Line


 




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頬を掠める風に、微かな暖かさが混じり始める頃になると、思い出す事がある。
視界一面には緩やかに綻びかけた純白の蕾。細い枝の隙間から見える空は、何処までも青く高く、澄んでいた。
予想と違って涙一つ零さなかった彼は、感謝の言葉だけ告げて去っていった。
その背中が小さく、段々と小さくなって消えてしまうまで見送ってから、俺は自分の足下を見つめた。
前日の強風に煽られたのか、千切れた蕾が一つ、泥にまみれて転がっている。
昨日までは頭上にあるものと同じ立場だったはずなのに、今はもう咲くこともない花。

僅かに先端が開いている様がいっそう憐れで、思わず拾い上げると指先が土にまみれた。




【Line】 アベミハ 未来パラレル 大学四年設定





朝起きる。テレビを付けてからインスタントのコーヒーを喉に流し込む。母さんは朝練の弟に飯を喰わせた後寝ているから、俺は適当に台所にある物を喰って、すっかり軽くなった鞄を肩に掛ける。履き古した靴に足を突っ込むとドアを開いた。
天気は快晴。
今日も、いつもと変わらない朝が始まる。









3年間順調に単位を消化していたおかげで、4年目の今年に俺が大学へ行く事は、週に3回程度だ。尤も、授業が減ったから楽になったか、と言われればそうでもない。
4年になったという事は、この学生生活も一年の期限を切ったという事で、いい加減自分の将来設計というヤツを、決めなければならない時期でもあるという事だ。

「・・・・・・どこにすっかな」

ざわついたロビーの一角に、俺が目指す場所があった。
『進路相談』の看板が掲げられた下に、諸々の情報が張り出されている。誰でも知っているような会社から、聞いたこともない名前まで。無造作に貼られた紙片が自分の未来と直結しているなんて少しも実感が湧かない。それでも、この中から(あるいは自力で)たった一つを選び取らなければならないのだ。
熱心に何かメモを取る学生の隣で、特に目的を絞る訳でもなく端からそれを眺めていると、喧騒の合間から、ふいに聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。

『――だから、昨日の試合で、さ――』
『ああ、格好良かったよな。あの投手って――』
『俺達と同じ年だって、名前なんだっけ――みは』
『そうそう、三橋――』

――三橋。

その時の俺は、とっさに振り向きそうになる自分を抑えるのに必死だった。
こんな場所でアイツの名前を耳にするなんて思ってもみなかった――が、次の瞬間、そんな考え自体が馬鹿げている事にも気がついた。当たり前だ。アイツはそれだけ有名になったんだ。言い聞かせているウチに、胸の気持ち悪い動悸も収まってくる。細く息を吐いてゆっくりと後ろを振り返った。


何処かで見たような顔の学生が数人、楽しげに話しながら歩いている。片手に握られているのは今朝のスポーツ新聞なのだろう。
折り畳まれた紙面の端から、見慣れた(見慣れていた)鳶色の瞳が片側だけで俺の方を見ていた。



□□□



「阿部さぁ、今度の就職説明会受けるつもりあるの?」
「あ、ああ。とりあえず聞くだけ聞いとくつもりだけど」

そっかぁ。と気の抜けた声で呟いてから、水谷は紙パックの飲料を一口啜った。暖かな日差しの下、校内の芝生の上で寝ころんでいた俺は、その横顔をぼんやりと眺めていた。何処を見ているか分からない曖昧な視線に、記憶の隅が小さく痛む。何だっけ。掠めただけで手は届かない。
奇妙なデジャヴを誤魔化すように「お前はどうすんの?どこか受けるとこ決めてんのか?」と聞き返すと、旧友は空になったらしいパックを潰しながら「俺も、とりあえず」と呟いた。

「そんなんで大丈夫なのかよ」
「阿部こそ人の事言えんの?」
「――それも、そうだな」

苦笑を零さざるを得ない俺に、水谷は「だろ」と締まりの悪い笑顔を向ける。コイツのこの笑顔は高校の時と変わらない――あの頃は、まさか大学まで一緒になるとは思ってもいなかったが。何を考えているのか、底の方が読めないのも昔と変わらなかった。そんな風にぼんやりと物思いに耽っていると、丸めたゴミを手に水谷は立ち上がった。

「あーあ、俺はそろそろ次の授業行こうかな」
「お前まだそんなに単位残ってんのかよ?」
「しょうがないんだよね。『後1回欠席したら、単位やんないぞ』って教授に言われちゃってるしさ」
「全く・・・・・・」

この期に及んで、と思わず本気で呆れそうになる俺に「阿部、明日の午後空いてる?」と、今までの会話とは全く関係のない質問が突き出された。



「あ、ああ・・・・・・空いてるけど」

脈絡の無さに眉を顰めながらも頷いた事を、後で俺は死ぬほど後悔する。が、水谷はのんびりした口調で尻についた草の屑を叩いていた。

「じゃあ、空けたままにしといてよ。栄口とかにも話してあるしさ」
「何の話だよ?」

懐かしい名前を聞いたはずなのに、何故か素直にそう思えない。そして、こういう時の予感は嫌になるほど良く当たる。案の定ヤツは続けて思ってもみない爆弾を投げつけてきたのだ。

「金曜の夜のナイターチケットがあるんだ。久しぶりの野球観戦だし、阿部も気合い入れといて」
「はぁ?」

――なんでそれくらいで気合い入れなきゃならないんだ。

軽く流すつもりだった言葉が喉に絡まった。生温い水の固まりがつかえたように細い器官を圧迫する。阿部、と名前を呼ばれて漸く息が漏れた。無意識に握りしめた掌に汗が滲んでいる。

「どうしたの?どっか調子悪かった?」
「別に、――水谷、悪いけどやっぱりその試合見に行く話は」

「駄目だよ」

遮られた台詞を水谷は予想していたようだった。そして、俺が反論する余地を与えるつもりもないらしい。常になく厳しい口調で、間髪入れずに指示が出された。

「明日の6時。駅前に集合だから」
「――・・・・・・俺は、行かねーぞ」
「空いてるって言った」
「何処行くか聞いてなかったから・・・・・・」

情けない事に、俺が言えた文句はこれくらいだった。しかも、自分でも笑ってしまうくらい掠れた声。同情を誘うつもりなど毛頭無かったが、水谷は再び「駄目だ」と首を横に振った。

「もう観念したら?流石に往生際悪すぎると思うんだけど」

いい加減、ちゃんと見てやれよ。

トドメを刺したのは最後の一言だった。『誰を』と言わなかったのは、水谷なりの気遣いなのだろう。昔の自分だったら、それでもまだ何か言い返したかも知れない。出来なかったのは、それが水谷の言う『潮時』だからだと、俺は自分でも分かっていた。しばらくしてから無言で頷く此方を見て、水谷もようやくいつものへらりとした顔に戻った。

「・・・・・・お前には騙されたよ」
「人聞きの悪い事言うなよ。阿部の事考えての措置なんだから」
「どうせ、お前だけの考えじゃないんだろ?」
「まぁね。そこら辺はご推察の通りかと」

さっき名前の挙がった栄口なんかも一枚噛んでいるんだろう。お節介野郎、と心の中で毒づいた。球場には行ってやる、試合だって見てやる。でも、それ以上は何もするもんか。悔し紛れに浮かんだ思考で無理矢理心を埋めようとする。


――ああ、でも、どうせ。


それが出来るのなら、こんな風に狼狽えるわけもないか。客観的に見れるようになっただけ、時間は過ぎたという事なのかもしれない。







翌日、約束の時間通りに駅に向かうと、指定された目印の前に旧友の顔が見えた。『のたうち回る未知の生物』を模したとしか思えないオブジェは、どこら辺が芸術なのか俺にはさっぱり理解出来ない。こんな悪趣味な物を金かけて飾るくらいなら、殺風景でも何も置かなければいいのに。自分だったらそうするけど、まぁ、その辺りは「社会の事情」ってことなのだろう。

「阿部、久しぶり」
「よお・・・・・・水谷、はまだ来てないのか」

周囲を見回すと、栄口が「5分位遅れるってメールがあったよ」と答えてくれた。言い出した本人が遅刻か、とぼやく俺に
「かわりに球場で生ビール一杯ずつ奢るってさ」
柔らかい笑顔の裏でどんな交渉が行われたのだろうか。「じゃあ、いいか」纏めて恩恵にあずかる身としては、深い追求を止めておこうと思った。

「そういえば・・・・・・花井はどうした?」

今日、一緒に来る面子として聞かされていた花井の姿も見えない。時間には比較的真面目な奴だったから。ふと気になって尋ねると、急に来れなくなった。との答えが戻ってくる。

「花井は田島の試合を見に行ったよ。なんだか今日になってスタメンに復活するって連絡があったんだってさ」
「おお、そりゃめでたい事で」

去年のシーズン終盤で怪我をした田島も、ぎりぎりオープン戦に間に合ったらしい。怪我をした当時はマスメディアでも散々騒がれていて「あの時は本人よりも花井の方がまいってたよな」と、笑えない冗談も口にしたが、この調子なら今年も活躍が期待できるのかもしれない。そんな風にかつての副将同士、四方山話で時間を潰していると、駅から流れ出してきた人混みの中に水谷の顔が見えた。


「栄口、阿部!」

スーツの群を掻き分けるようにして、此方に近付いてくる。水谷はたっぷり5分程かかって、俺達の目の前に到着した。

「遅れて、ごめんなさい!」

両手を合わせて、がばと下げた頭を「俺はエビスだからな」と小突くと、水谷の喉がぐぅと鳴った。恨めしそうな視線が俺の隣に向けられたが、栄口はそれを綺麗に受け流す。流石だ。

「――分かったよ・・・・・・阿部はエビス、で。栄口は・・・」
「俺はラガーで」
「さようですか・・・・・・」

じゃあ、俺は発泡酒かな。情けない声を聞いて、俺と栄口は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。











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