□□□先生の彼氏□■□6






居間に通されて、少し草臥れているが清潔そうな座布団を勧められる。そんなに気遣いをしないでくれと頼んだ時には、小さい盆の上に淹れたての茶と、ふっくらとした饅頭が載せられていた。
柔らかい温度で淹れてある濃いお茶に、甘みの強い餡が舌に嬉しい。勧められるままに饅頭を頬張り、茶を啜っていると低い声が後ろから響いてきた。

「・・・なんで、先生がここにいらっしゃるんですか?」

一瞬、詰まりそうになった饅頭をお茶で流し込む。
振り返れば、あの夜に比べれば相当にラフな格好をした寿也が立っていた。一見するには、体調が悪いようには見えなかったが、機嫌の方はそうもいかないらしい。視線に至ってはこの前から最低温度を更新中だったが、今日は少なからず動揺しているようにも見えた。

「あなたの事を心配して、わざわざいらっしゃったのよ」

「・・・・・・それは、どうも」

吾郎に代わって祖母が寿也の質問に答える。それに対して何故か歯切れの悪い返事を返す孫の様子に、祖母は首をかしげた。いつもなら、もっと丁寧な応対が出来る子なのに、と、どこか釈然としない模様だ。そんな祖母と孫のやり取りを眺めてから、吾郎は声をかけた。

「まぁ、お前が元気そうがならいいや」

とりあえず、寿也の身体に支障が無さそうなのを確認すると、吾郎は満足げな表情を浮かべる。だが、その表情は寿也には安心感よりも、焦燥感にも似た感情を呼び起こさせた。自分の笑顔に、凍り付いたようにただ黙りこくっている
寿也を見て、吾郎はほんの少しだけ苦い物を笑みに混じらせる。
それが、また寿也の感情をどれだけ揺さぶっているかは気づかなかったが。

「・・・・・・」

「では、そろそろこの辺で失礼致します」

ごちそうさまと吾郎が手を合わせると、寿也の祖母が慌てて立ち上がった。先生、もう帰られるんですか?と言いながら、手近にあった菓子の残りを包んで吾郎に手渡そうとする。細やかな心遣いを見せる老女の目の端に、どことなく寿也と似ている箇所を見つけて、吾郎の顔が儀礼的でない笑みで綻んだ。

「じゃあ、遠慮無く」
と小さな包みを受け取ると、吾郎は軽く頭を下げて部屋を出る。その後は、外まで送ると言う祖母を部屋に押しとどめて、寿也が一人で玄関までついて来た。

「じゃあ、俺はこれで帰るからな。明日は学校来れるか?」
玄関を出て振り返ると、俯いたままの寿也に声をかける。すっかり日の落ちた軒先で、ぼんやりと見える拳の白さは、寒さのためだけではない気がした。

「・・・なんで」

「なんだ?」

「・・・なんで、そんな普通の顔してられるんですか?」

あー、と一瞬言葉に詰まったが、次の言葉を自分でも驚くほどさらりと、吾郎の口から答えは出てきた。

「俺にしても、・・・自分が良くわかんねぇんだよ。あんな事もあったしな」

『あんな事』

自分から話を振ったのにかかわらず、吾郎の口から出されたあの晩の出来事に、寿也の身体が僅かに強張ったのを感じる。そんな少し張り詰めた表情もひどく綺麗だと思ったが、吾郎も口には出さなかった。

「まぁ、・・・気にすんなよ」

軽く額を弾いてやると、今度は寿也の眉間にきゅうっと皺が寄る。

「気にするなって・・・先生、ひょっとして、そんな趣味があったんですか?」

緊張の中に、訝しげな色を滲ませて寿也が尋ねてくる。あんまりといえばな質問に、ここが人の家の前だと忘れて吾郎は思わず叫んだ。

「ねぇよ!!!」

「・・・・・・」

流石に吾郎の剣幕に驚いたのだろう、呆気にとられた表情の寿也だったが、また疑い晴れやらぬ顔で呟いた。

「じゃあ、・・・どうして」

「さっきから、なんで、とかどうして、とかガキみてぇに聞いてきやがって」

まぁ、まだガキなんだよな。と付け加えると、今度は寿也の方が意外なほどの勢いで喰い付いてきた。

「僕はもう、そんな子供じゃありません!」



「じゃあ、教えろよ。お前こそなんであんな事をした?」




「それは・・・・・・」

答えられないんなら、やっぱりお前は子供だよ。吾郎の真っ直ぐな視線に晒されて、寿也の顔が、それこそ幼い子供のように歪む。初めて見せられた年相応の顔を、吾郎は魅入られるように見つめてしまった。

(ああ、そんな顔すんなよ)

何故だか、寿也のその時の顔は吾郎の感情を底の方から揺さぶってくる。

甘いような、
苦いような、
冷たく、
熱く、
激しい感情。

『これはもう、相当やばい状態かもな。』なんとなく自分の感情のベクトルが見えきて、笑いたいような泣きたいような、心中はなかなか複雑だ。人生あきらめが肝心ともいうが、そこまで悟れる程、吾郎も年をくっているわけではない。


「まぁ、いいや。思いついたら、そのうち教えろよな。期待しないで待ってるから。」

「・・・・・・」

それと、早く寝て風邪直しとけよ。そんなんじゃあ、あのバイトにも行けないぞ。と少しだけおどけて付け加えても、寿也の表情は変わらなかった。

「あんまり大人に心配かけるもんじゃないぜ。」
最後だけ、やけに教師ぶった口調で念を押して、それきり振り向く事もなく吾郎は帰っていく。背中を見つめる寿也の顔は、見なくても解っているというように。




□□□



自分の感情を上手く制御できない。

結局、月曜日しか欠席出来なかった。バイトの帰り、副担任と待ち合わせた後の事は、自分でもどうしてあんな事をしたのかは説明出来ない。
彼との待ち合わせまでの時間、急に自分の回りに群れだした常連客を相手に、取って付けたような会話を重ね。ようやくシフトを終えると、首に巻き付くタイを外すのももどかしいほどに、急いて約束の場所に向かった。そこで彼が待っている保証なんてありはしないのに。
それでも吾郎は自分を待っていた。
たとえ、それが教師としての義務感だけだったとしてもかまわなかった。

ただ、激しい感情に駆られて彼に触れる。重ねた唇から漂う慣れた香りは、たぶん店に置いてジンだ。ほどほど質が良いそれは、良くカクテルのベースに使われていた。
ふいに目蓋の裏を、透き通った液体に浮かぶ鮮緑の果実が横切って。アルコールの中に揺らめく、微少な芳香の粒。
気を許せばすぐにでも遠ざかってしまいそうなそれを捉まえたくて、自然と握りしめた力も強くなる。本気の抵抗さえ、少しも気にならなかった。

力任せに押さえつけ蹂躙する。
切れ切れに自分の行動を制止する声も聞こえたが、受け入れてやる気にはなれない。がりり、とコンクリートの壁に立てられた爪が痛そうだと思ったが、ただそれだけだ。地面にまみれた頬に黒い痕がついていて、そこに舌を這わせた。漏れた息は嬌声というよりも悲鳴だったのだろう。口腔を犯した時のざらりとした泥の感触さえも甘く記憶されている。

「・・・・・・信じない」

荒い息をつきながら見下ろした先で、それでも壊れない強い瞳があった。

「・・・貴方の言う事なんて、信じない」


(信じない―――、けれど離さない、―――これが、・・・欲しい。)


あの瞬間だけは、学校の事も仕事の事も、家の事も、恐れも、不安も、その全てが寿也からどこか遠くにあった。腕の中の吾郎以外は何もかもがどうでも良い。

自分の位置すら掴めないような深い酩酊感と、快楽。
それが、寿也にとってあの時間の全てだった。


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