なぁ、ここがお前の来たかった場所なのか?
ここに来れば、またお前に会えるのか―――





約束の地







ざわりと、薬師寺の足の下で緑の芝がつぶれた。どこか懐かしい感触。
今日は試合が無いために、少し色の褪せた観客席は一層寂しげに見える。

「・・・・・・ああ、ここなんだな」

誰もいないはずのベンチにお前の姿を探す。
聞こえもしない歓声に背中を打たれて、空っぽのマウンドに視線をやった。

あの場所で、お前は投げていたのかな。もしかしたら。

『もしかしたら』はお前が一番嫌いな言葉だったな。でも、今の俺はそう思わずにはいられない。
撒水機から振りまかれた水が、笑える位に小さい虹を作る。手が届きそうなくらい近くて、でも決して触れる事ができない。そんな所は普通の虹とちっとも変わらないけれど、より小さく儚い虹は、刹那の夢のように俺の回りを踊っていた。

「        」

ゆっくりと芝に膝をつく。葉に付いていた水が乾いた生地に吸い込まれて、ぼんやりとした染みになった。

「なぁ・・・」

ここにいないお前に呼びかけて、濡れた芝を掻きむしる。爪の間に黒い土が詰まった。あの夏の日に、帰り間際に持ち帰った一つかみの土。あれと同じだよ。覚えているか?
あの時の土はまだ実家に置いてある。今の寮には流石に置いていないけれど、何かの折にふとあの感触を思い出す時がある。
ちょうど、今の様に。

「どうして・・・・・・」

どうしてなんだろうな。今。ここにお前がいない。

ここはお前との約束の場所のはずなのに。何故、お前の姿が見えないんだろうな。

「眉村・・・・・・」

誰もいない野球場で呼んだ名前は、微かに震えて消えていった。




□□□



「おう!薬師寺。もう着いてたのかよ」
名前を呼ばれて振り返れば、そこには高校時代よりも遙かに精悍さを増した吾郎が立っていた。軽く右手を挙げて挨拶のつもりだろうか、ざっくばらんというかどこか気の置けない雰囲気は昔と少しも変わらない。

「ああ、今朝着いたからな」
答えながら確信を持って彼の後ろを見つめると、やはりそこにはもう一人の旧友がいた。

「今朝着いたなら、もっと早く連絡をくれれば良かったのに」
「悪かったな、佐藤。一人でここを見てみたかったからな。敢えてすぐには連絡しなかった」
まったく。君も相変わらずだね。と少々皮肉った調子も変わらない。変わらないといえば、この二人の関係は変わらないな。と薬師寺はぼんやりと思った。変化しない物全てが良いとは思わないが、昔と変わらない彼らの様子を見ているのは、ひどく嬉しかった。

「お前は、こちらにも慣れたようだな」
「まあね。さっさと正捕手のポジションになって、吾郎くんと対戦しなきゃならないから、大変だよ」
そう話しながらも綻ぶ口元は、寿也の米国(こちら)での充実ぶりを教えてくれるようだ。
そんな寿也につられるように、薬師寺にも微かな笑みが浮かぶ。

「良かったな、お前も」

「うん。本当に良かったと思うよ。」

寿也がFAの前に渡米する事は、相当な困難が伴った。球団との交渉も難航したが、それ以上に日本に残す事になる彼の家族の存在が、寿也を最後まで悩ませた。老いた祖父母と、漸く再会できた妹や母親。彼らを置いていく事は、自分が『身内』と決めた人間に対して、ことさらの執着を見せる寿也には辛すぎた。
それでも尚、海を渡る事を決めたのは吾郎の存在が、何にも代え難かったという事なのだろう。
そして、そんな寿也の苦悩を聞き背中を押したのは薬師寺だった。

『ありがとう。』

旅立つ日。空港の報道陣に呑み込まれた寿也とは直接言葉は交わせなかったから。あの時の感謝の言葉は、薬師寺の携帯電話に届いた短いメールだけだった。

「ありがとう、薬師寺」
「ああ・・・」
改めて伝えられた言葉は、今度は直接薬師寺の耳に届いた。こそばゆいのを隠すように、軽い調子で答えてみたものの、寿也を相手にどこまで誤魔化せているか自信は全くなかった。

「おいおい。俺の事ほっぽっといて二人で何話してやがんだよ!」

そんな二人を見かねてか、いつの間にかマウンドに立っていた吾郎が駆け寄ってくる。

(そんなに焦って来なくても、お前の恋女房は浮気なんかしないぜ。)

本当に口に出したなら、吾郎はきっと憤死ものだろう事を考えながら(寿也はたぶん、平然としているけれども)、賢明な薬師寺は苦笑を浮かべるだけに留めた。

「・・・お前も大変だな・・・」
「まぁね、昔からだから慣れてるけど。あれって、僕がいつも追いかけてくると思ってるんだよね、きっと」
「・・・いや、そんな事は無いと思うが」
「・・・・・・」
段々と冷えていく寿也の言葉を聞きながら、流石の薬師寺も、今回は自分がどこまでフォロー出来ているか自信がなかった。
これ以上、事態が拗れそうになる前に背中を押してやる。

「ほら、迎えにいってやれよ」
迎えに行くような距離じゃないよ。文句を言いながらも、どこか嬉しそうな寿也の背中を見て、ほっと息を吐いた。


(俺は背中を押してばっかりだな。)


いつも先を走る吾郎と、追いかける寿也。それがこの二人にはちょうど良いのかもしれない。そうやって、この二人はいつまでも行くのだろう。


その事が薬師寺には堪らなく羨ましかった。