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――すみませんが、と声を掛けられて振り向くと、慇懃な態度の店員がラストオーダーの時間を告げに来ていた。

「俺達も、そろそろ家に帰ろうか」
腕時計を見れば、規則的に刻まれ続けた数字は新しい日付を指している。気づいた途端にふわりとした眠気に襲われた。
「阿部、阿部?どうしたんだ?」
「いや、ちょっと。なんでもない」
軽く頭を振って、滲みかけた眠気を払う。家に帰ってから、寝ればいい。翌日に予定を入れていない分、気楽だった。が――はた、と気がついた。
「俺より、お前の方は大丈夫かのかよ?」
水谷や栄口も学生の身分だから、予定は俺と似たり寄ったりだろう。だが、三橋は俺達と違う。コイツはもう『プロの野球選手』なんだ。
「それに寮なんだろ、早く帰らないと――」
「オレは、今日投げた、し。明日は、試合自体が無い、から、大丈夫だ、よ」
少し酔ったのか、ほんのりと頬を紅潮させて三橋は首を振った。大丈夫だから、まだみんなと一緒にいたい。真っ直ぐに向けられる視線に、何故だか、胸が、しくりと痛んだ。
「そういえば次の試合は地方だっけ。移動とか平気なの?」
「まだ、明日移動する予定じゃないか、ら」
「じゃ、みんなでもう一軒行く?」
簡単に誘う水谷に、わけもなく腹がたつ。
「ふざけんな、行くならお前一人で行け」
ムキになるなよ。と諭してくる栄口にも苛立ちが増す。
俺は、酔っているのかもしれない。
早く帰りたい、一人になりたい。浮かんだ言葉が果たして本心なのか、俺は自分でも判断出来なかった。上手くコントロール出来ない感情に思考が揺さぶられて、自分が投げつけた言葉の刺々しさが誰かを傷つける事も忘れていた。
なぁ、阿部。と呼びかける声に視線を向けると、栄口がゆっくりと頭を振った。
「言いたい事言うのもそれくらいにしとけよ。せっかく久しぶりに会ったんだし、三橋とこんな風に飲める機会、当分無いかもよ」
「別に・・・・・・」
かまわない。とは嘘でも言えなかった。でも、そこら辺は相手もお見通しなのだろう。諦観を装った溜め息をつきながらも、栄口の眉間の皺は薄い。阿部も、相変わらずだよな。と凪いだ表情で言続けられると、無言で頷く他はなかった。




会計を済ませて店の外に出る。忌々しいことに、繁華街は、まだ週末の騒がしさを失っていなかった。

「じゃあ、さ!話が纏まったところで、もう一軒行こうか!」
「だから、俺は“行く”なんて一言も言ってないだろ・・・・・・水谷」
頷いた事は確かだが、それは二次会突入の許可じゃない。くどくど説教するのも億劫で、俺は歩道に並ぶガードレールに凭れる掛かった。不毛なやり取りをしているうちに、酔いはすっかり冷めてしまっていた。急にはっきりとした肌寒さに気を取られて、一番肝心な事を忘れてたままで。


「阿部くん。お、オレ・・・・・・」


遠慮がちにあげられた声に、はっとした。まずい。次にくる言葉も分かっている。「ま、待て、って・・・・・・」言わせまいとした努力は――ほんの数秒遅かった。


「――迷惑だった?」

「あ・・・・・・い、や・・・・・・」

もし、これが何かの受けを狙った番組なら、どぼん。俺は今、音をたてて沈んだ。

困惑した、傷ついた表情に頭を掻きむしりたくなる。
莫迦という文字が、でかでかと頭に浮かぶ。全てに軽すぎる水谷よりも、こんな風に三橋に気遣わせる俺の方がよほどの大莫迦だ。
感情にまかせて投げつけた文句でも、三橋は素直に受け取ってしまう。そういった彼の性質は分かっていたはずなのに、久しぶりの再会はそんな当たり前の事すら忘れさせていた。
やっとの思いで「気にすんなよ」と呟くと、三橋は少し寂しそうに笑った。

「オレ、やっぱり帰る、よ。今日は、誘ってくれ、て、ありがとう」
「ちょ、と待てよ。おい!」

本当に帰るつもりなのだろう、ふいに向けられた背中に俺は反射的に手を伸ばしていた。

「三橋っ、待てって!!」

つかんだ肩は見た目よりもしっかりとした感触だった。
ああ、と場違いな感嘆が漏れる。これも三橋の努力の結果なのだ。頼りない印象ばかり強かった彼が自分の選んだ道をしっかりと歩いている。そこに俺の存在が無くても、一人で真っ直ぐに。

驚いたように振り返った三橋が「阿部くん?」呟いた。自分の手元を見ると、俺の手は三橋の右肩を掴んでいる。
「あっ・・・・・・ごめん。痛くなかったか?」
慌てて手を離す。高校時代だったら、こんな失態は絶対にしなかったのに。離れている間に忘れていたことが多すぎて、ぞくり、と悪寒にも似たものが背中を震わせた。

こんな風に、少しずつ、少しずつ、俺達の間は離れて行っていたんだ。
久しぶりに会って「昔と変わらない」わけなんてなかった。どんなに頭の中から閉め出しても、3年という空白の期間が確かに二人の間に存在する。
同じものを見たり、同じものに触れたり、一緒に笑ったりする事のない時間。
その重さをいきなり突きつけられたような気がして、俺は掌をきつく握りしめた。

「阿部・・・・・・やっぱ帰ろうか?」
「ああ、悪い・・・・・・でも、お前らだけでも飲んでいきたいんなら遠慮無く行けよ」
水谷の気遣う声に、のろのろと首を振った。酔いは冷めたとばかり思っていたのに、ひどく気持ち悪い。行き所を失った感情がぐるぐると腹の中を駆け回っているようで、こんな時に酒なんて見たくもなかった。だが、
「阿部だけ置いていっても、俺達楽しくないんだよね」
「水谷・・・・・・」
「じゃあ、今日はとりあえずこれでお開きにしようか」
三橋もそれでいい?と栄口の問いかけに三橋が頷くのが見えた。
「また、今度さ。阿部の体調がよさそうな時にみんなで集まろうよ!時間は三橋にあわせるからさ」
「う、うんっ!」
水谷の提案に遠慮するかと思った三橋は、予想外に嬉しそうな表情をした。オフが貰えたら絶対に連絡する、と意気込む姿を見ていると、また「変わったな」という言葉が浮かんできた。
あの頃の三橋は、マウンド以外では欲しい物を欲しいと言えないヤツだった。
何か望む物があっても、いつも一歩引いた場所からそれを見ている。最初から手に入らないと諦めている。
俺はそれがひどく歯がゆくて、何度も怒鳴りつけたり引きずり出したりしたものだ。でも、もうそんな事は必要無いらしい。
三橋と水谷と栄口と、三人が楽しげに会話しているのを俺はぼんやりと眺めていた。
苛立ちや焦燥感みたいな物はいつの間にか消えていて、代わりに――これは何だ?
「・・・・・・何だ?」
疑問がこぼれ落ちた。
穏やかなのに落ち着かない。大事な物を置き忘れたような感覚が、まとわりついて離れない。
近くにあるようで手の届かない物を、俺は必死に探していた――

「阿部くん?」
「あ、ああ・・・・・・」

今日何度目だろう、三橋にこんな顔をさせるのは。ごめん。いいよ。短い遣り取りの後、俺達は互いに口を閉じた。黙った三橋は、少し俯いて垂れた指先を揺らしていた。

「三橋・・・・・・あのな」
「・・・・・・?」

話しかけたものの言葉が続かない。俺は何を伝えようとしていたんだっけ。ごめん、じゃない。それはさっき謝った。何で謝った?謝った理由を思い出して、俺は大きく息を吐いた。

「迷惑だなんて、全然思ってないから」

鳶色の目に薄らと困惑の色が浮かぶ。それを散らしたくて、俺はもう一度、今度は力を込めて
「今度、お前がオフの時に飲み直しに行かないか?」
「・・・・・・え」
あからさまに驚いた三橋の顔が、見覚えのある表情に似ていて少しほっとした。こんな顔をしているのは嫌がっている所為じゃない。それくらいは、まだ俺にも読み取れる。
案の定、三橋はこくりと頷くと、口の端を大きく弛めた。

「うん、オレも阿部くん、と、飲みに行きた、い」
「おう。じゃあ、お前も休みが決まったら連絡くれよな」
「うんっ」

さっきまでの様子が嘘みたいに、子犬が跳ね回る。こんなに喜ばれるんだったら、中途半端な自分のプライドなんて放り出しておけばよかった、と後悔するくらいに。
俺達の会話を少し離れたところで聞いていた、栄口と水谷も近づいてきた。
「話まとまったみたいで良かったね」
「阿部も言っちゃってから反省するところは、高校時代から成長していないよなぁ」
「・・・・・・水谷」
(――お前の余計な事ばかり言う癖も、ちっとも直らないけどな。)
無言で無造作に(本人曰く、こういう風にセットしているらしい)頭に拳固をくれてやる。痛い、ひどい、鬼。と聞き慣れた悲鳴が上がったのは軽く無視。
「そういえば・・・・・・」
おまけに、今の水谷の一言のおかげで忘れていた事も思い出した。
「お前ら・・・・・・俺の事はめた報いは分かってるんだろうな?」
こっそり三橋に連絡とったり、わざと隣同士に座らせたり。合コンの幹事よろしい立ち回りにはそれなりのお返しをさせてもらわないと気が済まない。
「え、え?なんの事?」
へらへらと誤魔化そうとするのに、もう一発くれてやろうとした、その時。

「あ、阿部くん!駄目だ、よ!!」

俺と水谷の間に三橋が割って入ってきた。そして、かつてのチームメイトをかばうように俺に向き合うと、眉がぐっと位置
を下げた。
「仲良く、しない、と!」
「・・・・・・あ、ああ」
ひどく困ったような顔をしているクセに、口調だけはやけに真剣で。そのギャップに思わず毒気を抜かれてしまう。
詰め寄る三橋に仕方なく頷くと、後ろで水谷が拍手喝采しているのが見えた――やっぱりムカツク。

だが三橋はそんな俺の心中などおかまいなしに、勝手に話をまとめようとしていた。
「じゃあ、今度、は、オレから電話する、ね」
「ああ、俺も就活あるけど、なるべく予定合わせるようにするから」
「う、ん。ありがと、う!」
しかし、嬉しそうな表情を見ながら、俺はある肝心な事を思い出した。

「あ、三橋。俺、西浦ン時と携帯の番号変わったから」
「え・・・・・・?」
「大学に入ってから携帯変えたから――」
「・・・・・・そうなん、だ」

俺の何気ない一言に、三橋の表情が僅かに強張った気がした。でも、それを確かめようとする間もなく、いつものふにゃりとした笑みがアイツの顔に浮かぶ。


「じゃあ、今度の休み前に連絡する、から」
「ああ・・・・・・」





三橋の電話番号は、高校時代から変わっていなかった。










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