□□□先生の彼氏□■□7



「起立――。」

軽やかなチャイムと、挨拶の声で寿也の思考は破られる。

『じゃあ、みんな教科書を開け。この前やったところの続きから始めるぞ』
中年の教師が教科書を捲り、黒板を擦る白墨の音が響く。読み上げられる例文に、寿也は無理矢理に自分の頭を切り換えようとした。

(何を悩む必要があるんだ―――。俺があんな質問に答える義務なんてないはずだ。)


『じゃあ、教えろよ。お前こそなんであんな事をした?』


手に入れたいだけだった。
でも、そんな子供じみた理由で彼は納得するだろうか。自分だったら、殺してやりたいほど許せない行為をされたのに、あんなにあっさりと接してくる吾郎の態度も理解できなかった。
現段階では説明する事すら出来ないけれど、もし質問に答えを出したなら彼はどうするのだろう。


―――自分に手を伸ばしてくれるのだろうか?


「な・・・!にを・・・」
「お?佐藤、珍しいな。何か質問でもあるのか?」
辿り着いた思考のあり得なさに思わずあげた声が、運悪く聞こえてしまったらしい。教壇の上から声がかかった。教師達に受けの良い自分の事だ、授業中に全く違う事を考えているなんてこの教師だって夢にも思っていないのだろう。
「すいません。ちょっと、その例文の訳について疑問点が・・・」
微かに恥ずかしげな笑みを浮かべて、黒板に書かれた問題を尋ねると、何の疑いも見せずに嬉々とした表情で教師は応えてくれる。それに礼を返しつつも、寿也の思考は再び目の前とは違う所に沈み込んでいた。

これが、今の教師が、吾郎だったらどうなっていただろう―――と。

(な、何、馬鹿な事を考えてるんだ!!あいつだって他の連中と少しも変わらないだけだ)

今度こそ動揺を表に出す事こそ無かったが、状況が改善されたとは一向にいえなかった。どんなに色々な方向に思考を散らそうとしても、最後は必ず彼に帰結する。それは認めたくはないが、ある事実を現している事を寿也は気づき始めていた。

(だって、今更気づいたところで手遅れだろう・・・)

始まる前から関係を壊してしまったのは寿也自身なのだから。自分の感情を自覚した時には、全てが終わっていたなんて笑い話にもなりやしない。
その時、ふいに自宅を去る時に吾郎が口にした言葉を思い出した。

『待っててやるから。』

「ま、さか・・・」
そんな都合の良い事があるわけなんかない・・・

あれは彼が『教師』で、自分が『生徒』だったから口にした言葉だ。それ以上でも以下でもある訳がない。ただの義務感からでた台詞だ。
頭の中で必死に否定しながらも、その一言に縋り付きたいと思っている自分にも寿也は気がついていた。
あの言葉の真意を確かめる術はある。
それ自体が一つの賭になるかもしれないが、今の寿也にとって、方法はそれしか残されていないように思えた。





□□□



西日のために間延びした机の影は、奇妙なオブジェめいていたが、放課後の教室には良く似合っている。



約束の時間より5分は早かったが、教室に人影は一人分しかなかった。


「佐藤・・・?」
呼びかけに応える声はなくても、机に腰をかけた後ろ姿は間違いなく寿也だった。手の中でくしゃりとつぶれた紙が滲んだ汗を吸い取ってくれる。

「全く。お前、成績は良いくせに、手紙の書き方はワンパターンなんだな」
手紙に書かれていたのは場所と時間と、思いの外丁寧に綴られた、でも短い言葉。余裕ぶって出すつもりだった台詞が微かに掠れていて、吾郎は、自分でも驚くほど緊張していたのに気がついた。

「・・・そんなの、関係ないじゃないですか」

「俺に、どうしろって言うんだ?」


『全てを忘れるか、受け入れるか。』

手紙に書かれていた文句は、要約すればそんな所だ。しかも、選択権は吾郎に与えるという。それが寿也の『優しさ』などという感情から生まれた物でないのは判っている。試されているのは感じたが、それに不快な気がしない自分にも、いい加減呆れて良いだろう。

「だから、最後の選択は先生にまかせますよ」

突き放すような言い方に相応しい、凍える瞳に吾郎は身震いを覚えた。でも、それは恐れからくるものではない。

むしろこれは―――きっと、喜びに近い。

(俺しか―――、俺しか佐藤のこんな表情(かお)を知らない。)

それは教師としてあるまじき感情かもしれない。
でも、寿也と二人で向かい合うこの瞬間。ジグソーパズルの最後の1ピースが嵌るように、ことりと吾郎の心の中に落ちてくる物があった。これで今までの自分の苛立ちも、衝動も、その全てを納得することができる。

(だって、そうじゃないか。)
自分に挑むような瞳を向けてくる寿也の表情は、暗く、冷たい。でも、何か苦しみに耐えるような色も隠せないでいる。

(まるで、傷ついた事を隠せないただの子供(ガキ)だ。)

向けられる視線の奥底に、不安げに揺らめく暗褐色の光を見つけた瞬間、吾郎の思いの方向(ゆくえ)はもう決まっていた。それは、すでにこの場所に来た時点で決まっていた物だったかもしれないが。本当に認める事ができたのは、この場の、この瞬間での事だった。
そして、決まれば後は腹をくくるしかないのだ―――。

「だったらとことん付き合ってやるよ、お前が納得するまでな」
「・・・先生、自分が何を言ってるか判っているんですか?」

睨むような光が、いっそう鋭さを増した。
突き通すような視線を軽くいなして、吾郎は繰り返す。

「俺の事が信じられないか?」
自ら望んだ物を否定する。その矛盾に気づかないのか、言葉を連ねる寿也はひどく歪んだ笑みを見せた。

「僕が納得するまでなんて、無責任な事が良く言えますね。そんな事信じられる訳が無いでしょう?」
『汚い』と吐き出すように呟いた瞳は、さっきよりも更に傷ついたように見える。
吾郎から、一歩引くように身体を丸めた寿也を見た途端、無意識に手は伸ばされていた。


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