□□□先生の彼氏□■□8



「せ・・・んせい・・・?」
首に腕をからめて強く抱き寄せると、少し癖のある柔らかな感触が頬をくすぐる。
自分より僅かばかり高いらしい身長が、やけに癪に触って、吾郎はますます寿也を抱き込んだ。

「付き合ってやるって言ってんだから、素直に喜べよ」
『他人なんか、信じられない』っていうのも、お前らしいけどな。と軽い調子で言ってやれば腕の中で寿也が震えるのが判った。油断すれば離れようとする身体を、絶対に離すまい、と力を込めて抱きしめる。離れようと藻掻きながらも離れる事が出来ないのは、それが寿也の本音なのだろう。
「・・・・・・」
無言の戦いは、そう長くは続かなかった。ようやく大人しくなったのを見計らって、吾郎は努めて穏やかに言葉を紡いだ。

「お前の方の事情とか、そういうのは良く判らないし同情する気もない。でも、お前が俺の事を本当はどう思ってるかは、わかっているつもりだから」
途端にびくりと跳ねた、腕の中の寿也の耳元に、ゆっくりと唇を寄せる。
黒髪の中から覗く白い耳は、貝殻のような綺麗な曲線を描いていた。


「俺も、お前の事が好きだ」


その一言だけを囁いて、やんわりと寿也の身体を解放する。

(離れた途端に“寂しい”なんて、俺も相当な重傷だよな。)

追いつめたようで、実際に追いつめられていたのは自分ではなかったのか?
のろのろと頭を持ち上げようとする教え子を見つめながら、自分の心臓が走り出しそうなくらいのリズムを刻んでいるのに気がつくと、吾郎は心の中で少し笑った。

「・・・佐藤?」
なかなか顔を見せない寿也に、焦れた吾郎が再び声をかける。
所詮、大人だってそんなに余裕は無いのだ。

「・・・・・・。」
微かな返事が聞こえた気がして、かけた言葉の続きを飲み込むと、

「・・・ですね」
まっすぐにこちらを見つめる鋭さは変わらなかったが、白かった耳の縁は、窓から見える夕日のような色に染まっていた。


「本気にして良いんですね!」


噛み付くような言葉を向けながら、寿也は、耳だけでなく今や顔全体が綺麗な朱に染め上げられている。

「お、・・・おう」
それを、しばらくの間は呆然と見つめていた吾郎だったが。やがてつられるように、自分の顔も熱を帯び始めたのに気がついた。

(今この場を第三者に見られたら、その人物はなんと思うだろう。放課後の教室で教師と生徒が見つめ合っている(ちなみにどちらも男だ)、行間に漂う雰囲気に甘さは感じられないが、それでもただならぬ状況は察知できるはずだ。)

それでも、まだ強く唇を噛み締めた寿也の表情に、胸の奥がつきりと痛みを覚える。
手を伸ばして、一歩を踏み出せば埋まる距離が、こんなに長く感じられた事はなかった。
恐れを知らない純粋さが、子供の特権というのならば。気がつかない振りをする狡さや嘘は、大人の特権だろう。
今はまさにその特権を行使する時なのだ。
抱き寄せた時と違う速度で、ゆっくりと手を伸ばす。全身の毛を逆立てた子猫のような寿也の、張り詰めた表情には、わざと気づかない振りをした。
軽く触れるだけで強い熱を感じる頬は、気温の下がり始めた教室でひどく安堵感を与えてくれる。

「だから、ほっとけないんだよな」
何気なく零れた言葉に、寿也の口元が戦慄いた。

「先生・・・、貴方、本当に馬鹿ですよ」
「・・・馬鹿で悪かったな」
『馬鹿』より他に言う事があるだろ?態とらしく眉を顰めて言い返すと、寿也の喉から震える声が絞り出される。

「・・・すみません」
「今更、あやまるなよ」
「・・・すみません、ごめんなさい。せん・・・せ」

頬に寄せた甲に、濡れた感触を覚えて見上げれば。寿也は添えられた吾郎の右手を上から握りしめながら、ぽろぽろと涙を零していた。

「泣くな、泣くなよ・・・」
どうして彼はこんなにも自分の心を掴むのが上手いのか、涙を拭いながら、吾郎は問い質したくてたまらない気持ちに襲われた。40人以上いるクラスの中で、野球部というだけでなく、同性であるという根本的な事を差し引いて、なお寿也の存在は自分を魅了してやまないのだ。
たぶん最初から、相手に囚われていたのは吾郎も同じで。それに気がついたのは少しばかり遅かったが、どうやら間に合わせる事が出来たらしい。ぎりぎりなのは寿也も同じ様なので、その点についてはお互い様だ。

「あやまれなんて、言ってないだろ・・・、お前は、全く・・・」
どうしようもないやつだな。と呟きながら、なかなか止まらない水滴を指だけでは拭いきれずに、吾郎は唇を寄せて吸い取った。微かに苦みを帯びた塩味に、眉根を寄せると、呆然とした面持ちの寿也と視線が重なった。

「せんせ・・・い?」

未だに『信じられない』という表情をする彼に、大人の余裕を見せるつもりで、今度は寿也の口の端に触れるようなキスをおくる。
そのまま、柔らかな感触に取り憑かれたように、2回、3回と繰り返す。

しかし、戯れのような吾郎の軽いキスは、すぐに寿也の強引なまでのそれにとって代わられた。

「ちょ、・・・っく、う・・・ん」
瞬きする様な間に形成は逆転して、今度は吾郎が寿也に翻弄される番だった。
こちらを喰いつくそうとするような激しい唇に、息をつく暇さえ与えてもらえない。それは最初の晩を彷彿とさせるような激しいキスだったが、身体の熱が上がる速さは比較にならなかった。

「ん・・・、まっ・・・て、て・・・、待ちやが・・・れ!!」
やっとの思いで身体をもぎ離した時には、吾郎の髪もシャツもぐしゃぐしゃで、事もあろうに唇の端からは飲み込みきれなかった液体がこぼれ落ちる始末だ。
相当に力の入らなくなった下半身に、叱咤激励を飛ばして上体を支える。蹌踉けた拍子に、支えようとしてくれたのか寿也の腕が腰に回された。

(こ、こいつ、いったいどこでこんなキス覚えやがったんだよ!!)

とても高校生とは思えないような技を披露してくれる寿也に、激しく動揺している内面を悟られまいと、さりげない風を装って手の甲で唇を拭ったが。そんな仕草さえも、余韻に潤んだ瞳と相まって、余計に相手を煽る事などは『大人』の吾郎にも到底予測のつくものではなかった。

「ちょっと・・・、離れろ、お前」
ゆっくりと呼吸を整えながら、腰に絡む腕を外す。
「やっぱり・・・、ダメですか・・・」
わずかに距離をとって、息を整える吾郎に寿也のうなだれる姿が目に入った。縋り付くような瞳に罪悪感が刺激されて、不必要な位に胸が痛い。これが犬ならば、さしずめ耳も尻尾も垂れて“きゅーん”と鼻でも鳴らしそうな風情だ。

(犬っていっても、こいつの場合は大型犬だよな・・・。)

それも、肉の大好きな、大型犬だ。

「ダメっていうか、・・・あれだな。時と場所を考えろっていうか・・・」

「じゃあ、教室(ここ)じゃなきゃ良いんですね!!」

『同意を得たり』とばかり、ぱあああっと輝く表情に、吾郎は胸の内でしまったと舌打ちをした。これが先程まで、あんなに殊勝な態度をとっていたやつのする顔だろうか?気づけば、また寿也のペースに嵌められてしまっている。
「そうと決まれば、さっさと移動しましょう」
と、手を引かれるにいたっては、先程の、あの涙すら心からのものだったかは疑わしい。

(さすが・・・、これが俺の知っている『佐藤寿也』だぜ・・・)

いや、これも自分だけが知っている寿也の顔だろう。そう思って喜んでしまっている事実には、吾郎はあえて目を瞑る事にした。まだ今は、寿也に“合わせてやってる”振りを少し位しても良いだろう。これ位の余裕は見せつけておかないと『大人』の立場がないというものだから。




happy end and epilog□□□