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「でもさ、あ! あ、阿部、飲んで、る?」

がつん、と音がして空になったジョッキがテーブルに一つ増えた。突き出しの和え物(野菜とか魚とか、色々混ざってて割と美味い)を突きながら、はいはいと答えると、水谷は満足そうに頷いた。

「あ、え、で、栄ぐ、ちは?」
「飲んでる飲んでる。大丈夫」

言葉の割にたいして飲んでいない奴は、見るからに余裕がある。酔っぱらった水谷を宥めながら、栄口は腕に嵌めた時計にちらと目をやった。

「この後、何か用事あるのか? それならそろそろお開きにするか・・・・・・」
「あ、別に。それよりも阿部はまだ時間ある?」
「まぁ・・・・・・特に約束も無いけど」

この年齢、しかも男、何時に帰っても親に心配される事はない。気持ちよく回り始めたアルコールの為か、俺も些か寛容になっていた。
じゃあ、後1時間位。と誘われるままに頷いた。水谷は何も聞かれなかったが、聞いたところで結果は変わらなかっただろう。店員が新しい注文を取りに来て、俺は飲み物だけ、栄口は料理を何品か追加した。

「まだそんなに喰うのかよ。俺は腹いっぱいだぞ」

水谷だって、これ以上食べるとは思えない。眉を顰めた俺に、栄口は曖昧な笑みを見せる。

「まぁ・・・足りなくなるよりかはいいだろ」
「足りない・・・・・・」

わけはないだろ。と言いかけた言葉は、続かなかった。
散々飲んだはずなのに喉が渇いて仕方ない。周囲の喧騒や薄暗い照明を抜けて、俺の目は今開いたばかりの店のドアに釘付けになっていた。



『ご、ごめん。お、思ったより色々聞かれて、お、遅れた』









なんで周囲の奴等はアイツに気づかないんだ。
あんなにくっきりと見えているのに。
広くない席の間を抜けて、三橋が向かってくる。誰かにぶつかった拍子に謝る横顔で、髪が変な形に跳ねているのに気がついた。そういや、さっきまで試合だったんだっけ。帽子脱いだら鏡くらい見ろよな。
こっちだ、と手招きする栄口にアイツが軽く手を振った辺りで、俺にも漸く事情が飲み込めた。

「俺、帰るわ―――」

こんな話は聞いていない。付き合ってらんねーよ。視線を逸らして立ち上がろうとした上着の裾が、誰かの手に掴まれる。

「水谷・・・・・・」

すっかり酔いつぶれてばかりいたものと思っていた水谷が、布地の端をしっかりと掴んでいた。

「離せよ」
「嫌だ」

押し殺した声で命令しても、指の力は弛まない。おまけに栄口まで「絶対に離すなよ」なんてと念を押す。ここまで計画的とは思わなかった。だが、歯噛みをしている間にも、三橋はどんどん近付いてくる。「ちっ」ついに、仄暗い店内でも顔が分かる距離になってしまった。
少し吊り上がり気味の瞳が、大きく丸くなる。目ん玉零れそうで、ちょっと笑える。

「――あ、阿部くん・・・っ!?」
「よお・・・・・・」

面と向かって名前を呼ばれたのは何時以来だろう。大人になったって、驚いた顔は変わらないんだな。すっとぼけた事を考えながらも、俺はまだ逃げ道を探していた。
今だったらまだ普通の顔をしていられる。でも1分先は分からない。こういう所を水谷に『往生際が悪い』と言われるんだろうけど、それでも俺は、一刻も早くこの場から逃げ出したくてたまらなかった。

だが、そんな余分な事を考えていたのが悪かった。
俺が「帰る」というのより早く、三橋がふにゃりと笑ったのだ。

「ま、間に合って、良かった――」

少し汗ばんだ額と、ほっとしたような笑顔を見た瞬間。俺は再び椅子の上にすとんと座り込んでしまったのだ。とんでもない、早く帰らねば。と内心焦りながら足を動かそうとしてみたが、膝の力が抜けて立ち上がれそうにない。

「こ、ここ、いいか、な?」
「あ、ああ・・・・・・いいけど」

ついに席を立つより先に、傍らに来られてしまった。問いかけに適当に首を縦に振ると、三橋はいそいそと俺の隣に座る。そういえば高校時代、みんなでファミレスなんかに行った時、ここがコイツの定位置だった。どうりで水谷も栄口も、俺の隣に座らなかったはずだ。
とりあえず店を出たら、2人纏めて締めてやる。
ぶつぶつ唱えていると「あ、あの・・・」栄口から渡されたメニューを眺める横顔が、ふいに此方を向いた。

「な、なんだよ?」

思い切りかち合った視線に、心臓が変な具合に飛び上がる。「うひ」だか「えへ」だか、相変わらず奇妙な声で三橋は笑う。太めの眉がへなりと下がって、記憶の中の顔と重なった。

「久しぶり、だね」
「――久しぶり、だな」

そりゃそうだ。連絡を取らなくなってから、三年以上経っているんだ。案の定、短い応酬の後、すぐに沈黙が訪れる。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

なんてこった、会話が続かない。三年のブランクは伊達じゃないという事か、いや、昔から、三橋と会話を続けられるのは田島か泉か、栄口か。たまに花井とか水谷とか巣山とか沖とか、西広・・・くらいしかいなかったけど。
それにしても、これじゃ短すぎるだろ。曲がりなりにも三年間付き合ってたんだから(バッテリーという意味で)、どうにか出来ないものなのか。
いつの間にか「帰る」事を断念していた俺の思考は、新たな問題に取りかかっている―
―それも結構な難問だ。うう、と唸って横を向けば、相変わらず三橋がにこにこと此方に笑顔を向けていた。

「三橋・・・・・・?」
「何?」
「いや・・・・・・あの、なぁ」

肩の力が、がくりと抜けた。無意識に相当の力が入っていたらしい。
対する三橋は、小首を傾げて聞き返してくる様子が、これのどこがプロ野球選手なのか、問い質したくなるくらいに可愛らしかった。
そういや前に学校で三橋の事が話題になった時、誰かが『可愛い』って言ってたっけ。あの時はそいつの頭がおかしいとか思ったけど(だってそいつは男だ)、こうして見ると確かに三橋は可愛かった。可愛い。可愛い。それとも俺が酔っているだけか?

「どうした、の?阿部くん」

自棄になって残っていたジョッキの中身を空にすると、くるりと鳶色の瞳が回る。「阿部くん、そんなに飲めるんだ。す、すごい、ね」はにかんだ笑顔で空気が色付いた気がする。
なんだお前、それ、女子大生の台詞だろ。おまけに、滲み出るこの甘酸っぱい雰囲気はなんなんだ。今時何処の合コンに行けばこんな空気に染まるというのか。尻の辺りがむずがゆくて、思わず体を捩ってしまった。

「い、や、どうも・・・・・・しない、けど」

苦し紛れに「髪、跳ねてるぞ」と言うと、三橋は慌てて前髪を抑えた。

「そこじゃない、後ろ、後ろ」
「う・・・・・・ぼ、帽子の所為、で跳ねちゃって・・・」

試合後のミーテも身支度も、早々に飛び出してきたから、直す暇無かった。と照れた顔に、開いた口が塞がらない。

「どんだけ急いで来たんだよ・・・・・・」

「だって」と唇を尖らせた三橋は、「久しぶりに、阿部くんに会えるって聞いたから遅刻したくなかったんだ」とまた俺の頭を“ぐー”でぶん殴るような台詞を宣わってくれた。冗談抜きで目眩がした。

「あ、そうですか・・・・・・お疲れ様です」

上手く流す事も出来ず、「ありがとうございます」と深々頭を垂れると。三橋も「阿部くん、も、お疲れ様」と頭を下げてきた。(別に俺は試合を見てただけだから、たいして疲れてないけど。)
そして、狭い席で頭を下げ合ったら当然の結果だが、俺達の額は派手な音をたててぶつかった。

「い、痛っ・・・・・・」
「くっそ、痛ぇ・・・・・・み、はし、気をつけろよな!」
「ご、ごめ、ごめんなさ、いっ!あ、べくん、だ、だいじょう、ぶ?」
「ちょっと待て!大丈夫なのか、は、俺じゃなくて、お前の方だろ!?」

恐る恐る、といった風に伸ばされた三橋の手をすり抜けて、俺はコイツの額にかかる髪を掻き上げた。店の中が薄暗いから良く解らないが、触れた部分はじん、と熱を持っているようだった。「すいません、ちょっと」咄嗟に、脇を通りかけた店員を呼び止めて、氷を持ってくるように頼む。頷いた店員が向きを変えるのを見てから、改めて手を伸ばした。

「とりあえず冷やすけど。帰ってから少しでもおかしい感じしたら、すぐ誰かに連絡しろよ」
「う、うん」

応急処置、と冷えたグラスを患部に当てる。気持ちよさそうに目を細めるのに溜め息を漏らしながら、もう一度「絶対だぞ」と念を押す。がくがくと上下する頭を見て、ようやく俺の心臓も落ち着いた。

――寿命が縮むかと思った。

だが、思わずそう呟いた途端、向かいに座っていた連中が吹き出しやがった。

「阿部、相変わら・・・ず、ぶっ!」
「久しぶりに会ったくせに、いきなり世話焼くなんて“らしい”よな」
「――お前ら・・・・・・」

ジョッキ片手に笑い転げる栄口と、その横で水谷が勢いよくテーブルを叩いている。隣の卓のカップル(特に女の方)の視線が突き刺さってもお構いなしだ。回り見ろ、阿呆。店出たら覚えとけ。
そうこしているうちに不穏な気配を感じ取ったのか、必死の形相で笑いを引っ込めた栄口が水谷を小突き、なんとか馬鹿騒ぎも終わりそうだった。が――

「阿部くん、お、オレっ」

くん、と引かれた方に視線を移すと、三橋が何か言いたげに此方を見つめている。不安そうに揺れる瞳を見ていたら、腹の底に燻っていた焦燥感が体の中を一気に駆け上がった。

「ど、どうした?三橋、大丈夫か!?ちくしょ、あの店員、早く氷持ってこいよ!」
「ちょっと、阿部またっ・・・ぶ、ぶっ!」
「笑うな水谷!」
「わ、笑ってるのは、俺じゃないよ、栄口だよっ!」

苛々しながら周囲を見回しても、さっきの店員が戻ってくる気配はない。後5分、いや後
1分だって待てるものか。「ちょっと席外すから・・・」一応、断りを入れてから立ち上がろうとすると、慌てた顔の三橋がオレの腕にぶら下がるようにしがみついてきた。

「オレ、大丈夫だ、よ!もう全然、痛くない。痛くない、から」

ぶんぶんと音がしそうな勢いで首を振り、ぎゅうぎゅうとプロの腕力で締め付けて下さるところを見ると――何ともない、というのは本当だろう。


「だ、大丈夫だ、よ!」
「――それならそうと・・・・・・早く言え!」
「うひっ!!」



怒鳴った拍子に、うっかり、さっきのカップルと目があってしまった――視線の冷たさは先程の比じゃなかった。









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