はいっ!」
ベンチを飛び出すと、オレはいつも一直線にマウンドを目指す。
電光掲示板に示された自分の名前を見れば、甘やかな感傷も忽ちどこかに消え失せてしまう。ただ、少し――ほんの少しだけ、刺すような痛みが残るだけだ。
そして、そんな残像も、グランドの中で一番高い場所に立った瞬間、ふわりとオレの中から流れて溶けていく。今度こそ、何も残らない。
張りつめた空気の中、18.44メートルの距離がすぐ傍みたいに見えて、自分の集中力が高まっている事が分かった。

早く投げたい。少しでも速く、一球でも多く。
許される限り長く、この場所にいたい。
いつものオレだったら、この場所に立った瞬間そんな事ばかりで頭がいっぱいになってしまう。
だけど、その日のオレは一度だけ振り返った――観客席の方を。

先発を告げられてから、オレは栄口くんに電話をした。偶然とはいえ、彼等と会うその日に投げる事ができるのが単純に嬉しかった。
そして、ぎっしり詰まった外野のどこかに彼がいるのだと思ったら、嬉しくて自然に頬が緩んだ。口の中で小さく名前を呼ぶ。
でも、ミットを構えた先輩が不思議そうな顔でオレを見ているのに気がついて、慌てて顔を引き締める。
「三橋!」
頷くと、白球がベースから放られた。馴染んだ感触を握りしめる。
(――阿部、くん)
自分の掌の中を見つめて、胸の底まで届くような深呼吸をした。大丈夫。今日はきっと、いい球が投げられる。




試合開始のベルが鳴った。










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