【side M】



僅かに開いた唇から、ちろりと小さな舌の先が覗いた。鮮紅色のそれは、ひどく扇情的で自分が吾郎に誘われているかのような錯覚を起こさせる。吸い寄せられるように顔を近づけ名前を呼ぶ。

「茂野・・・」
身体を繋げたままに、手のひらを吾郎の頬に寄せると、焦点を失いかけていた吾郎の瞳に光りが戻った。

「・・・・・・」

口元の微かな動きでは、彼が何を言っているかまでは判らなかったが。いつもなら、たいして気にも留めない事が、引っかかったのは何かの知らせだったのかもしれない。
締め付ける内壁の動きに反射的に突き上げそうになるのを止めて、吾郎の顔を両手で挟むようにして見つめた。

「どうした・・・?」
「・・・なんで」
なんで、眉村はそんな事を聞くんだ?と、不思議そうに聞き返されても。なんとなく、としか答えられなかった。行為の最中に気にするような事でなかったかもしれない、でも今聞かなければいけない気がしたのだ

「お前、何を考えている?」
「・・・・・・別に」
問いつめたように聞こえてしまわないか、ちらりと不安がよぎったが止められない。ぷいと背けられた顔に苛立ちが募り、無理矢理に自分を向かせたところで、吾郎の視線は目の前でない何処かを見つめていた。

(また、行ってしまうのか?お前は・・・)

「茂野・・・答えてくれ・・・」

強引な動きとは裏腹に、乾いた喉からは絞り出すような声しか出せない。マウンドに立つ直前のような目眩がして、手のひらの中の吾郎の存在さえもあやふやになる。

押さえる事が出来ずに零れた言葉は、きっと吾郎の耳には届かない。零れた言葉の欠片だけが、乾いた部屋の空気の中で小さく消えていった。


□□□






「あ・・・」

微かに唇が開き、息が漏れる。
ゆっくりと目蓋を押し上げると、人工的に白い光が眩しくて、吾郎は目元を擦った。どれ位の時間か解らないが、すっかり寝入ってしまっていたようだ。

「まいったな・・・。おい、眉村。今、何時だ?って、え!?」
しかし、呟きながら外に視線を向けると。窓の外にビルの照明が黄色く連なるのが見えて、吾郎は眉村の答えを待たずに、慌てて起きあがろうとした。

「おい。待て、茂野!」

「ちょっと。待てって・・・、何だよ」

ベッドから降りようとした吾郎の身体を、眉村が後ろから抱き込んだ。

「茂野、聞きたい事がある」



□□□



首筋に触れる眉村の硬い髪の感触がくすぐったくて、悲鳴をこらえるのも一苦労だ。ちくちくとした刺激から顔を背けつつ、後ろを振り返ろうとしたが、肩口に押しつけられた顔は殆ど見えなかった。

「いったい、何を聞きたいって言うんだよ・・・」

行為後の脱力感から、どこか投げやりな口調になってしまうのは大目に見て欲しい。だが、そんな吾郎の態度も、今日の眉村は大して気にした様子はなかった。それが鷹揚さから来るものではない事に、この時の吾郎は気づきもしなかったが―――


吾郎とは別の角度だが、眉村も回りくどい表現は使わない。

「お前、いったい米国(向こう)で何があった?」

オフシーズンに入ったとはいえ、事前の連絡も無しに冬空の下。吾郎が現れた事のおかしさを、眉村も気づいたようだった。
問題の核心をつく直球に、吾郎も一瞬怯んだが。答える事を了承した手前、これ以上黙っている事は出来ない。

「解った・・・」

「じゃあ、言ってみろ」


結局、吾郎は歯切れも悪く、投手としての自分の状態が良くない事や、澱のように溜まった不安を説明した。

「だから、急に帰ってきたには、そういう理由(こと)なんだよ」
「・・・・・・」
「何か言えよ、お前。俺はちゃんと答えたからな」
「・・・本当に、それだけか?」
「それだけか、って。まだ何かあるっていうのかよ?」
これ以上、格好悪い事言わせるなよな!まぁ仇敵のお前にこんな事、愚痴ってる時点で終わりかもしれないけど・・・。若干の照れを含んだ言葉にも、眉村の疑問は弛まなかった。

「佐藤には言っていないのか?」
「は?なんで、そこで寿が出てくるんだよ?」
それこそ心外だという様子で、吾郎は自分に身体に回された眉村の腕に齧り付く。白い歯が離れると、そこには微かに朱い痕が残り、眉村の肩がびくりと揺れた。

「今まで、こういう時はいつも佐藤に相談していただろ」


(それで、いつも俺の前では何もない風な顔をしていた。)


「別に・・・いつもって訳じゃねぇよ」

「じゃあ、なんでだ?今回に限って、何を考えている?」



□□□





「あー、くっそー、面倒臭せぇな」

頭をがしがしと掻きむしりながら吾郎は呻いた。

「俺が、こういう事に向いていないって判っているだろ」
「・・・それでも、説明しろ」

俺が納得するまで離してやる気なんてない。吾郎の胸元でがっしりと組まれた腕はそれを語っていた。

「どうしても、か?」

「どうしても、だ」

押し問答のような短いやり取りの末、結局、吾郎は説明せざるを得なくなる。そうして、軽く息を吐いて呼吸を整えると、吾郎は話し始めた。

「『寿』と『俺』は同じモンなんだよ」
「は?」
「だから、・・・俺たちは『同じ』なんだよ」
「何を言ってるんだ、お前は?」

眉村が全く納得していない事は、憮然とした表情と口調が語っている。対する吾郎も、『やはり納得しなかったか』と、半ば諦め気味の溜め息をついた。

「眉村には、解んねぇかもしれないけどよ」
同じモンなんだよ。それしか言えないんだ、と吾郎は呟く。小さく何気なく吐かれた一言だったが、その言葉は明らかに眉村の中の苛立ちを、今までに無いほど強烈に抉った。

「・・・・・・」

腕をほどき無言で立ち上がった彼を見て、吾郎も驚いたようにベッドから飛び降りる。いつも素足に触れるラグの柔らかい感触も、今は剥き出しコンクリのように冷たかった。

「おい、待てよ!」


「・・・お前、本当になんのためにここへ来た?」

肩に手をかけて振り返らせると、ようやく眉村は吾郎に視線を合わせる。その事にほっとしたのも束の間、投げかけられた言葉の冷たさに、今度は吾郎の表情が強ばった。


「なんでって・・・」


「そんなに佐藤がいいのなら、俺じゃなくてあいつのとこに行け」


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