あれで終わるのが嫌な人のためのおまけ(笑)。▽




ホテルの部屋に戻って、昨晩から閉めっぱなしのカーテンを引いた。途端に、底抜けに明るい西海岸の日差しが部屋の隅々まで照らす。

「おい・・・、まだ具合が悪いのか?」
「・・・・・・う」

ベッドの上で、もぞもぞと掛け布団が波打った。薬師寺は布にくるまっている身体を慎重に揺すりながら言葉を続ける。

「何か、食べるか?それに水分も摂らないと、あっという間にばてるぞ」
「・・・・・・うう」

そうして、備え付けの冷蔵庫から冷えた水を取り出し、ルームサービスに何か軽い物でも頼もうと受話器を取り上げた時だった。

“ピンポーン、ピンポン。ピンポン。ピポピポ。”

『ご、吾郎くん!何やってんだよ!!』
『だって、寝てるんだろ。これ位しないと起きねーじゃん』
『そんなのは君だけだよ!第一、眉村は寝ているんじゃなくて・・・』
『何言ってんだよ、寿。もうこんな時間なんだぜ』
激しいインターホンの音とともに、ドアの向こうで吾郎と寿也の押し問答をしている声が聞こえてきた。

(もっと、・・・・・・ドアの分厚い宿を選ぶべきだったな・・・・・・。)

呻き声をあげる薬師寺に、反省する時間は長くは与えられなかった。

「やーくーしーじ!まーゆーむーら!!」
ドンドンドン。インターホンでは埒があかないと思ったのだろうか、今度はドアを直接叩く(というか殴る)音が聞こえてくる。もちろん名前を呼ぶ事も忘れない。
だから、いい加減うんざりしながらも薬師寺が顔を出した時。同じタイミングで左右の部屋のドアが開いて、迷惑千万だという視線を浴びせられたのは仕方がないとも言えた。

「ほら、入れ茂野!」
両隣に迷惑にならない程度の大声で、吾郎の襟首を掴んで部屋に引きずり込む。後から続く寿也は、それなりに申し訳なさそうな顔をしていた。よし、こっちは事情をちゃんと理解しているな。慰め程度の安堵だが、ないよりはマシだ。
ぎゃあぎゃあと喚き立てる大人げない方を、とりあえずトイレに放り込んでドアを閉める。

「・・・・・・ふう」
「ごめん、薬師寺・・・。止めたんだけど・・・」
相変わらずうるさいドアにもたれて、二人がかりで蓋をした。
「佐藤だって、米国に来てまで茂野の面倒を見る事になるとは思っていなかっただろう。仕方ないさ」
「うん、そう言ってもらえると助かるよ」
寿也がほんのりと嬉しそうだったのは、自分の言葉のどの部分に対してだったのか。薬師寺は敢えて考えないようにした。(この技術は高校時代の訓練の賜物だ。夫婦喧嘩は犬も食わないというからな。)

「それで・・・薬師寺」
「あ、なんだ?」
「眉村の具合って、そんなに悪いの?」
隣を見れば、眉を顰めた寿也と眼があった。心配性でマメな所も昔と変わらないらしい。本当に良くできた恋女房だと感心したが、口に出したところで寿也が喜ぶとは思えなかったので、その点については黙っておく。
「ああ・・・、でもいつものだからな。そんなに心配する事はないぜ」
お前も相変わらず心配性だよな。眉村の事まで心配しているなんて、茂野が聞いたら大変だな。とからかうように言ってやれば、寿也もさらりと返してきた。

「薬師寺こそ、人のこと言えないくせに」

「・・・・・・」

ああ、確かにお互い様かもな。のど元まで出掛けた言葉を押し殺す。
時には沈黙が、どんな言葉を尽くすより遙かに雄弁になるのだ。



□□□




「・・・、もう茂野達は帰ったのか?」
「ああ、佐藤がとりあえず連れ出してくれたぞ。でも、夕飯は一緒に食べる約束はしたからそれまでには、どうにかしろよ。」
「・・・・・・」
「・・・眉村?」
シーツから伸びてきた手が、薬師寺のシャツの裾を掴む。明らかに力の籠もっていない手を、薬師寺はやんわりと握り返した。
「・・・すまない。薬師寺」
「あやまるな。俺はお前に謝って欲しいなんて少しも思っていないからな。ほら、水でも飲んでおけ」
「・・・・・・解った」
ようやくといった様子で、ベッドの上に身を起こした眉村に、薬師寺が出しっぱなしになっていたペットボトルを持たせる。室温で表面に汗をかいた容器は、眉村の手の中でしばし所在なげに見えた。
「・・・・・・ん」
乾いた音でキャップが開けられた事が解る。軽く唇を湿らせると、眉村の喉がゆっくりと上下して生ぬるくなった水分を嚥下していくのを、薬師寺は黙って眺めていた。
「それにしても・・・、お前もあのクセはまだ治らないんだな・・・」
「・・・・・・悪かったな、ほっといてくれ・・・」
「まぁ、俺には結局どうにも出来ないからな」
「ちっ」
悔しげに舌を鳴らして視線を外した横顔に、高校時代の面影を感じて薬師寺は唐突に胸を突かれた。卒業して、別々のチームに入り。『野球』という共通の世界に居ながらも、現実の自分たちの距離はどんどん離れてゆく。
当たり前の事だと納得していたはずなのに、この感情は何なのだろうか。急に湧き上がった焦燥感は、眉村が渡米した時ですら感じなかった物だ。
薬師寺はそんな己に途惑い、振り切るように軽口をふった。
「でも、今度来る時は勘弁してくれよな。俺だってお前のベストなピッチングが見たいからな」
「俺だって・・・久しぶりだったんだ。お前が・・・」
珍しく言い訳めいた事を口にしながらも、最後まで言い切れない眉村を見て、薬師寺は思わず大きな声を出しそうになって、慌てて息を呑んだ。軽く呼吸を整えると、改めて眼前の投手に問いかける。
「眉村。ひょっとして俺、が原因なの・・・か?」
俺が来ると思ったから、緊張したのか?言葉は戻ってこずとも、真っ赤に染まった耳の縁がその答えだった。

「それで・・・、はは」
腹下すなんて・・・。笑うべき所で無い事は解っていたが自然と弛む頬を止められない。明らかに、眉村のプライドを逆撫ですると気づいているのに。

「薬師寺、笑うな・・・」

渡米する前に、一度は克服したはずのクセがぶり返す位、彼が自分の存在を気にしてくれていた。眉村の勇姿が見れなかった事は、本人の思っている以上に残念なのだが。湧き起こったばかりの理解不能な焦燥感も含めて、マイナスのベクトルを一気にひっくり返すような(薬師寺にとっての)問題発言だ。

「はは・・・、お前がな、眉村」
「だから、笑うなと言ってるだろ!!」
「いや、悪かった。でも代わりに約束してくれ」
「なんだ・・・?」
「今度会った時こそ、お前の最高の試合を見せてくれよ」
「・・・勿論だ」
約束するまでもない。と言い切る眉村に、敢えて薬師寺は同じ言葉を繰り返した。


「いや、約束して欲しいんだ。今日、この場所で、お前に」




椅子から立ち上がった薬師寺は、ふと何かを思いついたような仕草でポケットに手を入れる。そして再びそこから出てきた指先は、青灰色の欠片を一つ、窓際に置いた。

「薬師寺、それは何だ?」
「ああ、これか。ただの石だよ」
「石?」
訝しげな表情の眉村に対して、薬師寺は至って機嫌が良さそうに見える。何の変哲もないただの石ならば、何故そんなにも愛おしそうに彼の瞳は見つめるのだろうか。


『薬師寺・・・?』


眉村の問いかけは唇から漏れる事はなかった。
言葉を出す事で、今の薬師寺の表情が無くなってしまうのなら。それよりも今は、ただ穏やかに微笑む彼の表情を、眉村は見つめていたかったからだ。




空気を入れ換えるために開かれた窓から、外界のざわめきと暖かな風が吹き込んできた。白いカーテンが翻って隠されていた景色が広がる。そして、四角い枠に切り取られた風景からは、緑の芝に覆われていたあの球場が見えた。

(これは、お前が投げた球場の石だから)

誰が見てもただの土と石―――

始めは他愛もない思いつきだったが、今この考えは薬師寺の中でひどく大切な物に変化していた。
日本に帰ったら実家に行って、あの土を持ってこよう。いや、持ち帰らなくても良い。この石と並べておければそれでかまわない。この二つが一緒にある事に意味があるのだ。

感傷的と言われてもかまわない。


―――この石が自分と眉村の新しい約束の地を記憶するものなのだから。



end