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三橋がプロ入りすると聞いた時、俺は回りの奴等ほど驚かなかった。
田島のプロ入り志望は周知の事実だったが、三橋に関しては俺と同じ大学に行くと誰もが思っていたらしい。

『なんで俺達が同じ大学に行かなきゃなんねーんだよ』

呆気にとられた顔の彼奴等の前で、俺はそう何度も言い放ったものだ。

『いくら3年間バッテリー組んでたからって、そんな風にしなきゃならない義務はないだろ』

実際にスカウトが来て分かった事だが、三橋の能力は本人が思っているよりも(そして俺達が思っていたよりも)、業界からは遙かに高く評価されていた。少し深く考えてみれば当然だ。他に類を見ないコントロールと球種。スピードは速球派でないとはいえ、最後の甲子園の時には昔と見違えるほどになっていたし。
そうなれば後は、アイツの能力を引き出してやる捕手の力量次第だ。
プロの捕手の経験と力をもってすれば、俺の何倍も三橋の投球を生かしてやる事は可能だし、やりがいもあるに違いない――嘗ての俺がそうだったように。
だから俺は、三橋の選択を当然の事として受け止めた。

『あいつが夢を叶えられるってのに、なんで俺がケチつけんだよ?』

まだ何か言いたげにしているヤツもいたけど、全部気づいていない振りをした。田島あたりには結構しつこく色々言われたけど、4年経った今では殆ど覚えていない。冗談ではなく本当に。

そんな風にして高校3年の秋が、冬が過ぎて。年が明けると、瞬くうちに別れの時が来た。
卒業式の当日、まだ閉じた桜の蕾の下で、俺達は友人として最後の抱擁をした。ありがとう。頑張れよ。最後だというのに月並みの台詞しか出ないのが、己の貧弱な国語力を露呈しているようだと言うと三橋は少し笑ったみたいだった。
それでも「3年間、オレの球を捕ってくれてありがとう」と言われた時は、流石に苦しくて。抱きしめた腕に力を入れないようにするのが精一杯で。俺は、柔らかい髪と肩越しに見える春の空を睨み付けていた。

『頑張れよ――お前なら、きっと出来るから』

空は静謐の色で、三橋は俺の中に沈んでいる澱など知る由もない。その事を「寂しい」と思うのは、ただの感傷だ。


結局、プロ入りに関しては最後まで「おめでとう」の一言だけで何も言わない俺に、三橋も何も言わなかった。



「ああ・・・・・・でも・・・・・・」

無意識に零れた溜め息の所為か、ふいに記憶の片隅をこじ開けるようにして、懐かしい表情が見えた。

――泣いているような、困っているような、それなのに、微かに笑っているような。

『綺麗』という表現からは程遠いのに、その顔は見る度、心の深い場所に染みた。
高校時代、俺は何回あの顔を見ただろう。折に触れ、数え切れない程見て触れた頬に、頭の中でそっと手を伸ばしてみた。

『三橋――』
『あ、べ・・・・・・くん。オレ・・・・・・』

囁くように名前を呼ばれた。指先に濡れた感触が蘇って、あまりの生々しさに心臓が跳ね上がった。

「阿部?」
「どうしたんだよ、そんなとこで立ち止まって」

「――あ、なんでも、ない」


気がつけば俺は、雑踏の中で呆然と立ちつくしていた。怪訝そうに振り返った水谷と栄口に、もう一度何でもないと首を横に振る。

「本当に・・・・・・あんま無理そうなら――」
「大丈夫だから気にすんな。水谷」

足早に2人に並ぶと、栄口が小声で「重傷だな」と言ったのが聞こえた。生憎、何を言われているのか、意味が分からない程馬鹿じゃない。

「そう思ってたくせに引っぱり出したんだから、責任とれよな」

とりあえず、2杯目は栄口の奢りで。言った途端に、人の良さそうな顔が渋面になる。

「3杯目は無いから・・・・・・」
「2杯で充分」

話しながら改札を通り抜け、階段を上る。ホームに到着していた車両に乗り込むと、殆ど間を置かず電車は出発した。滑るように走り出す窓から外を眺めると、薄墨を伸ばしたように空は暗くなり始めている。車内灯が照り返して、硝子が白く光る。その隙間から見える夕暮れは、プラスティックか何かのようにひどく作り物めいていた。

「水谷、これに乗ったら試合の開始までに間に合う?先発なんだろ」
「あ、栄口。ちょっと過ぎるかも。でも今日はホームだから、投げるの裏からだし大丈夫だと思うよ」
「だってさ、阿部」
「――誰も聞いてないんだけど」

もたれ掛かった金属の扉から不規則な振動が伝わってくる。車内吊りの広告に視線を散らしながら俺は呟いた。ここでまくると『お節介』を通り越してありがた迷惑だ。




でもこうして今、振り返ってみれば、あの時の自分の気持ちを少しだけ上手く説明出来る気がした。





俺は解放してやりたかったんだ。
三橋の事を。
愛情や執着や、
名前こそ違えていてもアイツを縛る物全てから。



例え三橋自身が――それを望んでいなかったとしても。







□□□





席に着くなりにビール樽を背負ったアルバイトを呼び止めれば、愛想笑いとともに紙コップ一杯の酒が手渡された。早速口を付けようとすると、栄口が僅かに眉を顰める。

「もう飲むのかよ・・・・・・」
「飲んで悪いか?水谷の奢りなんだろ」

試合は1回の表を終えたばかりで、席も疎らに空いている。それでも入り口から流れ込む人の列は途切れないから、料金の安い外野辺りが満席になるのに時間はそうかからないだろう。

「・・・・・・飲んでもいいけど、阿部も試合はちゃんと見とけよ」
『――それでは――の選手の――致します。――背番号―番』
「言われなくても、ちゃんと見ておきますよ」

溜め息とざわめきと、場内アナウンスが入り混じる。冷たいうちに飲んでしまえと流し込んだ液体は、苦みがひりつくみたいで喉が痛んだ。バラバラと手を叩く音がして下を見ると、攻守の入れ替わった選手達がベンチから走り出していた。
向かい側の外野から鳴り物の音がして、打席をコールされた選手の名が、大声で叫ばれる。

「――阿部、始まるよ」

球場を満たす独特の雰囲気に、肌の表面がざわりと蠢いた。水谷に促されなくても、視線が吸い寄せられるように一点へと向かう。
グランドの中心。少し小高い丘の上に君臨するのは、かつての俺の投手。鳶色の瞳が見据える先はミットだけだ。

「三橋・・・・・・」

久しぶりに見た三橋は、相変わらず細いけれど、高校時代の華奢な印象は抜け落ちていた。ゆっくりと振りかぶるフォームも、記憶の中のそれと僅かに違っている。
捕手の出すサインに首を振る、頷く。
息が詰まるような一瞬の後、三橋の手元から放たれた白球は絶妙のコースをついてバットに空を切らせた。歓声が上がり、電光掲示板に赤いランプが灯る。

「三橋、調子良いみたいだね」
「そう、だ、な・・・・・・」

同意する為に用意した言葉は、思ったよりも語尾が震えて冷や汗が出た。でも暢気な表情でマウンドを見つめている中学以来の友人に、そんな些細な事を気にした様子はない。再び視線をマウンドに戻すと、三橋はすでに次の投球モーションに入っていた。
今度は鈍い音がして、ボールは内野に転がった。一塁アウト。三塁側の溜め息。一塁側からは、歓声と拍手が三橋の背中に送られた。

「――本当に、調子良いみたいだな」

手にしたコップからまた一口ビールを飲み込むと、いつの間にか生温くなっていたそれは、少しも苦くなかった。


あっさりと打者を打ち取った三橋がどんな表情をしていたのか、窺うのにこの場所は遠すぎる。
それでも、アイツが俺の知らない顔をしているのだけは確かだった。











試合は三橋のチームが序盤から順調に得点して、そのまま勝って終わった。三橋は7回までを無失点で投げきってマウンドを降りた。ゆっくりとベンチの中に消えていく、細いけれど自信に満ちた後ろ姿が俺の瞼に焼き付いていた。

「なんかもう、すっかり『プロ選手』って感じだったよな」
「当たり前だろ水谷、三橋も4年目なんだから」
「4年も経っちゃったんだなぁ。え、でも、4年であれってすごくない?」

球場を出てからも、水谷達は熱気の余韻がまだ冷めないようだった。しきりに『すごいすごい』と連発する奴から、少し離れて俺は歩いた。不自然で無い程度に置いた距離は、会話の内容を途切れ途切れに伝えてくる。

『プロになっても――だよな』
『流石――三橋って感じだけど――』

首筋に忍び込んできた風が冷たい。「寒ぃな」ビール2杯分の火照りは、早くも冷めてしまったようだ。盛り上がる2人の背中を眺めていると、我ながら妙に疲れた溜め息が出た。なんだこれ、俺はおっさんか。


「なぁ、阿部」
「あ、なんだよ?」
「阿部もそう思うだろ?」

突然立ち止まったかと思うと、栄口は俺に話題を振ってきた。内容が分からないまでも反射的に「ああ」と頷くと、この後どうする、と続けて尋ねられた。腹が減ったと水谷が言う。少し飲んでいかないか、と栄口が提案した。

「結構良い店があるんだよね。阿部も予定が無かったら来なよ」
「ああ、かまわないけど・・・」

止めておく、と言わなかったのはコップ2杯のビールの所為だったのか。熱気の余韻に浮かされていたのは、水谷だけじゃなかったのかもしれない。行く。と返事をした俺を見て、水谷達は揃ってにっこりと頷いた。愛想が良すぎて気持ち悪い。










大学に入ってから俺は、まず三橋に関する情報を出来うる限り締め出そうとした。

野球部に入っても極力『西浦』の名前は出さなかった。尤も、本気でそうしようと思ったら最初から野球部なんて入らなければいい。だが俺にとって、それはそれで無理な話だ。
結局、その中途半端な態度が災いしてか、三橋の名前が俺の周囲から消える事は無かった。(俺に言わせて貰うと、うっかり同じ大学になってしまった水谷の所為が6割くらい。後は三橋本人の活躍の所為だ。)

三橋は入団して1年目こそ目立たなかったが、2年目に入って中継ぎのベテランが故障したのを機に登板回数がぐっと増えた。やがてコントロールの良さと粘り強い投球が見込まれてか、昨年からは先発の一角を担うまでになっている。
成績が良ければ有名になる。有名になれば名前が出る。わざわざ目を凝らさなくても今や『三橋』は至る所にいた。
大学の野球部でも、俺の出身校を聞いたヤツは例外なく三橋の事を聞いてきた。
「すごい投手だよ。アイツと組めて良かったと思う」本心には違いなかったが、あまりに熱の籠もっていない俺の言葉に相手は首を傾げる。そのうち『三橋の過去の捕手』には興味が薄れたのか、この話題は極まれにしか聞かれなくなった。

そうして周囲の雑音が少し収まると、俺はまた、自分の目を塞ぐのに専念した。
新聞のスポーツ欄は飛ばす、テレビもチャンネルを変える。家族は怪訝な顔をするし、俺達の間に何があったのかと心配もされた。「別に、アイツはアイツで頑張ってんだから大丈夫だろ」心からの言葉だった、嘘じゃない。
そこまでする必要があったか、と問われれば「そうだ」としか俺には答えられない。大袈裟すぎる、友達まで止める気か。外野の声もけっして小さくなかったが、無理矢理今日まで押し通した。

――でも、それで、良かったんだ。

そのおかげで、今日の試合をこんなにも冷静に見る事が出来た。居酒屋の椅子に腰掛けながら、俺は3年に及ぶ努力が無駄じゃなかったと、密かに胸を撫で下ろしていた。












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